竜の庵とその周辺 「人生の目標」と炎竜退治
無抵抗の意思表示の為に、ティノは座ったまま、アリスを見上げました。
そして、本能が引き裂かれました。
ーー竜。
存在そのものが異なるのです。
絶望、という言葉が嘆き悲しんでいます。
生殺与奪どころか運命まで握られてしまっています。
「……っ」
意思疎通ーーティノは、そんなことを考えていましたが。
話し合いというものは。
同格との間で行われるからこそ、意味があるのです。
生物として、圧倒的に下位であるティノ。
成立させる為には。
アリスに妥協してもらう必要があります。
ーー切っかけ。
ティノは切望しました。
このままでは駄目です。
たった一つで良いのです。
何か、縋れるものが、拠り所となるものが必要でした。
そんな枯れ果てるようなティノの意識に、芳醇なるお酒が注がれます。
「ひっひ~、ひっひ~、ティ~ノ~、ひっひ~だ~っ!」
そのまま酔っ払い、酔い潰れることができたなら、どれ程幸せなことだったでしょう。
とっちり者のティノを置き去りに。
アリスを指差し、イオリは必死に訴えかけます。
イオリに言われずとも「ひっひ~」ーーアリスが炎竜であることはティノにもわかっています。
イオリが訴えかけていたのは別のことなのですが。
アリスの眉が危険な角度になったことに気を取られ、ティノは気づくことができませんでした。
イオリをとめるべきなのか、そうではないのか。
残った時間の砂粒は、それほど多くはありません。
天秤の片方には「命」が載せられています。
どちらを選ぶのか、ティノが二択で迷っている間にーー。
「悪かったわね、小突いてしまって。そんなつもりはなかったのだけれど、体が勝手に反応してしまったわ」
「ひっひ~、やめろ~、ティ~ノ~、ひっひ~だ~っ!」
「誰が、ひっひ~、よ。私の名前も覚えていないのかしら?」
イオリの首根っこをつかんで、自分の顔の高さまで持ち上げるアリス。
さすがは竜。
仔猫をつまみ上げるかのように、軽々と持ち上げています。
ーー竜の戯れ。
そうは見えませんが、イオリとアリスは仲良しなのかもしれません。
そうでなかったとしても、知り合いではあるようです。
「え~と?」
ティノの理性は、昏迷の度合いを深めました。
ーー地竜と炎竜。
伝説に謳われる存在が二人、いえ、二竜。
「角無し」のイオリと、三本角のアリスが普通に会話をしています。
頭がどうにかなってしまいそうです。
それでも、この状況をどうにかできるのは自分だけ。
悲壮な覚悟を決めたティノは、何度も何度も、その言葉を刻みつけます。
「……あの、ひっひ~さん?」
場の雰囲気を和ませようとしたティノですが。
冗談が通じる相手ではありませんでした。
「こんがり焼くわよ」
薔薇のように咲き誇る笑み。
恐怖と艶やかさと、絶望と華やかさを糾える、稀有なる麗人。
再び、アリスから魔力が溢れだし、ティノは「こんがり焼かれた」自分を想像してしまいました。
「で。コレ、何」
イオリをティノに向け、アリスは尋ねてきました。
「はい。イオリです」
焼かれすぎて半分ほど炭になってしまった、ティノの口は。
勝手に動いて、素直に答えてしまっていました。
「イオリ? イオリねぇ。イオラングリディアではないの?」
「イオリは~、イオリだ~、ひっひ~は、ひっひ~だ~っ!」
「……よくわからないけれど。とりあえずコレは、イオリ、と呼んだほうが良さそうね」
突破口が見えました。
困惑したアリスの魔力は鎮まって。
切っかけがーー会話の糸口が見つかったのです。
ここが正念場です。
この好機を逃したら、軟弱なティノ精神はもう持ちません。
唯一の希望に縋って、ティノはアリスに話しかけました。
「アリスさ……」
「ティ~ノ~、ひっひ~だ~、イオリの~、ちからうばった~、ひっひ~だ~っ!」
細やかな希望は、イオリの一言で、もろくも崩れ去りました。
どうやら、先程からイオリがティノに伝えようとしていたのは、このことだったようです。
何ということでしょう。
「庵」から旅立つ前に、倒すべき相手が遣って来てしまったのです。
「えー?」
ーーイオリの力を奪ったアリス。
ーー「人生の目標」。
ーーアリスから力を奪い返す。
