3-2
「えっ、子供ですか。そうですね……」
顔を上げながら、顎に手を当てて大袈裟に悩むような動作をする。
バス停までの帰り道。両脇には、すっかり葉が抜け落ちてしまった銀杏の樹が等間隔で並んでいる。曇り空のせいもあるだ
ろうか、その様子はなんとも淋しげに見える。
そのような感傷に浸りつつ、足を進めていると、足元からざりざりとアスファルトの擦れる音がする。嫌に耳障りな音だ。そう思い、目線を下に向ける。あまり整備されていないからだろう、舗装された道には、所々にひび割れが起きており、アスファルトの破片が至る所に転がっている。杜撰な管理体制に、思わず眉をひそめてしまう。
「子供は好きですよ。ほら、元気な姿を見てるとこっちまで元気を貰えるみたいじゃないですか」
後輩はアスファルトを踏む音が気にならないのか、構わず話を続けている。
「先輩は……って聞くまでもなさそうですね。子供が好きなようには全然見えませんし、ってこれは失礼ですね」
台詞とは裏腹に屈託のない笑顔を浮かべている。本当に申し訳ない、とは思っていないようだ。
「まあ、実際に子供に構うとなると話は違うかもしれませんけどね。一人っ子ですし、親戚にも子供がいないんで、あんまり子供の世話なんてしたことありませんし」
でも、と語気を強くして、話を続ける。
「もし、弟か妹がいたら、絶対に可愛がる自信があります。一緒に遊んであげたり、頼み事を聞いてあげたり、相談にも乗ってあげたり、それでいて、下の子が自分を頼ってくれたりしたりして、ああ、きっと可愛いんだろうなあ」
ふう、と心地の良さそうな溜息を吐く。
可愛がる、か。それはそうだろう。自分を無条件に慕ってくれる子供は可愛いに決まっている。自分なしでは生きられない。なんて、儚く愛しい存在なのだろうか。
しかし、それは愛玩動物と何が違うのだろう。犬でも猫でも代用が効くような気がしてならない。
確かに、コミュニケーションは人の方が取りやすいだろう。それでも、自分の思い通りになってほしいという根本の部分は変わらないはずだ。もし、自分に対して反抗的な態度を取った時はどう思うのだろう。思い通りにならない場合にはどうするのだろう。それでも、可愛がるのだろうか。それとも、見放すのだろうか。飽きてしまったらどうするつもりなのだろう。愛玩動物のように捨てるわけにもいかないはずだ。そう考えると、ペットよりは劣っているともいえるかもしれない。
「それと、喧嘩したりするのも、少し憧れるんですよね。下らないことで言い争いをして、少し反省した後、仲直りするんです。そうやってお互いに、分かり合っていくの、家族の絆が深まるみたいでいいと思うんですよね。まあ、自分の場合は、すぐに妥協して謝っちゃいそうですけど」
実際に、下の子ができたことを想像しているのだろうか。嬉しそうな顔をしている。どうやら、後輩は家族との相互理解を求めているようだ。
しかし、と疑問に思う。
家族の絆など深める必要などあるのだろうか。
確かに、相手の考えを知ることは大事だ。しかし、それは自分のために他ならない。相手の行動がわかれば、自分が最も得をする選択肢も分かる。ただ、それだけのこと。別に相手の考えに共感する必要はない。
その考えは例え家族であっても同じだ。遺伝子的には確かに他人よりは自分に近い存在なのだろう。それに、長い時間を共有してきたのだ。考え方も自分と似通っている確率も非常に高い。しかし、それらはあくまで似ているというだけだ。私という個体とは違う。母親も、父親も、姉も、兄も、妹も、弟も、私とは全くの別人だ。何も家族を特別扱いする必要などない。
それでは、お互いのことを知ることなど必要ないのだろうか。他人との相互理解は必要ないのだろうか。
そんなことはない。相手を知ることは自分の利益に繋がるのはもちろんのこと、自分のことを知ってもらうことも、結局は自分のためになる。自分がどのような考えを持っているかを知ってもらえれば、相手もそれに合わせた行動を取ることが可能だ。よほど悪意を持っていなければ、本人の前で嫌がることなどしないようになるだろう。
すべては自分のため。自分の利益のための行動に帰結するのだ。
それ以外に一体何の理由があるだろうか。
「あっ、そういえば」
そう言って、後輩は私の方を向き直り、私の顔を覗き込むように体を傾ける。その動作に私は思わず目を逸らす。あまり、じろじろと見られるのは好きではない。
それにしても、まだ話を続けるつもりなのだろうか。私の方から話題を振っておいて何だが、もう、この話から得られるものはない。私は他人のために無償の奉仕などできない。もう結論は出ている。これ以上の会話は無意味だ。
「先輩って……一人っ子でしたっけ?」
ピタリ、と時間が止まる。
後輩の質問に思考が停止する。
何か答えようとしても、上手く口が開かない。そればかりか、喉も、指も、足も、満足に動かすことができない。まるで金縛りにでも遭っているかのようだ。
何故?
