肉親憎悪
半年後。正胤はまだ生きていた。
「マサさんちわっす!」
「マサさんこの間はどうも!」
「マサさん今夜どうっすか!」
「キャー! マサさーん!」
「ステゴロの兄貴!」
「いよっ! 後家殺し!」
正胤が夜の街を歩くと、すっかりこのような声をかけられるようになっていた。
今では
『ステゴロのマサ』
『後家殺しのタネマサ』
『耳なしマサイチ』
『帝都の種馬』
などと呼ばれていた。
仄かに揺らめくガス灯が照らす道。数週間前までは正胤の心は、蝋燭のようだった。いつ消えてもおかしくない。自暴自棄にすらなれず、ただラグナの相手を務めるだけ。それでも命があるだけ僥倖だったのかも知れない。
しかし、あの夜、正胤は見てしまった。読んでしまったのだ。とある瓦版を。
『新堀小路家の御曹司英嗣閣下、レイチェル・スタンレー王女と結婚!』
弟と元婚約者レイチェルの結婚。しかもあのアバズレが王女? 悪い冗談だ。あの女は正胤が岡場所で拾った捨て子。女郎にすらなれなかった孤児だ。寒さに震える彼女を哀れに思い、つい別邸に連れて帰ってしまった。それから侍女に風呂に入れさせ飯を食わせてやった。利発なところが見えたので、そのまま別邸に住まわせ女学校にも行かせてみた。すると、あれよあれよという間に頭角を表し、たちまち最優秀生徒となってしまった。それからだ。正胤が彼女を女として意識し、大事に思うようになったのは。
やがて適当な商家の養子に擬装した上で新堀小路の家族に婚約者として紹介した。身分が低いことが懸念でもあったが、生来の美貌と女学校での成績、またそこで作り上げたレイチェル自身の人脈により無事婚約を認められた。今から一年半前のことだった。
そして本来ならば今日、正胤はレイチェルと結婚するはずだったのだ。
商家の養子ですらない異国の孤児レイチェルを王女にまで成り上がらせることができるのは、祖父であり領袖の英麿ぐらいのものだろう。とても英嗣にできることではない。
その時から正胤の心にはガス灯よりも強い火が燃え始めた。
「はぁ、はぁ……マサぁ、あんた今夜どうしたのさぁ? いつもはアタシにされるがままだったくせにさぁ? えらく積極的じゃないか。」
「お嬢がきれいだからですよ。」
ラグナが手を振ると正胤の胸元に一筋の切り傷が生まれる。
「アタシを誰かと比べるんじゃないよ。あんなアバズレ女なんかとねぇ? 右耳もなくなっちまうよぉ?」
そう。正胤はラグナとの逢瀬を繰り返し、懲りもせず褒め言葉を口に出していた。その度に左耳を薄く削ぎ斬られ、とうとう左耳はなくなっていた。それでも正胤は口を閉じようとはしなかった。自暴自棄なゆえなのだろうか。
「お嬢、今までお世話になりました。行かなければならない所ができました。これにてお別れです。」
「はっ、バカ言ってんじゃないよ。あんたはアタシの囲い者だよぉ? どこに行くのも構わないけど、きっちり帰って来なぁ! 帰って来ないってんならどこに逃げても追い詰めて殺す。分かったねぇ?」
「お嬢に殺されるなら本望です。では、これにて。」
「ちっ、バカが……」
ラグナの組織は『ニコニコ商会』と言った。金の貸し付けから債権取立て、賭博開帳に人身売買。通り一遍のことはやっている。
その中にあって正胤の功績は大きかった。業務の効率化、それに伴う売上の増加。ニコニコ商会の勢力増大に大きく貢献していた。それは対立組織との抗争においても例外ではなかった。
幼い頃から武道を習っていたためか、動きの基本はできている。そこにあの無気力さだ。そのため相手がケンカの達人だったとしても正胤の動きが全く読めず、防御することをしない正胤にいいように叩きのめされてしまうのだった。
そんな正胤をいつしかラグナは手放したくないと思うようになっていた。今まで数え切れないほどの男と寝て、その大半を無残に殺したラグナが、だ。頭のどこかに正胤と結婚してやってもいい、そして二人で組織を大きくしていくのもいい、なんて考え始めていた。
正胤を渡したくない。あんな、体で男を操るような……
唾棄すべき妹などに……




