第1話
穏やかな陽光が心地よい、昼下がりの午後。
ルカは見回りというひと仕事を終え、とある孤児院へと向かっていた。王都ローゼンシュタットの一角に位置するこの孤児院は、教会が併設された施設となっている。
「ん? 誰もいないのにゃ?」
いつもなら晴れ渡った空の下、楽しげな笑い声が響き、庭を駆け回る子供たちの姿があるはずだった。しかし、今日は珍しくその姿が見当たらない。
不審に思ったルカは、小首を傾げて周囲を見渡す。すると、風に乗って微かな旋律が耳に届いた。
「……この音は?」
ルカは耳をそばだて、その音色に導かれるまま、礼拝堂へと足を進めた。
礼拝堂には木製の長椅子が整然と並べられ、その先には厳かな祭壇が鎮座している。
祭壇の前では、黒い修道服に身を包んだ年配のシスターが、ピアノの鍵盤を弾いていた。その旋律に合わせて、幼い少年少女たちが元気よく歌っている。
「まだまだ下手っぴだにゃ」
子供たちの歌声はバラバラで、合唱と呼ぶには未熟であった。けれど、ニコニコと楽しげに歌う姿は愛らしく、ルカも釣られて笑みを溢す。
薔薇を模したステンドグラスが、日の傾きと共に刻一刻と表情を変えていく。その優しくも鮮やかな色ガラスが室内を彩り、ルカはその中を静かに進んでいった。
「アフィ。今、戻ったのにゃ」
「お疲れさま、ルカ」
薄く色付く唇から紡がれる柔らかな声。とろりと甘い蜂蜜のような琥珀色の瞳。純白なリボンを飾る橙色の髪は腰を覆うほど長い。そして、その髪から覗く耳は尖っていた。
アフィことアプフェルは、ルカの主人であり、エルフと呼ばれる種族でもあった。
合唱を鑑賞していたアプフェルは、その双眸にルカを映し目を細める。
「庭にアフィの姿が見えないから、どうかしたのかと思ったのにゃ」
手招くアプフェルに迎い入れられ、ルカは身体のバネを使い椅子へ飛び乗る。
そして、主人に身体を擦り寄せると、甘えたようにその腕に尻尾を絡めた。
「ごめんなさい。子供たちが歌を聴かせてくれると言うから。怒ってる?」
「怒ってはないのにゃ。ただ、アフィの身に何かあったのかと心配しただけなのにゃ」
「心配性ね。私は、ルカを置いてどこにも行かないわよ」
アプフェルに抱き上げられたルカは、そのまま膝の上へ下ろされた。ルカは主人の温もりを感じながら、その優しい愛撫を受け入れる。
「王都の様子はどうだった?」
「最近、見知らぬ人間が出入りしているみたいなのにゃ」
「行商の人ではなくて?」
「名目上はそうにゃ。ただ、行商人というにはどことなく違和感があるとのことにゃ」
それは、王都に住む猫たちから上がってきた報告だった。
街中のどこにでもいて、どこにでも入り込める猫たちは、独自の情報網を持っているのだ。
「それはちょっと心配ね。何もなければいいのだけど……」
「祭りも近いから引き続き猫たちには、注意して監視するように伝えてあるのにゃ」
アプフェルの瞳が、不安げに揺れる。
王都で開かれる祭りが近いこともあり、観光や商売のために人の出入りが増える時期でもあった。
だからこそ、監視の目を光らせるように、指示を出している。
「それは頼もしいわね。じゃあ、もう少しこの歌声を楽しみましょう」
「はいにゃ」
アプフェルの提案を受け入れたルカは、主人の膝の上で丸くなる。そして、子供たちの歌声を子守唄に、そっと瞼を閉じた。
礼拝堂に響く歌声と共に、ゆったりとした時間が流れていく。
歌い終えた子供たちは、拙いながらも恭しい一礼を披露する。それから満足げな笑みを浮かべ、アプフェルの元へ駆け寄った。
「魔女さま、どうだったぁ?」
「じょうず、なったかな?」
「わたしね、歌うのすき!」
「ぼくも!」
「ふふっ。とても素晴らしかったわ。みんな上手くなったのね」
