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学問とは

 学問とは何のためにあるのだろう。私と同じ学生の諸君は机に向かいシャーペンや鉛筆を握りしめながら、そう思ったことはないだろうか。苦しくて、辛くて、大学での生活を実現するためにするものだと思ってはいないだろうか。また、大人の皆様もリスキリングとは言うものの何のために学生の時に散々苦しめられたのにもかかわらず、わざわざ大人になっても学問をすることを国権が喧伝するのは何のためだろうかと思ったことはないだろうか。また、金儲けの手段であり、生産のための方法に過ぎないと思ってはいないだろうか。

 この疑問は人として当たり前のことだと思う(社会不適合者の私が言うのもどうかと思うが)。この問いは尊いものだと私は思う(醜男の私が言うのもどうかと思うが)。ではこの問いの答えは、この疑念の答えは何だろうか。我が師と会話して得たことを皆様に述べられたらと思うばかりである。

 そもそも、学問の始まりは何だろうか。私は哲学か神学だと思うが、このような不確かなことを述べるのは私の倫理が許さない。だが、最近何故か渋沢栄一の描かれた紙が紛失し、そのくせ伏見へと行き、稲荷の御社とその御山の上に密集する数多の御塚と、御山の南方にある寂びて信仰も絶え絶えとなった大岩神社を伏し拝んだために、交通費やその他諸々で多くのお金を使い、梅田で行われているアニメのPOPストアに行き何千円もの大金をお金の流転の波に捧げたがために、手元に本を買う余裕はない。しからば、本を買って読むことはできない。だから、せめてと思いネットで調べた。

 そうしたら、早水勉氏が『月刊星ナビ2018年5月号』に寄稿した記事にあたり読んでみると「天文学は、歴史上最も早くから発達した科学と言えます(早水勉,2018)。」との記述がある。確かにエジプト、インダス、メソポタミア、マヤなどの多くの古代文明が天文学を開闢して暦を作り、文明の花を咲かせた。これは、「暦を作るため」という人間が生活するための”手段”として天文(学問)を行ったということだ。実際に、先ほどの記事では「それは、生活のため、中でも農作のために暦を開発し、交易のために方角を知る必要から生じたものです。」との記述がある。また、他にもその記事によると、古代メソポタミアの天文が古代ギリシア世界に入り、星座が神話と結びつき、古代ギリシアの文化が興ったというような記述がある(早水勉,2018)。これは古代メソポタミアの天文の”生きるための学問”というコンテクストを超えて、新たなるコンテクスト-すなわち”美を愛でる学問”-を古代ギリシアの天文は含んだ。そうして、アリスタルコスやプトレマイオスなどのように古代ギリシアの天文学者は宇宙の姿を想像して美を追い詰めた。こういうコンテクストの学問が古代ギリシア・ローマへと続いた。