ティノの頭の中で、言葉が駆け巡ります。
ーーイオラングリディア。
彼女とーー。
最後に辿り着く場所は。
「魂のすべて」。
ティノの答えは、初めから一つしかありません。
彼女を心に。
アリスを見てみれば。
炎竜の魔力など、障害にもなりません。
当然、誤解というか錯覚なのですが、イオラングリディアが係わっているとなればティノは。
周期頃の少年らしい、無鉄砲さを発揮します。
でも、それで勝てるほど、竜は甘い存在ではありません。
「あのねぇ、イオリ……」
「アリスさん。僕と戦ってください」
「おー! ティ~ノ~、ひっひ~を~、やっちゃえ~っ!」
ーー避けられた戦い。
アリスの表情を見逃したティノは、その機会を永遠に失ってしまいました。
「ーーそう、私と戦うというのね。……面白い、面白いわ!」
戦いを挑まれ、これを拒絶する炎竜など存在しません。
竜の中で、最も苛烈にして鮮烈なる暴威。
最高火力。
そう言わしめる炎竜が、今まさにその力を解き放たんとーー。
「というわけで、僕が攻撃をするので、アリスさんは反撃しないでください」
「……は?」
もしかしたら。
有史以来、炎竜を呆れさせた人間は、ティノが初めてだったかもしれません。
ティノも馬鹿ではありませんーーたぶん。
そんなわけで一応、策は考えてあります。
間抜け面でさえ魅力的なアリスが、あっけに取られている内に。
ティノは、更に畳みかけました。
「僕が攻撃をして、アリスさんに傷をつけられたら、僕の勝ちです。アリスさんが無傷だったら、アリスさんの勝ちです」
「馬鹿ね。そんなもの、勝負になるはずないじゃない。『人化』したこの状態で、手を抜きまくっても、私の髪の毛一本、傷つけることは敵わないわ」
人間と竜との間に横たわる、現実。
そんな残酷な事実が、アリスの炎に冷や水をかけました。
しかし、アリスの炎が消え去る前に、ティノは燃料を投下します。
「おや? 炎竜ともあろう御方が、戦わずに降伏なさるのですか? では、僕の勝ちということで、『お願い』を聞いてください」
「苛烈に燃やすわよ」
ーー須臾。
空気が焼けました。
いえ、世界が焼け焦げました。
激烈なる魔力で、空の雲が消し飛びます。
ほんのわずかに残ったアリスの理性が、仕事をしてくれました。
魔力を空に放っていなければ、「結界」ごと火の海でした。
「僕は、勝てない戦いに勝ちます。勝負にならない戦いに勝つからこそ、竜の譲歩を引きだすことができます。ーーアリスさんは、存分に手を抜いてください。勝つとわかっている勝負ほど、つまらないものはありません。僕にとっての勝機とは、炎竜のーーアリスさんの油断です」
「ティ~ノ~、ティ~ノ~、ティノティノティ~ノ~」
ティノの説明をまったく理解していませんでしたが。
イオリはティノ勝利を確信し、底抜けの明るさで応援します。
「ひっ、ふひひっ」
愚かな人種と、クソ地竜。
頭に浮かんだ言葉とともに。
アリスは衝動のままに、イオリに頭突きを食らわせました。
「ぱはっ!?」
「……頭が固いのは知っていたけれど。やっぱり硬くもあったのね」
地の国から這い上がってきたような言葉でした。
鉄が砕けるような、大地を劈く轟音。
イオリの額は赤くなっていただけですが、アリスの額は割れて流血していました。
刹那に。
血は炎に焼かれ、傷口は。
まるで始めから存在しなかったかのように、跡形もなく消え去ってしまいました。
「いいわ。あなたの挑発に乗ってあげましょう。『結界』は使わない。竜の力は使わない。ただ、魔力のみにて防いであげましょう!」
「はい。言質を取りました。もう、引っ込めるのはなしですよ?」
「ーー暗竜マースグリナダに誓って、竜に二言は無いわ」
「はい。では、準備をしてくるので、待っていてください」
「……は?」
もしかしたら。
炎竜を二度も呆れさせ、生きていた人間は、ティノが初めてだったかもしれません。
「痛いの痛いの、風~竜~っ!」
「おー! ティ~ノ~、ティ~ノ~、なおった~っ!」
ティノは、イオリの額を摩ってから。
アリスに首根っこをつかまれたままの、イオリを抱き締めました。
アリスの手が緩んだので、ティノはイオリを奪い返してから「庵」に向かいます。
