80.ザフィアの魔術書
焔さんは時々紅茶を傾けながら、ゆったりとした口調で今回の調査、それに至るまでの経緯について説明をしてくれた。
王城の端にある、今は使われていない旧王妃の温室。
温室に隠されていた地下室には、こじんまりとした研究室のようなものがあり、その中に『ザフィアの魔術書』が置かれていたそうだ。
分厚く埃が被る部屋の中で、その本だけがまるで新品のように綺麗な状態で残っていて、そのままでもとんでもなく強力なマナが滲みだしていた。
そのマナのせいで、常人が素手で触ることすらできないその本を、焔さんは持ち帰り、少しずつ分析を進めていたらしい。
「本当に苦労したよ。常に滲み出ているマナの量が半端なくてね。普段は危険な魔術書なんかに使うような、魔術封じの布を何重にも重ねて、それでも持ったときに手がびりびりするんだ」
溜息を吐きながら焔さんがそう言えば、隣でライオット王子が悔しそうに俯く。
「……俺では、そこまでしても触れることはできなかった。あれは相当に強いものだ」
「そうだね。君、俺だって大丈夫だ!――なんて言って触って、失神してたもんね」
「なっ……!おい!今それ言わなくてもいいだろ!」
「えー。だって事実だし」
「王子!い、今は落ち着いて……!イグニス様も、話を進めてください」
がたっと音を立てて椅子から立ち上がろうとするライオット王子の袖を掴んで、なんとか引き留める。
むっとしながらも椅子に戻ってくれた王子にほっとしつつ、焔さんへと視線を向けると……何故か悪戯っぽい目でライオット王子を見ていた。
こんな時に、悪戯心を発揮しないでほしい。
話が全然進んでくれないではないか。
そんな抗議の気持ちを込めて、じとっと焔さんを見つめれば、彼はこほんと咳払いをして明後日のほうへと視線を泳がせた。
「あー。まぁ、そんなこんなで分析続けていたんだけど。どうやらあの魔術書は封印が施されていて、それを解かないと中身の確認ができない……というところまで分かったんだ」
「封印、ですか」
レグルがふむ、と顎に手を当て首を傾げる。
「それに、ロランディア村が関係があると?」
「そういうことだよ、レグル。その封印を解くには、鍵となるものが必要だ。その鍵はこの村にあると僕は見ている」
「あの、どうしてこの村だと……?」
控えめに声を発したレディ・オリビアに、焔さんはローブの中から一枚の紙を取りだして、机に広げた。
「これは、『ザフィアの魔術書』の表紙を写したものなんだ。見てもらえればわかると思う」
焔さんの言葉に、皆が用紙をのぞき込んだ。
見慣れた焔さんのマナペンの色――深紅のインクで書かれたそれは、魔術書の表表紙、背表紙、そして裏表紙をそっくりそのまま写したもののようだった。
「わぁ……」
思わず感嘆の声を漏らしてしまうほど、美しい繊細な模様で飾られている。
表紙は蔦と葉、花のような緻密な模様がみっしりとかき込まれていて、意外なことにタイトルらしき文字は何も記載されていない。
背表紙には何かの花が一輪だけ、シンプルに描かれている。
裏表紙には、飾り枠の中に、何処かの情景が描かれているようだった。
森に囲まれた、教会のような石造りにステンドグラスの嵌められた建物が――……。
「あれ?これって……」
どこかで見たことがあるような……それも、つい最近。
さて……どこだったか。
首を傾げる私の隣で、はっとレディ・オリビアが小さく息を呑んだ。
「ね、ねえレグル?これ……畑側から見た、図書館じゃないかしら?」
「え?……あ、ああ!そうか、あの切り株の辺りの……っ。そうだ、この図書館だ」
2人の反応にひとつ頷いて、焔さんはまた用紙を手元へと引き寄せた。
「そういうことなんだ。あのザフィアがこの村を大切にしていたのは事実だけど、わざわざ封印を施した魔術書の表紙にこの風景を置くというのは、意味があることなんじゃないかと思ってね」
「なるほど、その鍵について調査するための訪問というわけなのですね。承知致しました。ロランディア図書館館長として、全面的に協力致します」
「ありがとう。この村のどこにどんな手がかりがあるかわからないから、本当に苦労するとは思うのだけど、皆、よろしく頼むよ」
「はい……!」
焔さんの言葉に、つい力んだ返事をしてしまった。
真剣な調査だということは分かっているけれど……どこか物語の中のような、何かのミステリー小説のような展開に、ちょっとだけわくわくしてしまっていたのも事実だった。