 また、天文以外に古い学問ならばやはり哲学・神学と言えよう。哲学は中国では儒学・道家思想・法家思想・墨家思想などの多くの哲学、ギリシアではイオニア学派・ピタゴラス学派・ソフィストの相対主義・ソクラテスの「無知の知」など・プラトン主義・ストア派・エピクロス派などのギリシア哲学、古代ローマではキケロ・セネカ・マルクス=アウレリウス=アントニヌスなどの著名な哲学者が多くいた。中国は秦代では李斯の法家思想が主流だったが、ほかの時代は主に儒学が盛んであった。唐代までは『論語』の解釈を考える訓詁学が盛んだったが、宋代以降は周敦頤の『太極図説(周敦頤が陰陽五行説を発展させて形成した宇宙論)』、朱熹の朱子学(理性を重視する儒学)が栄え、その後、王陽明の陽明学(精神を重視する儒学)が優位になるも精神を重視するため学問体系を築くことができなかった。そして考証学(根拠を明示して論証した儒学)が清代初期に栄えるも、清末には公羊学派(孔子が書いた『春秋』を公羊伝で解釈する儒学)が大成した。西欧ではキリスト教がローマ帝国の時代に伝わり、コンスタンティヌス大帝のミラノ勅令によりキリスト教の認可がされるとニケーアの公会議などの幾つかの公会議でキリスト教の教義を統一した。その後時代はインノケンティウス3世の頃にローマ教会という権威が政治から文化に至るまでにその権力を及ぼすほどになったあと、キリスト教が西欧では支配的になった。アベラールの唯名論(普遍的な概念が存在しないという考え)とアンセルムスの実在論(この世の中は神の御業と考え、この世には真理が存在するという考え)ができて普遍論争がヨーロッパ内で起こった。その後トマス・アクィナスがスコラ哲学(理性と信仰の融合を行う考え方)を作り、その後フランシス・ベーコンのように学問の方策論を探り、最終的にスコラ哲学を廃し、近代のニーチェなどへとつながり、バタイユ、そして、ミシェル・フーコーのいうポスト構造主義へとなっていき哲学は現代へと行きつく。ここで大事なのは真理が存在していようがしていまいが私たちの普段の生活には何ら影響しない。ニーチェは「超人」という概念を提唱したが、「超人」になったところで、人々の生産性が上がることはない。バタイユが幾ら「エロティシズム」や「暴力」、「悪」について考えたってこの世の工業に全くの影響を与えない(しいて言うならば、出版業が若干儲かる程度だろうか)。即ち哲学は生産や金儲けに関係がない。だから、即物的思考(学問が生産やお金を稼ぐことにつながるという考え)では、この哲学というのは行う意味はない。だが、哲学というのは人間の学問の中でも天文と同じように古い学問だ。ここで、一つの疑念に辿り着く。なぜ哲学は古くから存在するのかと。しかし、それは考えるまでもない。彼らは考えることが好きなのだ。そして、考えて得た”知”は彼らの見る世界を彩っているのだ。彼らは研究で得た”知”を本という媒体で世にばらまき、私たちの手元にその哲学が届き、私たちの見る世界も彩って見えるのだ。そして、グリザイユな世界のなかで哲学を知って得た彩りこそが哲学が追い求める”美”である。

 さて、近代以降になると自然科学、人文科学、社会科学を問わずあらゆる学問が加速度的に増えていった。特に自然科学はその変容は著しい。例えば、生物学ではチャールズ・ダーウィンが彼の書『種の起源』で主張した進化論が公に認められるとその”進化”がなぜ起こるかという所に注目されていく。そして、数多の研究の果てにエイベリーが肺炎双球菌を使った実験(俗にいうエイブリーの実験。なお、当方は文系世界史選択のため詳しい説明については各自調べて頂きたい。)でDNAが遺伝子であることを突き止めた。これ以降、生物学はDNAの研究へとなっていき様々な生物のゲノム解析などが行われ、5界説は廃れ(原核生物界を除き真核生物ドメインの分類法に使われている)、3ドメイン説が主流となった。また、系統が詳しく分かっていなかった原生生物界も細かく分けることができるようになり、スーパーグループという新しい概念が生まれるようになった。

 だが、皆様。原生生物界を細かく分類できるようになったからって、生産は上がるだろうか。いや上がらない。しかし、スーパーグループのグラフを見てほしい。この複雑な系統図。どこから始まりどこにつながるかも分からない系統図。これが、美しいと思わないだろうか。これを永遠と研究すること。生産や金儲けを主軸とおかずに自分のやりたいことを、不思議に思ったという疑念を突き通してきた。そして、この美しい系統図をこの世に顕現することができたのだ。また、美を追い求め、DNAが遺伝子であるという事実に辿り着き、分子生物学が開闢した。この末にゲノム編集や遺伝子組み換えと言った生産のための技術を生み出すこともある。そして、これらの技術が人類を救う可能性があると現代では注目されている。

 ここで大事なことは、美を追い求めることの尊さになる。先ほどの生物学であれば何の変哲もない木の葉を見ても光化学系からのカルビン・ベンソン回路への流れを夢想して興奮する。それはユニバのジェットコースターをも凌ぐ。また、木にへばりつく地衣類なども見ると菌類とシアノバクテリアの共生が一個体の中で行われていることに感動を覚えることさえあるだろう。歴史学も知れば絵画であれ、関ヶ原の荒涼とした原っぱであれ、森にしか見えない近所の古墳であれ美しく見えるのだ。それは金剛石以上のものだろう。私は好きではないが数学も全てのものを数式で表現する。その表現のための塗料として数を自由に扱うのだ。数学者はそうして出来上がる法則や公式と言った”真理”に美を思うのであろう。