アプフェルの琥珀色の瞳が、子供たちを愛おしげに映し出す。
形の良い唇が微笑みを浮かべ、子供たちの丸い頭を一人ひとり撫でていく。すると、子供たちは嬉しそうに顔を綻ばせ、また照れ臭そうに頬を赤らめた。
「にゃっ!?」
気持ち良く微睡んでいたルカは、突然尻尾に走った痛み驚き、勢い良く飛び上がる。
気付けば数人の子供たちに群がられて、もみくちゃにされていた。
「待つのにゃ! 尻尾は掴んだらダメなのにゃ!」
「ネコさま、ふわふわ~」
「いっしょに遊ぼ!」
「ボク追いかけっこがいい!」
「だから、やめるのにゃ! 尻尾はデリケートなのにゃ!」
身を捩って子供たちの手から逃れようとするが、次々と増える子供たちに逃げ道を塞がれる。
ルカの叫びは、子供たちの楽しげな声に掻き消された。
せめてもの抵抗として尻尾を右へ左へと揺らすも、それすら子供たちには面白がられてしまう。
「ルカは人気者ね」
「アフィ! 笑ってないで助けるにゃっ!」
「まだ時間はあるのだし、子供たちの相手をしてあげて、ね?」
「ぐぬぬ……ちくしょー!」
「あまり遠くへ行ってはダメよ」
助けを求めるが、ルカの願いは聞き届けられなかった。むしろ微笑まれて、送り出されてしまう始末である。
悔しさのあまり、ルカは悲痛な声を上げながら走り出す。そうすると、背後から目を輝かせた子供たちが、追い掛けてきたのだった。
夕刻を告げる鐘の音が、王都に響き渡る。
太陽が西へと傾き、空が青色から茜色へ少しずつ移り変わっていく。
ルカは文句を言いながらも、甲斐甲斐しく子供たち遊びに付き合っていた。
「ルカ、そろそろ帰りましょうか」
「……にゃーい」
アプフェルの呼び掛けに応える、ルカの声音には覇気がない。
今まで庭の端から端まで追い回され、隠れんぼやおままごとの相手をさせられていたからだ。
少女の手からするりと抜け出し、背筋をしならせて大きく伸びをする。
固まった身体を解したことで、ようやく一息吐くことができた。
「魔女様、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、楽しい時間をありがとうございます」
シスターと挨拶を交わしたアプフェルは、若草色のワンピースドレスの裾をふわりと翻す。
そして、周りに集まった子供たちへ向き直った。
「ねぇ、魔女さま。また魔法みせてくれる?」
「いっしょにお花のかんむりも作りたいな」
「ネコさまもまた遊ぼ!」
「今度はボールがいい!」
「魔女さま、またね!」
「ネコさまも!」
子供たちは屈託のない笑顔で、それぞれささやかな願いを口にする。
これだけ慕われているのだから、ルカとしても悪い気はしない。
「ええ。みんな、またね」
「またなのにゃ。次会う時まで良い子にしているんだぞ。もし、良い子じゃない奴は喰っちまうにゃー!」
「わー!」
「にげろー!」
ルカが大きく口を開いて見せれば、楽しげな悲鳴を上げて、子供たちは一斉に逃げていく。
まだまだ体力の有り余った様子に、ルカとアプフェルは顔を見合わせて笑い合った。
「行きましょうか」
「はいにゃ」
無邪気に手を振る子供たちとシスターに見送られ、アプフェルとルカは修道院を後にした。
■ ■ ■
王都郊外の森へ入る頃には、辺りはすっかり夜の静けさに包まれていた。
アプフェルが取り出したランプの縁を指で軽く弾くと、魔法による優しい光が灯る。
王都からの明かりが届かない森の中を、ランプ一つで迷いなく進んでいく。
警戒のために立てたルカの耳が、時折森の中の物音を拾いピルリと動くが、至って平和なものであった。
「遅くなってしまったわね」
「ボクはもうクタクタなのにゃ」
穏やかな笑みを浮かべるアプフェルとは対照的に、ルカの表情には疲労が滲んでいる。
