1.ぬいぐるみ少女
「普通を抜け出す⋯⋯今日こそ」
高校生活が始まるその日、朝早くに学校へ行った。
そして、その学校の校門前で高らかにそう宣言した。
「あっ」
しまった。そう思い、周りを見渡す。
どうやら、誰もいないようだ。
誰かに聞かれたり、見られたりしていたら、一巻の終わり。僕の高校生活はこの瞬間、灰色になっていた。
声に出したつもりは無かったのだが、どうやら無意識の内に出てしまっていたらしい。
普通を抜け出したいなら聞かれてた方が良かったんじゃ⋯⋯
そう思うかもしれない。
だってそうだろう?
校門前で独りで、それもそれなりに大きい声で、意味の分からない事を言っている奴がいたら、誰だって僕の事を異常者だと認識してしまうことだろう。
「普通」なんて、縁遠い生活の始まりだ。
それは僕にとっては好都合のはずである。
だが⋯⋯それで、脱普通!
となってもいいのだろうか。
何と言うか、それはずるい気がするのだ。
今まで頑張って15年間「普通」に生きてきて、それなりに悩んで、何度だって挫折して、そして今も尚抜け出したいと思っている。
その普通をこんな簡単に抜け出してもいいものなのだろうか。
僕の人生をかけた「普通」の終わりがこんなにも呆気ないものなのかと。
どうせ、抜け出すならもっとドラマチックに”普通じゃない”、 ”普通” の抜け出し方をしたい、と思ってしまうのだ。
普通じゃない普通ってなんだ?
あれ? 自分でも何を言ってるのか分からなくなってきた。
と⋯⋯いうか。
そもそも普通ってなんだ?
普通じゃないって何なんだ?
素朴な疑問が頭に浮かぶ。
果たして僕は本当に「普通」なのだろうか?
本当に普通なら、普通じゃないと疑われるようなことはしないような?
よく分からない。分からなくなってきた。
新しい環境に来た事で正常な思考が出来なくなってしまっていたのかもしれない。
普通を抜け出すという強い気持ちが枷になっていたのかもしれない。
しかし、そんなことは考えられなかった。
振り出しに戻ってしまった、その事実だけが頭に残ってしまう。
ああ⋯⋯「普通」という言葉のゲシュタルト崩壊である。
◆◇◆
誰もいない校門前、凛と咲いた桜の前でただ立ち尽くす。
この綺麗な桜の前で、誰かと話すでもなく、これからの高校生活に期待するでもなく、意味もなくただその場に留まる。何も考えたくなかったからだ。
しかし、このままずっとここに突っ立っているという訳にも行かないので、とりあえず学校に入ることにした。
校門を抜ける。しかし、僕の胸に希望や期待なんてものはなく、あるのは不安と焦燥、そういった負の感情だった。
従って、顔は少し俯き気味に、のそのそと亀のような重い足取りで前に進む。
何分たっただろうか。気づくと、校門からはだいぶ遠ざかったところまで歩いてきていた。
そんな時春風が吹いた。そして桜が舞った。とても鮮やかで、それは紛れもなく春だった。
落ち気味だった気分も、少しマシになっただろうか。
桜は舞い続ける、踊るように。風は音を立て、吹き荒れる。
それはまるで、何かの始まりを告げているようだと思った。
今が「春」だから、始まりの季節、だからだろうか。
そんな、「春」の光景をこの目で見たくて顔を上げた。
「え⋯⋯」
思わず、感嘆の声を漏らした。
視界に飛び込んだのは1本の木だった。
しかし、ただの木では無い。相当数の樹齢を生きているであろう、見上げるほどに巨大な桜の木がそこにはあったのだ。
この学校のシンボルだと思った。
こんなにも大きな木は初めて見たから。
神様が祀られていると言われても信じてしまう程に神秘的だ。ただその桜に見とれていた。
その木の下にはベンチがあった。
おそらく、この学校の人気スポットの一つだろう。昼食の時間にはこぞってカップル達がここ一帯を占拠する姿が容易に想像出来てしまう。悲しいことだ。
と、今現在進行形で、そのベンチに誰かが座っている事に気づく。
まだ始業時間までだいぶあるはずだが。
そこに居たのは一人の女の子だった。
超がつくほどの美少女で、桜の太樹をバックにとても絵になっていた。
風に靡き揺れる黒髪。見ることすら憚られる、そんな綺麗すぎる瞳は、同じ人間だとはまるで思えなかった。
どうやら、祀られていたのは神様では無かったらしい。
そう彼女はさながら、女神様だった。
彼女は虚ろな瞳で、舞い踊る桜の花弁をただ見ていた。
「ねえ、ふーちゃん──」
そんな彼女が口を開いた、が⋯⋯
耳を疑う、以外の選択肢なんて存在しなかった。
ふー⋯⋯ちゃん?
