一般的な一般人による決起宣言
諸君。私は一介の草の根の市民にすぎない。そんな人間が匿名で何を言い出すのかと思ったら反道徳主義の啓蒙のようなことをしだしたのだ。何だ、中二病か。まぁ、否定はしない。しかし、若さ故か今の思想を、私のラディカルな考えを述べるならば、「反道徳」と言えるだろう。
そもそも、道徳というのは法とは違い明瞭ではない。道徳というのは人によっても変わるし、誰も認可も何もしてないのにすぐに変わる。これでは、法律上問題もない上にこれを違反したところで社会に悪影響を及ぼすこともないようなものであっても、その道徳が社会的、科学的に非合理的であったとしてもみんな順守する。なぜなら、それが”道徳”により禁止されているからだ。
これは思考を停止しているとしか言いようがない。思考停止は民主主義や学問上の脅威に他ならない。民主主義や学問はあらゆることを疑問視し、それを再考しようとするところから始まる(デカルトの方法論的懐疑)。しかし、道徳には方法論的懐疑を適応することはできない。なぜなら、道徳に懐疑的になること自体が”反道徳”になりうるからだ。
さらに、明瞭に定義されていない”道徳”を犯し、”反道徳”だと断定されると、社会から排斥されてしまう。これは本来自分に課すための”道徳”を他者の攻撃を正当化するために使うからに他ならない。ここで問題になるのは不明瞭で何が”反道徳”になるか分からないのに、”反道徳”とされたら即座に社会から排斥される。法に反するわけでもないのに。
それでも、私は”道徳”を懐疑して、再考する姿勢を貫く。現行の道徳を金剛石のようにありがたがってはならない。少なくとも私は道徳をありがたがらない。私は私で私の道徳を建設する。その為にも学を行う。無論、現行の道徳に糞尿をかけようとするものではない。私はただ、道徳を再考し、それが許容する範囲を拡大し、社会を変革する。常識を考え直す。これこそが、私の唱える”反道徳”である。
ここで宣言する。国家・社会を、改良するために私は”道徳”に疑念を呈し、自身の道徳を建設し、それを文にして、ここに寄稿して、道徳の再考を行うことを宣言する。