1-3
その日の私は、いつものように図書室に来ていた。授業が終わってすぐだからか、図書室には私の他にだれもおらず、閑散としていた。
喧騒溢れる校内と違い、何の音もない。何せ、ここの住人は無口なものばかりだ。本も、雑誌も、棚に収められ、ただ静かにそこに佇むだけ。誰かが読もうと思わない限り、音を出すことはない。
音のない、静かな世界。まるで、この場所だけ時間が止められているようだ。何の変化もない、退屈な場所。それでも、外に行くよりはずっとマシだ。
荷物を置き、貸出カウンターへと腰掛けた。二年以上同じ場所にいるからだろうか。この席に座ると妙に落ち着いた気分になった。まるで自分自身がこの図書室の備品の一つとして同化してしまっていると、そう錯覚してしまうほどだ。こういうのを居心地の良いというのだろう。ただ、贅沢を言うならば、少し物足りない、そんな気持ちになる。
物思いに耽け、頬杖をつくと、肘に何かが当たる。少し硬めの紙のような感触に目を向けると、視線の先には厚紙でできた箱がある。その箱は図書室の忘れ物を集めた、いわゆる忘れ物箱というものだ。その中には、可愛らしいキーホルダーの付いた鍵やナイロン製の小じんまりとした筆箱……そして、一冊の日記があった。
青い表紙の鍵の付いた素っ気ない日記帳。その日記がいつからあったのか。そんなことは覚えていない。ただ、その日記がやけに目についた。
次の日になっても、その日記は箱の中にあった。毎日記録と付ける人ならば、自分がどこかに忘れていることに気がつくはずだが、そうでもないようだ。持ち主は案外、ズボラな性格なのかもしれない。だが、もう二、三日もすれば失くしたことに気が付いて、回収しに来るだろう。もうこの日記を見ることもない。……そう思うと何故か寂しい思いがした。
それから、一週間、その日記は忘れられたままだった。箱の中からキーホルダーが消え、栞が消え、中身が次々と変わっていく中、その日記だけは相変わらずただそこに佇んでいる。
……もう、持ち主はこの日記を取り戻す気がないのだろう。失くしてしまった拍子に日記を書くことを止めてしまったのかもしれない。日記を止めるタイミングとしてはこれ以上になく相応しい。
一つの習慣の終わり。別に珍しいことでも、感傷的になるほどのことでもない。他のものに取って代わられるだけだ。そうして、持ち主を失った日記は可燃ごみへと生まれ変わる。記してある過去の感情、記憶、思い出……それらすべてが灰になる。この日記はもう、その辺りに転がっているホコリと何ら変わらない。ただのゴミだ。
……?
しかし何故だろう。そうだと思っていても、その日記から目が離せない。
気になって仕方がないのだ。
好奇心?
それとも哀れみ?
気がつくと私はその日記を手に取っていた。
どうせ鍵が掛かった日記だ。中身を見ることなど出来はしない。そう思っていたが、手をかけるとスルリとページを表紙を開けることが出来てしまった。鍵を掛けていないのだ。
パラパラとページを捲っていく。
『五月一日。晴れ。今日はお薬をもらうため、病院へ。少しお腹が痛い。生理前だからでしょうか……』
『五月二日。晴れ。菖蒲が萎れているので水を上げた。元気になってくれれば良いのですが……』
眼前には素っ気ない文字の羅列。その日の日付に、天気、そして、その日の感想。それらが女性らしい、丸っこい字で綴られている。それも一日も欠かさず、毎日記録し続けてある。マメな性格……なのだろうか。
そんなことを考えながらぼんやりと、ページを捲り、遂には最新の記録まで辿り着く。
『五月二十日。雨。久しぶりに雨が振っています。傘を忘れてしまわないように気をつけないといけません』
書いてあるのは、昨日の天気とその感想。今までの記録と何ら変わりがない。想像していたものよりも下らない内容に思わずため息を吐いてしまう。少し期待しすぎていたのかもしれない。
確かに、昨日は珍しく雨が降っていたな。そんなことを考えながら、パタリと日記を閉じようとして、ふと思いとどまる。
……この違和感は一体何なのだろうか。
どこかおかしい。
もう一度そのページを開く。
日付と天気にその感想……?
ああ、そうか。日付だ。そこには間違えなく昨日の日付が書かれている。
書き間違いだろうか。いや、それは考えにくい。今までのページを見ても毎日こまめに日記を付けているのだ。書き間違いなど起こるはずがない。
そうなると、考えられることは一つしかない。
この日記は今でも続いているのだ。
なぜ? 頭の中に疑問符が浮かぶ。
それなら、なぜ、この日記の持ち主はここに置きっぱなしにしているのだろうか。それも着いている鍵も掛けずに。ここに置いていれば、誰かに自分の日記を見られるかもしれないのだ。現にもう私には日記の中身を見られている。見られても構わない、ということなのだろうか。
この日記の持ち主は一体誰なのだろうか。
女性で間違えないとはずだが、心当たりはまるでない。彼女は一体、どんな思いで、日記を図書室に残したのだろうか。彼女は一体どんな容姿をしているのだろうか。何を考えているのだろうか。考えれば考えるほど、興味が湧き出るのを感じる。興奮しているからだろうか、ほんのりと顔が火照っているように思える。
どうにか知る方法はないものか。そう考えながら、辺りを見渡すと、忘れ物箱の中のあるものに目が止まる。
そうか、その手があった。
私はペンを手に取ると、日記に向かいペンを走らせた。
あなたは誰ですか?
次の日、日記を見ると、返事が書き込まれていた。
素っ気ない一文。しかし、その言葉は私の胸を高鳴らせるには十分だった。
『当ててみて下さい』
こうして彼女との交換日記が始まった。