転落流転
新堀小路正胤は帝都生まれ旧華族育ちである。
清廉潔白を信条とし、曲がったことを嫌う人柄であった。そんな彼が新堀小路家から追い出されたことは瓦版屋にとって格好のネタであった。
明日をも知れず今日の食い扶持を稼ぐことすら覚束ない貧民にとって、旧華族などという鼻持ちならない奴らの醜聞はこの上ない餌なのだから。
「何が華族だよなぁー!」
「じゃのぉ! 追ん出されりゃあただの人じゃあ!」
「俺ぁあいつにカツアゲの邪魔されたことがあるわぁ! くそムカつくガキだったぜ!」
「俺もあるわぁ! せっかくひったくった荷物を取り返されちまってよぉ!」
「そんならチャンスやのぉ!」
「おお! 新堀小路家の後盾のないあいつなんて打ち上げられた小魚じゃいや!」
「さらってボコって売っちまおうぜ!」
「よっしゃ行くぜぇー!」
その頃、追い出された正胤はドブ川に架かる小さな橋の下で身を潜めていた。いや、行くあてもなく雨を逃れるために辿り着いた結果にすぎない。着の身着のまま追い出された正胤は飢えと寒さに打ち震えていた。頭を抱え座り込んでいる。
「おい! いたぜ! こっちだ!」
「おらぁ囲め囲めぇ!」
「逃すんじゃねぇぞぁ!」
「ぎゃっはぁ! こいつビビってやがんぜぇ!」
五人ほどのならず者が正胤を囲む。それでも動かない正胤。もうどうにでもしてくれという心境だった。
「おらぁ身ぐるみ剥いじまえや!」
「おら立て!」
「ケッ! いい服着てやがんぜ!」
「おっ、これズボンって言うんだろ? この西洋かぶれがぁ!」
「ちっ、荷物ぐれぇねーのかよ! 貧乏人がぁ!」
そのうちの一人が正胤の顔を蹴り飛ばす。力なく崩れ落ちる正胤。
しかし、そこでふと正気に戻った。見渡せば汚い無法者に囲まれているではないか。どうせもう失うものはない。好きにやろう……遠慮の必要はない……と開き直り、立ち上がった。
「おっ? やんのかオラ?」
「坊ちゃんが無理すんなよぉ?」
「いーや、ぴょんぴょん跳ねてくれんだろぉ? ほーらやってみろや? 見てやんぞ?」
「ギャハハハ! 小銭ぐれぇ持ってんだろ!」
「おらぁ! 早うせいグァっ!」
男は吹き飛んだ。正胤が殴ったからだ。立て続けにもう三回。人並みの体躯の正胤から繰り出された拳は的確にならず者の顎を捉えた。残りは一人。
「お金を出してください。」
「はへ?」
「お金、持ってますよね? 出してください。全部。」
「あ……が……」
「あなたのような汚い方の懐を探るのは嫌なんです。だから自分から出してください。彼らの分も全て。」
「は、はひ……」
いそいそと金を出す無法者。次に仲間の懐も探り正胤に金を差し出す。
「たったこれだけですか……まあいいでしょう。ここらはどなたの縄張りですか?」
「はう……魔蠍の闇垂親分と……四斬ラグナ親分とこの間ぐらい……です……」
「ラグナ? 女性、豪州人ですか?」
「い、いや……日本人って話……女で……」
「案内してください。」
「は、はへ?」
「そのラグナさんの所へ案内してください。ご存知なんでしょう?」
「く、詳しくは……ない……」
「いいから早くしてください。それともここで死にますか?」
「は! はいいーー!」
正胤は正気に戻ったつもりなようだが、その実、狂気に飲まれただけかも知れない……
「あ、あそこ……ラグナ親分の賭場……でも、親分がいるかどうか……分からない……」
「そうですか。ではあなたはもういいですよ。さようなら。」
そう言って殴り飛ばす正胤。その手には少なからず怪我がある。顎ばかり殴ったのだから当然だろう。そして何食わぬ顔で賭場へと入っていった。
「こんにちは。」
「なんでいおめぇは?」
「は? ここは賭場でしょう? 張りに来たに決まってますよ。」
「盆が立つのぁ夜でぇ。それより誰に聞いて来たんでぇ?」
「さあ? そこらの汚い方からここがラグナ親分の賭場だと伺いましたが。」
「おめぇ名はぁ?」
「新堀小路正胤です。金ならありますよ。ついでにラグナ親分にも会いたいものですね。」
「あぁん!? 新堀小路だぁ!? てめぇが勘当されたヘタレ息子かぁ! ゲハハハ! おう野郎ども! 来てみろや! 面白れぇ来客だぜぇ!」
建物の奥からは暇を持て余した無頼の徒がぞろぞろと現れた。顔に傷、腕には刺青。耳や目、片腕がない者もいる。
「この坊ちゃんがうちで張りてぇんだとよぉ! まだ盆の時間じゃねぇが誰か小遣い稼ぎしてぇ奴ぁ相手したれやぁ!」
チンピラ達はどいつもこいつも俺が俺がと群がってくる。どさくさに紛れて正胤の懐に手を伸ばした者はその場で殴り倒された。
「てめぇ……やってくれんじゃねぇか……」
「どこのモンを手ェかけたか分かってんのかぁ!?」
「金ぇ巻き上げるだけで勘弁しちゃろぉ思うたけどのぉ……」
「明日の瓦版載ったぞぉラぁ?」
「おうてめぇら! ブチ殺して身ぐるみ剥いじまえ! 髪も歯も全部売っ払うからよぉ!」
無頼の徒は次々にドスを抜いた。一方正胤は武器など持っていない。しかし、それでも顔色を変えることなく、身構えることもしない。
「待ちなぃ」
そこに現れたのは扇情的な洋装に身を包んだ妖気漂う女だった。