揺るぎない、確固たる歩みに見えますが。
当然、ティノの心臓はバクバクです。
振り返って、アリスの表情を確認したいところですが、恐怖で首はまったく動いてくれません。
「ふぅー。……イオリ、あれをやるから、準備をお願い」
「おー! イオリとティノで~、ひっひ~をぶっとばっ!?」
「庵」の奥の棚に向かったイオリは、いつも通りに転びましたが、構っている余裕はティノにはありません。
一人で起き上がったイオリは、棚の奥にしまってある「取って置き」を取りだします。
壊れた棚の切片が当たりましたが、「取って置き」には傷一つついていません。
「さて、と。先ずは『刻印』からかな」
中途半端なことはできません。
今できる、最高のことを。
そうでないと、きっとあの炎竜は許してくれません。
上手くいったーーのかどうか、ティノにはわかりません。
地の国への道を、自分から作ってしまったのかもしれません。
それでも。
機会は作れたはずです。
アリスを倒す必要はありません。
傷を一つ。
つけるだけで良いのです。
今は、それだけを考えます。
そうでなければ。
一瞬で恐怖と不安に呑み込まれてしまいます。
ティノは、イオリに傷一つ、つけたことがありません。
崖から落としても、無駄でした。
アリスは防御に優れた、地竜ではありません。
逆に、攻撃に優れている分、炎竜は防御が苦手のはずです。
それだけが、ティノに有利な点。
「アリスさんが相手なら、ーー隠さないほうがいいかな」
体中に「刻印」を刻んでから、ティノは服を着ないことに決めました。
反撃はされないので、こちらの手の内をすべて晒します。
下手に隠すと、アリスが機嫌を損ねてしまうかもしれません。
おかしなことになっていますが、きっとこの戦いはそういうものなのです。
「ぬぎぬぎ~、ぬぎぬぎ~、ぱんつも、ぬぎっぬぎ~」
「はい。紐を結ぶから、早く入って」
ティノは誤魔化しました。
「人生の目標」。
すべてを擲ってでも達成しなければいけないことなのですが。
パンツ一丁。
そこが少年の限界でした。
「命」よりも大切なものがあるーーと言いたいところですが、単にティノに勇気が足りていないだけです。
「ぬぎぬぎ~、ぬぎぬぎ~、すっぽんぽ~ん、ぬぎっぬぎ~」
「イオリ、きつかったら言ってね」
イオリの「すっぽん歌」を聞き流しながら、イオリの首元で蝶結びにします。
時間稼ぎは悪手ですので、ティノは一気に背負ってから「庵」をでます。
「何、ソレ?」
アリスが指を差したのは、パンツ一丁のティノではなく、袋に入ったイオリでした。
「『イオリ袋』です!」
炎竜の冷たい視線にもめげず、ティノは言って退けます。
「ティ~ノ~、ティ~ノ~、ティノティノティ~ノ~」
「イオリ袋」から、頭だけをだした格好のイオリはご機嫌です。
そう、「取って置き」とは、この「イオリ袋」のことなのです。
イオリが入れる、大きな背負い袋。
「イオリ袋」の中には、イオリの宝物である、綺麗な石や蝉の抜け殻などが入っています。
もちろん、おやつである「イオリ玉」も常備。
「たぶん、『お爺さん』が造ったもので、とっても丈夫です」
「そんなこと聞いていないわよ。……いいえ、そんなことを聞いたのだったわね」
「それよりも、……竜が盗み食いをするのはどうかと思います」
「何よ、竜を待たせたのだから、これくらい良いじゃない」
ティノとイオリの食べ残しを、しっかりと平らげてから立ち上がるアリス。
ティノに向けた視線は熱を帯びーー再びお皿に向かいました。
「ティノ、だったわね。この料理、あなたが作ったの?」
「いえ、料理を作ったのは、イオリです」
「ーーそれ、本当?」
「おー! りょーりは~、イオリのたいせつな~、ぽんぽん~、いっぱいぱ~い」
戦いの気運は迷子になったまま。
アリスは、「聖語」を地面に刻んでいるティノに話しかけました。
「その『イオリ袋』とか言うのからは、イオラングリディアの魔力が感じられるわ。地竜を素材に、ーー皮膚とか体毛かしら? ファルワール・ランティノールでも加工するのは無理そうだけれど」
「あ、やっぱりアリスさんは、『お爺さん』を知っているんですか?」