え、誰?
辺りをキョロキョロと見渡すも、それらしい人物は確認できない。
「ふふっ、ありがと。ふーちゃん」
それに、もっと凛々しい、美しい声を出すのだと思っていた。だけど、聞こえてきた声は可愛らしかった。
女神のような見た目なのだ。そんな声を想像するの仕方の無いことだろう。
可愛い声、微笑む顔、慈愛の眼差し。しかし、それら全てを彼女から受け取る「ふーちゃん」とやらが見当たらない。
どこだ? どう探しても見つけられない。
いや、薄々は感じ取っていた。ソイツの正体を。
だけど、信じられなかったのだ。
初めから違和感は感じていた。
彼女が腰掛けるベンチに不自然にあったソレは、明らかに桜の花とともに絵になっていた彼女とは不相応であった。
だから、そんな考えを自然と頭の隅へと追いやろうとしていたのかもしれない。
「ふーちゃんだーいすき!」
そう言って彼女は勢いよく「ふーちゃん」とやらに抱きついた。
疑いようも無い事実。
考えないように、なんて思っていた矢先、決定的な瞬間はすぐに来たのだ。
信じられないが、信じる他ない。
名前を言いながら、大好きと言いながら、抱きついたのだ。それはもう真実だろう。
ぬいぐるみだ。
ツギハギにつなぎ止められ、白い綿が身体の至る所から出てしまっている薄汚れたぬいぐるみだ。
それが、「ふーちゃん」の正体だった。
◆
彼女はぬいぐるみにとびきりに笑顔で接している。
まるでそれが生きているかのように、とても幸せそうに接しているのだ。
時折、
「うん、そうだね」
などと言い、ぬいぐるみと会話が成立しているかのようだった。
訳が分からなかった。
傍から見た彼女は紛れもなく異常だった。
彼女がもう少し小柄で、童顔ならばまだ信じられただろうか。
しかし彼女はモデル体型で、顔も可愛いと言うよりも、美しいという感じなのだ。
だから余計にその光景が歪に見える。
まるで、ぬいぐるみと遊ぶ園児のようだ。
それを見て、僕は⋯⋯
彼女に希望を見た。期待してしまったのだ。
先程まであんなに悩んでいたのが嘘のように、今は高揚している。
チャンスだ。これは普通を抜け出すチャンスだ。これを逃せばもうこのレールからは一生脱せないだろう。そう、確信した。
具体的なプランとしては彼女とお近づきになり、彼女と行動を共にする。
たったこれだけである。
すると、どうだろう。普通じゃない彼女の隣にいる僕も普通じゃないと、自然に思われるのではないだろうか。
そう、「類は友を呼ぶ」ということわざもある。僕を彼女の類友、つまりは異常だと思わせるのだ。
たったこれだけのことで僕の目的は全て達成される。
僕が先程頭を悩ませていた、「普通じゃない普通」だとか、「普通、普通じゃない」の線引きだとかの問答もこれで万事解決だ。
彼女はどこをどう切り取って見ても普通ではないのだから。
さて、作戦は決まった。
しかし、問題はここからである。
どうやって彼女とお近づきになろうか。
いや、お近づきになるには話しかける以外の方法はないだろう。
だが、普通に話しかけて会話になるのか?
普通じゃない彼女に通じるのか?
彼女に無視されたらどうしよう。
そんな、不安が募っていく。
怖い⋯⋯そう思うのに然程時間はかからなかった。
そして、思考はマイナスの方向に、後回しに、楽な方に、逃げに走ってしまう、僕の悪い癖。
別に今日じゃなくてもいいんじゃないか?