何故子供というのは、あんなにも疲れ知らずなのだろうか。
次から次へと変わっていく遊びに振り回され、ルカは目まぐるしい時間を過ごした。
「子供たちにたくさん遊んでもらっていたものね」
「違うのにゃ。ボクが遊んであげたのにゃ」
「ふふっ、そうね。子供たちも喜んでいたわ」
楽しげに微笑むアプフェルを一瞥すると、ルカは大きく溜息を吐く。
「ボクの助けを無視して、アフィは楽しそうでしたね?」
「それはごめんなさい。でも、悪気はなかったのよ。ただ、ルカと子供たちが戯れる姿に、癒やされようとしただけで……」
「だからって、ボクの扱いが酷過ぎるのにゃ。折角の毛並みがボロボロなのにゃ」
艶やかな毛並みをぼさぼさにされたルカは、不貞腐れていた。
主人の使い魔として恥ずかしくないように、日々の手入れを欠かさなかった自慢の毛並みであったからだ。
ルカかいじけた様子で歩いていると、柳眉を下げたアプフェルが伺うように口を開く。
「頑張ってくれたルカに、帰ったらブラッシングをしてあげるわ。だから、機嫌を直してくれないかしら?」
「!? むむっ……お風呂にも入れてくれるのなら許してもいいのにゃ」
「ええ、いいわよ」
「約束なのにゃ!」
約束を取り付けた途端、先程までの疲弊した身体が嘘のように足取りまで軽くなる。
表情まで緩んでいることを自覚しながらも、ルカは楽しげに鼻を鳴らす。
だが、機嫌よく鼻歌交じりに歩いていたルカは、隣を歩いていたはずのアプフェルがいないことに気付く。
「アフィ?」
不思議に思ったルカは歩むスピードを緩め、主人を振り返った。立ち止まっているアプフェルの視線を追い、同じように頭上を仰ぐ。
そこには雲ひとつない晴れ渡った夜空に、満天の星が瞬いていた。
そして、天高く浮かぶ青白い月が一人と一匹を照らしている。
「私ね、この森から見る夜空が好きよ。星がこんなにも綺麗に見えるもの」
「少し前まで夜空を楽しむ暇がないほど、忙しくしていたからにゃ」
「忙しくても、充実はしていたのよ。でも、今はこうしてルカとゆっくり星を眺めていられる。一緒に見た故郷の夜空を思い出すわ」
感傷に浸るアプフェルを横目に、ルカはエルフが暮らす精霊の森で見た情景を思い出していた。
頭上に輝く星も、自然豊かな森も、故郷によく似ている。違うところと言えば、人間の多さだろうか。
「二百年くらい前のことになるかにゃ?」
「そうね。随分遠い所まで来てしまったわ」
「ボクはアフィと一緒なら、それだけで十分幸せなのにゃ」
――バサバサッ
何気ない会話を交わしていると、一陣の風がアプフェルとルカの間を吹き抜けた。
鳥たちが一斉に羽ばたき出し、身を潜めていた小動物たちも森の奥へと逃げ出していく。森ではよくあることだった。
野生動物の本能が、身の危険を感じ取ったのだろう。
ルカも肌で感じた異変を警戒するために、注意深く耳を立てる。すると、吹き荒ぶ風に混じり魔獣の咆哮が聞こえてきた。
「魔獣が出現したようなのにゃ」
「行きましょう」
真剣な顔つきとなったアプフェルに応えて、ルカは胸元の精霊石へ魔力を集中させる。
輝く精霊石に呼応し、足元から燃え上がる蒼い炎が小さな身体を包み込んでいく。
そして、徐々に増していく炎の中から現れたのは、小柄な黒猫ではなく、大きく逞しい肢体を持つ黒豹だった。
「乗れ」
ルカはその大きな体躯を低く伏せると、アプフェルに背中へ乗るよう低い声で促した。人の足で走るより、はるかに速いからだ。
背中に腰掛けたアプフェルが、黒く艶やかな毛並みを撫でながら声を掛けてくる。
「ルカ、お願いね」
「あぁ。しっかり掴まっていろ」
蒼い炎を纏う四肢が力強く大地を蹴る。
木々の合間を縫うように大地を走っていた四肢は次第に宙を掻き、夜空を駆け上がった。