「名前だけはね。会ったことはないわ。会っておけば良かったと、後悔しているところよ」
アリスは周囲を見回しながら。
透明な表情を浮かべます。
ーー竜の微笑み。
ティノは、現在の状況も忘れ、魅入ってしまいました。
どれだけ積み重ねれば、あの微笑みを浮かべられるようになるのでしょう。
ティノにはわかりませんでしたが。
自分とアリスとの間には、途轍もない隔たりがあることだけはわかりました。
「地面に刻んでいるのは、ずいぶんと大きな『聖語』ね」
「はい。刻む『聖語』の大きさは、威力に関係ないとされているそうですが、実は違います。一定以上の大きさの『聖語』であれば、威力は増します。ただ、『大聖語』には、いくつか越えなければならない壁があります」
「ああ、それでイオリなのね。その壁を、イオリの魔力で無理やり越えようというわけなのね」
「はい。ーーイオリに力を借りるのは、反則ですか?」
「ぱー」
「魔力をもらうだけでしょう。なら、問題ないわ。人種の身で、竜の魔力をどれだけ扱えるのか、見せてちょうだい」
アリスなら断らない。
そう確信していましたが、許可をもらえ、ティノは安堵しました。
「不思議な光景ね。これから自分を攻撃する為の『大聖語』を周囲に刻まれているのに、それを見ているだけなんて」
「『刻印』と『大聖語』。あと、術語の名称がわからないので、『脳内聖語』と呼んでいますが、それを使います」
「『脳内聖語』? それって『転写』のことかしら?」
「いえ、『転写』とは違うようです。『転写』は、イオリの魔力をもらえばできるかもしれませんが、失敗したときの反動が怖くて、今の未熟な僕では試す気にもなれません」
「ぱぅー」
「転写」は、威力を増す、という点では「復刻」と似ていますが、まったく別のものです。
刻んだ「聖語」を写し、同一の「聖語」を複数展開するのが「転写」です。
「階層」と「深刻」。
ランティノールが敷いた轍にも、その可能性は示されていましたが。
生きている間に、それが使えるようになる。
そんな自分の姿を、ティノは思い描くことができません。
仕方がないとはいえ、才能がない、というのは本当に残酷なことです。
過去に、散々に味わってきた苦味を、もう一度味わってから。
ティノは「大聖語」を完成させました。
「あら、イオリが大人しいわね」
「はい。むずかしい話になると、イオリは自動的に『日向ぼっこ』状態に移行します。若しくは、歌を歌い始めます」
「……イオラングリディアは『智竜』とも称えられるくらいだったのに。どうしてこんな『へんて仔竜』になってしまったのかしらね」
「あ、そうだ、僕が勝ったら。僕が知らないイオラングリディアのことも教えてください」
「あなたもよくわからない人種ね。イオリに感化されて、頭が魔力で汚染されているのではないかしら?」
「はは、半分くらいは否定できません」
アリスは冗談半分で言ったのですが、その言葉は正鵠を射ていました。
マルによって「浄化」されたティノですが、すべてが「浄化」されたわけではないのです。
当然、「汚染」のことなど知らないティノは。
「汚染」の元が何なのか、知る由もありません。
準備が調ったので、ティノはアリスを見ました。
ここで、ちょっとだけティノは疑問に思いました。
始めこそ、アリスの魔力に、魂を塗り潰されるような恐怖を覚えましたが。
こうして会話をしてみると、イオリの魔力を奪うような「悪竜」には見えません。
それどころか、竜であるのに、人間に対する造詣が深いように思えます。
「これだけ待たせたのだから、私を楽しませないと承知しないわよ」
極上の笑顔と、豊穣なる魔力。
もはや、引き返す道は途絶えました。
不思議と、ティノの心は落ち着きました。
複雑なことが苦手なティノにとって、何をやれば良いのかわかっている、という状態は、悪いものではありませんでした。
今、できることを、やる。
ある意味、それしかやってこなかったので、これから同じことをやるだけで良いのです。
なぜでしょう。
「人生の目標」を達成するという大仕事の前だというのに。
ティノは、これまでひたすらに鍛錬してきた「聖語」を試せるとあって、高揚していました。