何故私は困惑しているのだろう。
イエスか、ノーか。実に簡単な問いかけのはずだ。それなのに言葉が出ない。回答が出来ない。懸命に記憶を手繰ろうとしても、すぐにノイズが走り、正解に辿り着かない。それでも、辛うじて思い出せるのは、ぼやけた子供の輪郭だけだ。
子供? 弟か妹なのだろうか。
掴みかけた手がかりも、すぐにテレビの砂嵐のようなノイズに掻き消されてしまう。
記憶を手繰るのを何かに邪魔をされている。いや、誰かに引き止められている。
一体誰が、何の目的で、私の思考を、記憶を妨げているのか。
そもそも、私に兄弟、姉妹はいるのだろうか。
混乱の最中、ピトリ、と頬に何かが付く。冷たい感触。手を広げると、空から白い断片が付着する。雪が降り始めてきたようだ。
じっ、と手のひらに付いた雪を見つめる。
毛糸で出来た赤い手袋に白い破片。ゆっくり手を握ってみると、不思議な感触がする。まるで、何か得物を握っているような不思議な感触。
頭に浮かぶのは、泣いている子供と握られたナイフ。
私はこの光景を知っている。見たことがあるはずだ。
それでも、この子供のことは思い出せない。男の子なのか、女の子なのか、それすらも判別できない。
しかし、ただひとつ、確かなことがある。それは、この子が私にとって大切な誰かだということだけだ。
大切なもの?
私は他人のことを大切だと思っているのか。必要だと、そう感じているのか。
この子を大事に扱うことで、私に見返りがあるとでもいうのか。
私は他人に優しくなっているとでもいうのか。
日記の彼女のことを思い出す。彼女なら他人に分け隔てなく親切を振りまくだろう。それも自分の損得勘定お構いなくだ。
もしかしたら、知らないうちに、私も彼女の影響を受けているのか。
いや、そんなはずはない。その子供のことは彼女に会う前から知っているはずだ。私は誰の影響も受けてなどいない。考え方が、志向が変わっているわけではない。
そうであれば、何故、私はあの子供を大切に思うのか。一体何故……
「先輩?」
後輩の一声に、はっと我に返る。気付かない内に歩くのを止めていたようだ。
どこか具合でも悪いんですか、と心配するような声を掛けてくる。道の途中で急に足を止めているのだ。不安に思うのも無理もないだろう。
いや、大丈夫。そう後輩に告げると、前に進み始める。
前を向くと、行く手を阻むように雪がちらついていた。勢いが強くなってきているのか、帰り道はすっかり白く染められていた。嫌な音を振りまくアスファルトの音も今はもう聞こえて来なかった。頭の中で反復するノイズもすでに収まっていた。
今まで歩いてきた道のりも思考も、すべては雪に埋もれてしまったのだろうか。
胸に妙なシコリを残したまま、帰り道を歩いていった。