明日でもいいのでは?
まだ高校生活は始まったばかりである。無理に今日、彼女とお近づきになる必要は⋯⋯ないのではないだろうか。
僕の悪い癖が出た⋯⋯いや、出そうになった。
本当は分かっていた。今日じゃなくてはならないのだ。そもそも、僕逃げに走って得をしたことなど一度もない。
だから、今日だ。
彼女は美少女、それも超超美少女。スタイルも抜群。勉強の方はできるか分からないけど、それでも人から好かれるには十分すぎる要素だ。
従って彼女は明日から人気者になるということは確定的に明らか。
明日からは僕のような奴が話しかける余裕なんておそらく無い。
だから、今日だ。今日お近づきになれなければ、たぶんそこでジ・エンド。
僕に薔薇色の高校生活はやって来ない。
今、しかないのだ。
話を戻そう。
彼女に話しかける、それ以外に方法は無い。
大丈夫、会話は成立する。
なぜなら、人間と話すよりもぬいぐるみと話す方が明らかに困難だからだ。
たぶん、人類で初、なのではないだろうか。
一方的にぬいぐるみに話しかけているなんてことは有り得ない。そう、彼女もれっきとした高校生、そんなことは有り得ない。有り得ない。有り得ない⋯⋯
だから、会話は出来る。そう強引に結論づけた。
後は僕の勇気だけだ。
彼女は未だぬいぐるみにご執心で、こちらをチラリとも見ようともしない。
桜の太樹に向かい、緊張しつつも僕は歩き出した。
ここが僕の高校生活における、いや、人生のターニングポイントだ。
身体が小刻みに震える。だけど、不思議と怖くは無かった。
これが武者震いというモノなのだろうか。違うだろうな、たぶん。
ベンチに座る美少女の前に立った。
やはり、長い黒髪はとても艶やかで、綺麗だった。
意外にもキリリとした切れ長の目付きが印象的だった。
彼女は僕に気づき、不思議そうに顔を上げる。
曇りひとつ無い真っ直ぐな瞳に、吸い込まれそうになった。
「ええと・・・」
目の前に立ったは良いが、何を話せばいいか分からない。
何せ突発的に決めたことなのだ。何か用意がある訳もなく、場は静寂に包まれる。
思わず目を逸らす。
そんな、目を逸らした先には例のぬいぐるみがあった。思っていた数倍、薄汚れていた。なんというか、グロい。
そんな中、
「ね、ねえ? あなた、だれ?」
そんな可愛い声が耳に届いた。そして、それは心地の良い声だった。
「ぼ、 僕は・・・秋月新──」
意を決して名前を言う。今こそがお近づきになるチャンスである。
しかし、名前を言い終えることは出来なかった。
「ま、まりの!!!」
大声が響いた。
慌てて校門の方から走ってきた少女。
その少女が発した言葉が僕の言葉をかき消したのだ。
そして、「まりの」、それがおそらくぬいぐるみ少女の名前だ。
「なんで、先に行っちゃうの!」
肩にかかるくらいの栗色の髪の少女。ぬいぐるみ少女とは違い、美しい、と言うよりもどちらかといえばカワイイ系の少女だった。
「⋯⋯⋯⋯」
ぬいぐるみを抱え、立ち上がる。すると、まりのと呼ばれた少女は逃げるようにどこかへと駆けていった。
去り際に少女はちらりと僕の方を見た気がした。たぶん、気のせいだが。
ちなみに立って分かったのだが、彼女の背丈は僕と同じくらいだった。大体165、6くらいだろうか。やはりモデル体型である。
「ちょ、ちょっとまりの! 私、ほんとに知らないからね!」
茶髪の少女は僕の方には目も暮れない。そしてぬいぐるみ少女とは別の方向へと走り去っていった。
そして⋯⋯閑散とした中、僕は一人立ち尽くしていた。
「ああ⋯⋯終わった」
絶望した。
この瞬間に、僕の高校生活、ひいては人生が「普通」のレールを走ることが決定的になってしまったのだから。
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