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ごめんなさい。
謝る声が聞こえる。誰の声だろうか。音のする方へ顔を向けると、部屋の隅で一人、泣いている子供がいる。黒髪のショートで身長は小さめ。中学生ぐらいだろうか。三角座りをし、顔を伏せ、嗚咽を上げている。
子供はしきりに謝罪の言葉を繰り返している。何があったのだろうか。
辺りを見渡すと、床には灰色のカーペット、壁際には白い壁紙に沿うように、白いプラスチック製のテーブルと黒い椅子が置かれている。テーブルと椅子、どちらも二人用だ。その他にはテレビにパソコンがそれぞれ折りたたみ式のテーブルの上に置かれている。四畳半ほどの小さな洋式のリビングだ。
しばらくすると、リビングの扉が開き、女性が入ってくる。三十代後半と思わしき風貌だ。ただ、顔だけは黒く塗り潰されており、誰なのかはよくわからない。恐らくこの子の母親なのだろう。
女は部屋に入ると共に溜息を吐く。
「また、学校に行かなかったのね」
呆れた顔で子供を見る。女の言葉を恐れるように、子供はさらに顔を埋める。
「今日こそは絶対に学校に行くって、約束したよね。どうして行かないの」
女の問い詰めるような言葉に、子供はまるで壊れた機械のように、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返し謝り続ける。
子供の様子に、女は再び溜息を吐く。
「もうそんな言葉、聞き飽きたわ。もっと生産性のある話をしましょう」
女は子供に近づいていき、中腰になって話を続ける。
「あなたはどうして学校へ行かないの?」
女の質問に子供はごめんなさい、と答える。
「学校に行きたくない理由があるの?」
俯きながらも、顔を上下に揺らす。肯定しているようだ。
「虐められているわけではないんでしょう?」
声は出さずに、再び頷く。
「引っ越してきた時は、別に何ともなかったわよね。クラスの皆とも上手く付き合えていたみたいだし。学校の話も楽しそうにしてくれたじゃない。行かない理由なんてないように思うんだけど」
でも、そう言いかけて、すぐに黙る。子供の煮え切らない態度にしびれを切らしたのか、女はむりやり子供の顔を上げさせる。
「ちゃんとこっちを見て話しなさい。どうして学校に行きたくないの? ちゃんと言ってくれないと分からないわ」
我慢の限界と言わんばかりに、キツめの言葉を投げかける。赤く目が晴れた子供の顔から女に怯えているのがよく分かる。
「が……」
子供は消え入りそうな声で、そっと呟く。
「がっこうで……なにをしていたか……わからなくて……それが……ぼく……こわくて……みんな……きみわるがって……ぼく……ずっとひとりで……それで……」
「何を言っているのか分からないわ。それにその口調も直しなさいって何度も言ったでしょう」
女の苛立った態度に、子供はまた顔を伏せてしまう。女は何度かため息を付いた後、諦めたように立ち上がった。
「とにかく、明日からはちゃんと学校に行きなさい。私は仕事で忙しいんだから、あまり手間を掛けさせないで」
そう言い捨てると、女はどこかへ消えてしまった。
うずくまって泣いている子供。女の声。許しを請う声。
どこか見たことある光景だった。
何度も、何度も、繰り返し、映し出されてきた光景のはずだ。
この映像を終わらせるためには、どうすればいいのだろうか。どうすれば、違う景色を見られるだろうか。
……別に、そこまで難しく考える必要もないだろう。この子供は学校へ行くのを拒否しているのだ。だったら、学校へ行かなくてもよくしてやれば良い。苦しめている原因があれば取り除く。それだけのこと。世界はいつだって単純だ。
拳を握ると滑らかな感触がある。手元を見るといつの間にか薬瓶が握られている。褐色の容器には英語で書かれたラベルが貼られており、とても市販では手に入れることができなさそうだ。きっと、効き目も良いのだろう。
軽く肩を叩き、薬瓶を差し出す。顔を上げた子供は怯えた表情でこちらを見ている。まだ、女に言われたことを気にしているのだろうか。でも、大丈夫。もう悩まなくても済むのだ。
子供の耳元まで近寄り、そっと呟く。これを使えば、もうこの学校に行かなくても済むのだと、そう囁きかける。
「やめてよ」
手を払い除け、私の提案を拒絶する。解答が目の前にあるのに、受け入れない。この子供の不可解な行動に私は理解ができない。どうして否定されるのだろうか。学校に行きたくないのではないのか。もうあの女に何か言われたくないのではないのか。
もう一度、薬瓶を差し出す。しかし、どうしてもこの子は受け取ろうとしない。
……できないのならば仕方がない。私がやるしかない。手に握られた薬瓶も、そのために存在しているはずなのだ。
私は決意を胸に、薬瓶の蓋を開けた。
子供が泣いている。
予定通り、目の前には犬の死骸が横たわっている。母親と子供が大事に育ててきた飼い犬だ。苦しい時も楽しい時も、同
じ時間を共有してきたペット、いや、もはや家族と言ってもいいのだろう。今となっては、冷たい肉の塊だ。子供はその肉に身を寄せて、言葉にならない声を出しながら、涙を流している。捨てるとしたら、どのように処理をしたらいいのだろう。生ゴミと一緒に捨てても大丈夫なのだろうか。そんなことを思いながら、私は無感情にその様子を眺めている。
子供の泣き声が止まらない。悲しんでいるのだろうか。別に代わりなど幾らでもいるはずだ。何も悲しむ必要などないはずなのだが。
「どうしてこんなことに」
私の行動を詰るように、非難の声が上がる。感謝されるというのなら理解できるが、恨まれる筋合いなど、何一つない。すべてはあなたのために行ったことなのだ。
「もう、取り返しがつかない……」
もちろん、これは自分のためでもある。私だっていつまでも嫌な夢は見ていたくない。解決できるならしたいと思うのだ。
大切にしていたペットが死んだとなれば、学校を休んでも誰も文句は言わないはずだ。これであなたは当分学校に行かなくても済む。これ以上苦しまなくて済むのだ。お互いに得をしているはずだ。
「あなたのせいだ」
いいや、私の”おかげ”だ。あなたもそれを望んでいたはずだ。
だってそうだろう。あなたはいつでも私を止めることができたのだから。
しかし、あなたは私の行動を止めることはなかった。私の側にいながら、事が済むのをずっと見守っていたのだ。
ああ、そうか。自分の手を汚したくなかった。ただそれだけのことなのか。確かに、誰かが代わりにやってくれるなら、それに越したことはない。実に理に適った考え方だ。
しかし、そうだとわかれば、もう私にはあなたは必要ない。だってそうだろう。あなたがいることで私が得をすることなど何一つないのだから。あなたも私を拒絶する。あなたは私の敵なのだ。
私は薬瓶を握ると子供の頭に思い切り叩きつける。
当たった拍子に、瓶の破片が方々に飛び散り、割れた部分から、残った薬が溢れ出す。子供の口からは叫び声が上がり、子供の頭からはだらりと血が噴き出る。
心臓の鼓動が激しくなる。気分が高揚しているのを感じる。笑みを浮かべているのがはっきりとわかる。何だ、実に気持ちがいいじゃないか。
割れた瓶をもう一度頭に叩きつける。何度も、何度も、叩きつける。その度に、うめき声と笑い声が反響する。
やがて視界はぼやけてゆく。私と子供、その境界線があやふやになってゆき、そのままフェードアウトしていった。