それはティノが初めて抱いた、冒険心だったのかもしれません。
「『日向ぼっこ』は終わりだよ。じゃあ、行くよ、イオリ!」
「おー! ティ~ノ~、ひっひ~を~、ぶっとばせ~っ!」
熱。
ただただ、体を焦がすものが浸入してきます。
「侵入」ではなく「浸入」。
イオリの魔力は。
断じて、拒絶するものではないからです。
「『刻印』を基点に『大聖語』を起動!」
「ぽっぽこ~、ぽっぽこ~、まりょく、ぽっこぽこ~」
「刻印」を導火線に、発動した「大聖語」が光り輝きます。
光の絨毯。
その中心には、余裕の笑みを浮かべるアリス。
この程度で、足りるはずがありません。
「大聖語」をイオリの魔力で維持したまま。
これから、ティノ自身が「聖語」を刻んでゆきます。
せかいはいくつあるのでしょう
ひとのかずだけせかいはあって
ちいさなせかいでぼくはいきています
せかいはつながることができます
いつかきみのせかいとつながります
そのためにいまここにぼくはいるからです
かさなったせかいできみのなをよぶ
ちいさなせかいのちいさなゆめ
でもそれはせかいをこがしてなおきえない
きみへのえいえんのいのりだから
ティノの「聖語」は出来上がりました。
その「想い」は。
ただただ一途に、貫き通すだけのもの。
あとはこの「想い」をイオリの魔力とともに、「聖語」に乗せてゆきます。
「なささぜさごいさなぜろさはく、いごささくじごさなはにはろご、いにいさなささろいぜはにろささごな、くささぜごさはなくごはさろごく、ささはさろぜくささごごはぜくいい、ごぜじごろにくいはろにじぜさなはくろに、はじいいじなはにろにろぜいくなぜ、ろにじさなさささろにいさはご、ろなごぜはなささにはさごろさにろじさに、ろいくぜいにいいさにぜじじはは」
「『脳内聖語』って……、ティノ! 今すぐ『聖語』を刻むのをやめなさい!!」
アリスの警告は、ティノに届いていませんでした。
ただ、貫き通すーーそのことの為だけに。
ティノの心は。
すべて注がれていました。
「ったく!」
このような粗雑な言葉を吐いたのは、マースグリナダをぶん殴って以来でしょうか。
アリスは即座に、組み上げていた魔力の積層を吹き飛ばしました。
ティノの攻撃を魔力で受ければ。
ティノの脳内は破壊され、廃人となってしまうからです。
「『誓言』」
「ティ~ノ~、ぱ~んっ!」
ティノとイオリは、それぞれに「聖名」と術名を告げ、一筋の槍となります。
「っ……」
死地へと突撃しているというのに、のんきに笑っているイオリを怒鳴りつける暇もありません。
ーー避ける。
アリスは半瞬、迷いましたが、炎竜の本能がそれを許しませんでした。
暴走したとしか思えない、出鱈目に光を綾なすティノの拳。
ティノの勝利を信じて疑わない、笑顔満面のイオリ。
「『転炎』!!」
冷気の炎。
同時に。
瞋恚の炎がアリスの精神を灼きました。
ティノの「誓言」を打ち消すには、これしか方法がありません。
炎竜であるアリスにとって、誇りを汚す術であるがゆえに。
ただの一度も行使したことがなかった、方術。
氷竜の息吹を彷彿とさせる、極寒の精白を前面に展開するアリス。
方術の完成間際に。
ティノの拳が穿ちます。
「灰になるまで燃やすわよ!!」
勝つとわかっている勝負ほど、つまらないものはありません。
アリスの脳裏に、ティノの言葉がよみがえります。
多大なる制約があるとはいえ、アリスは全力です。
敗けるかもしれない。
そんなことを思ったのは、世界に生じてより初めてのことでした。
「人種の分際で! 私を楽しませてくれたことを褒めてあげるわ!」
アリスは勝利を確信しました。
対極の色彩に揺れる、炎と炎による板刻。
炎に刻まれた炎が、ティノの魔力を優しく包み込んでゆきます。
炎樹。
アリスに咲き誇る炎の花びらが、勝負の終焉を告げるように。
儚くも美しく、舞い散ってゆきます。
「……あ」
ここで我に返ったティノは。
生存本能が炎で焼かれました。
ティノの視線の先には、無傷のアリスがいて。
無傷のアリスは、ちょびっとだけ焦げたドレスを見ていて。
「ぱーぼょっ!?」
無言で半回転したティノが聞いたのは。
イオリの愉快な悲鳴と。
自分の背骨の、断末魔の悲鳴でした。