 そして、何より美を生み出す”知”こそが、それを知るための”学問”こそが最大の娯楽である。学問のための研究をするときなどは誰も知らない”ミチ”を自分の持つあらゆる”知”を以てして世界全体の”知”を拡大する。そして、道の果てにある未知という目的地に辿り着いた時に、底知れぬ快感を覚えるのだろう。我ら草の根の市民はそこまで大変なことをすることは無理でも、学問に於いて判明した数々の真理を知るだけでもこの世界は大きく変わって見える。グリザイユな現世がカラフルな桃源郷に見えるのだ。真冬の荒野が花が咲き誇るかのように変わって見えるのだ。

 例えば、気象を学び天を見よう。すれば、雲一つ一つが綺麗に見えるだろう。そして、ただの白いだけの物体が宝玉のように輝くのだ。地質学を学ぼう。足元にある大地の下。奥深くにある地層を思い起こし、その重くのしかかる歴史を肌で感じ、地下に多くの可能性を夢想するのだ。天文学を学ぼう。夜空に煌めく星々を知るだけで、宇宙という途方もないほどに広がる空間の中に無限の可能性を見出すのだ。科学を学ぼう。その辺に転がる物質を本質的に知ることは、その辺に転がっている数多の物質の”美”を築くことにつながるかもしれない。物理学を学ぼう。エネルギーという概念もまた不思議だ。坂道を転がり落ちるときなどもエネルギーという概念がこの世を動かしているという気付きへと導き、なにか大きな力が、そういう法則がどこかで今も働いている。その働きも数式で表せる。人によっては神秘的であろう。生物学を学ぼう。複雑な生命機構は端的に言えば神秘である。スコラ哲学的な言い方もよろしくはないがまるで、神が生み出したかのようにも見える。カルビン・ベンソン回路、クエン酸回路、受精後の個体の発生、レトロウイルスによる遺伝子の水平遺伝及び内在性レトロウイルスなどのようなものはある種の美を兼ね備えている。池でプランクトンネットを投げるだけで無数のプランクトンがベースとなり生態系が組みあがっていくことを知る。その環境の複雑さも一つの美だ。少なくとも、鳥の名前を少し知るだけでも、魚の名前を知るだけでも、その辺の雑草の名前を知るだけでも世界が色彩を持つようになるのだ。数学を学ぼう。大方のものを数字や式に表すことができるのだ。

 経済学を学ぼう。グラフ上に表された経済という生物のように動く不思議な概念。これを人間はどこまで自由に動かすことができるのだろう。そう思うこともあると思う。地理学を学ぼう。自然と人間の間の関係性をそこから見出し、人間が自然の中に組み込まれていることを知るのだ。歴史学を学ぼう。自分の存在が大きな物語の中に組み込まれており、その大きな物語を遡れば、人類の疑問を多く解消することができることに驚くだろう。また、様々な本や絵画と出会うときに歴史の素養があればその価値や面白みを十二分に気付くことができるだろう。古典を学ぼう。古き文化と出会いそれを学ぶことは”知”を拡大するのにとても役に立つ。読める物語が多いのは、娯楽が多いという意味で考えると、とても幸せなことだ。語学を学ぼう。言語は人間がだれでも持っている基礎的なコミュニケーション手段だ。この言語というのは世界中に数えられないほどある。この言語という概念は地理的な要素とくっつき、人類の大移動の時代の頃の名残がかすかに残る。この言語の系統を比較言語学で解き明かすこともできる。そして、この言語を知ることは外国の文化を本質的にするうえで玄関となるはずだ。

 このように学問は世界を彩を与える効果がある。このように学問は何よりの娯楽である。大金を払いきらびやかなテーマパークに行くのもありかもしれない。しかし、もっと格安で、もっと上質な経験を、感動を、もっと身近なところで感じることができる。それはなるべく多くの学問を学び、少しだけでもいいから外に出ることだ。すれば、世界はもっと色づいて見えるはずだ。もっと世界は美しく見えるはずだ。”知”とは”学問”とは人生と言い白黒で殺風景な人生という荒野に道を開き、色彩を与え、活気ある人生を安い値段で送るためのコツであるのだ。だからこそ、ガリレオ・ガリレイやジョルダーノ・ブルーノらはその”美”のために死を誓ったのだ。そして、「学問の意義」とは何度も話しているはずだが、結局のところ世界を美しく見るためにあるのだと私は信じている。

《参考文献》

早水勉、2018年「エーゲ海の風」『月刊星ナビ2018年5月号』(https://www.astroarts.co.jp/article/attachment/20520/aegean01_1805.pdf)

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