【夜の声が聴こえる】
日曜日の図書館。
館内は冷房が程よく効いており、快適に過ごすことができる。そのためか、受験生らしき学生たちが、机を大胆に占領していた。メガネをかけたオッサンは、新聞を開きながら何やら難しい顔をしている。
大きな窓から差し込む光が、館内の端に位置する階段を豪快に照らす。付近だけ気温が高く感じて、急いで中央に入った。
階段から最も近い位置にある棚には、彼女の大好きな恋愛小説が堂々と置かれている。
そしてその彼女とは……。
「今日はついてきてくれてありがとね。ま、どうせ暇だっただろうけどー」
ダサい小豆色のTシャツを着た彼女は、俺を視界に入れることはなく、ただただ小説をだけを見つめている。
「奏多君は、どんな小説が好きなんだっけ?」
綺麗に並べてある図書館の本を、次々と取り出してはまた戻す作業を繰り返す。
「僕はミステリーかな。推理小説が好き」
読みながら自分で推理できるほど頭の出来はよくないが、ただ読むだけで楽しめるようにできているのだ。
「ふーん」
背中まである長い茶髪をハーフアップ、そして僕の隣でじっとお目当ての恋愛小説を探し続ける女子の名前は、桃瀬海音。
「私、ミステリーには興味ないなぁー。だってさ、登場人物途中で忘れるでしょ、あれ。誰やねんコイツ! ってなるときない?」
「……あるかもしれん」
「でしょ? その点、恋愛小説は描写が身近で、想像しやすくて、何より登場人物が少なめっ」
飛びっきりの笑顔で、なぜか僕にダブルピース。ピースの人差し指と中指が動いて、カニみたいになっていた。
それを見て僕は、
「あー、カニ食べたくなってきた。桃瀬、僕三年くらいカニ食べてないんだよ」
「どうでもいいんだけど」
恋愛小説なんて、作者の妄想だ。自分の命は一つしかないし、人生は一度きり。作者自身が倒れなかった道を、小説の中の登場人物に歩ませる。
「僕も恋愛小説、結構好きだよ。特に、女の子が主人公の小説が良いね。現実の男子がこんなに爽やかなわけねぇだろ、って思いながら読むのがたまらない」
「女の子は夢見がちなのー。……あ———これだ。ほら、【夜の声が聴こえる】っていうタイトルなんだけどね?」
桃瀬が本棚から、一冊の文庫本を取り出す。案外表紙は新しかった。
キラキラとした目でこちらを見ている桃瀬。どうやら、その小説を僕に紹介したいらしい。
「主人公はいじめられてる男の子」
「僕、女の子が大好きなんだけど」
「その発言、なんかキモいから撤回してよ」
「主人公が女の子の小説の方が好き」
「そう!」
………………。
「どうだっていいわ。桃瀬、その小説のあらすじをどうぞ」
「いや詳しいことは分かんない。だって今から読むんだもん」
ならなんでその本のことを知っているのだろう。むちゃくちゃ自信がありそうな表情で言っていたけど。
「母上から聞いたの」
「母上?」
「お母さんのこと」
「知ってるよ」
なんでそんな風に呼んでいるのか、ちょっと気になっただけ。
「それでその男の子は、夜の声が聴こえるようになったの」
「意味が一向に理解できない。夜? 何それ」
「夜は、ね……そのぉ、生物みたいなものなのっ」
「そんな言い方されても」
頬をぷくっと膨らませて、桃瀬は僕に言う。大人っぽい見た目は信用ならない。
そのとき、桃瀬のスマホから、着信音が鳴った。
「あ、母上から連絡」
「母上が気になるな」
「え! オ、オヤツが、家から脱走したって!」
「図書館なんだから静かにしようよ。……ん? おやつ? は? 何、おやつって」
「私の愛犬の名前」
「犬にそんな名前付けんな。桃瀬のおやつみたいで可哀想」
「オヤツは楽しい生活を送ってるんですー」
「楽しくないから脱走したんじゃない?」
「そうかも」
ちょっと私、行ってくる! と慌てて階段を降りていった桃瀬は、最後に【夜の声が聴こえる】という謎の恋愛小説を僕に預けた。
恋愛小説が固められた本棚の前で、僕は五分程度何をすればいいのか分からず、本と共に固まっていた。
その後、意識を取り戻した僕は、桃瀬のために【夜の声が聴こえる】というタイトルの恋愛小説を、受付まで持っていった。