そうして午後は、どんな調査を誰が担当するか、という話合いに時間を割いて過ごした。
結果、図書館に所蔵されている古い文献などの調査については、基本的に焔さんが担当。
図書館内についてはレグルとレディ・オリビアに任せ、隠された部屋や怪しいものについて再調査してもらう。
そして、私とライオット王子に任せられたのは、このロランディア村全体の調査。
村人たちと交流したり、昔話や不思議なことなど、そんな細かいことを調べて欲しいということだった。
話合いが終わった頃にはもう夕方で、全員一緒に図書館内の案内をしてもらった。
レディ・オリビアが夕食の支度に、と席を外している間に、図書館内の一般書架、保管書庫、作業部屋をぐるりと巡る。
ロランディア図書館の一般書架は、吹き抜け2階建てのぐっと長い回廊に木製の書棚が並ぶ、古い図書館そのものといった内装だった。
外壁と同じ石造りの壁には、所々歴史のありそうなタペストリーが掛けられている。
古い木製の書棚に納められた本たちは、真新しいものから触ったら崩れてしまいそうな古いものまでそれなりの量が納められているようだ。
保管書庫もきちんと掃除が行き届いていたけれど、古い本たち特有のかび臭さが籠もっていた。
一般書庫の奥にある小部屋で、とても狭い場所だったけれど……引きこもり属性の焔さんは、ここが一番気になる、と言って、そのまましばらくそこに居座ると調査を始めてしまった。
レグルが構わない、と言うので、残った私とライオット王子はそのまま作業部屋を見せて貰い、また戻ってきた食堂でレディ・オリビアの用意してくれた夕食を頂いた。
夕食の後は、各自解散。
私は一度個室に戻ってから、リブラリカへと帰る為に図書館を後にした。
事情は既に話してあるので、誰にも会わないままに図書館の外へと出る。
もうだいぶ夜も更けてきた頃合いだったけれど、夏の陽はようやく暮れ終わるくらいの高さだったらしい。
周囲はまだぼんやりと、薄赤い色に染まっていて、暗くはなかった。
「黄昏時だなぁ。だいぶ陽も伸びたもんだ」
来たときと同じように、自分で歩く気のまったくない黒猫がふわぁと肩の上で欠伸をした。
「だね。……街灯とかもないみたいだし、真っ暗にならない内に早く行かなくちゃ」
リブラリカに通じる扉は森の中にある。
帰り道用に、とシャーロットから貰っていた小型魔道具のランタンを取り出して、私は村の入り口に向かって歩き始めた。
コツコツと石畳を踏む一人分の足音。
どんどん薄暗くなっていく村の広場を通り過ぎると、それぞれの建物の煙突から煙が立ち上っているのが見えた。
きっと、夕食の準備をしているのだろう。
途中、タタタッと軽い足音がして、帰宅途中らしい小さな子供が離れた前方を駆け抜けていく。
どこからか聞こえてくる微かな笑い声は、何処かの家庭のものだろうか。
「……すごく、のどかだね」
「まぁ、ど田舎だからなぁ」
ぽつりとそんな会話をしながら、村の出口を通り過ぎる頃。
辺りはとっぷりと宵闇に覆われていた。
手元のランタンの明かりと、道案内してくれるアルトの声を頼りになんとか森の中の扉までやってくる。
街道を逸れて真っ暗な森に足を踏み入れる時には、さすがにちょっとだけ足が震えた。
アルトがいなければ、こんな真っ暗の中、ここまで来ることはできなかっただろう。
夜の森は暗い。
そんなことわかっていたはずだけれど、実際に足を踏み入れたそこは、ランタンを持っていても本当に真っ暗で……。
一歩先に地面があることさえ疑わしくなるほど、静けさと葉ずれのざわめきで満ちていて。
「――っ!」
ざあああっと風が樹の葉を揺らすと、その音の大きさに身体が飛び跳ねた。
心がざらざらしたものでなで上げられるような不安に、身を固くする。
「ほら、さっさと扉くぐれ」
「う、うん……」
私が怯えているのを察してくれたのだろうか、アルトの尻尾がふわりと私の頬を撫でて、いつもよりちょっと優しい声が促してくる。
早く帰りたい。
そんな気持ちで、木製の扉に手を当てると、それは重さも感じることなくすっと奥へと開いた。
扉の向こうは、見慣れた最奥禁書領域の薄明かり。
何となくそれにほっとして、扉をくぐり抜け、扉を閉めようと手を伸ばした。
ぎいい、と小さな音を立てて、扉が閉まっていく――森の気配が、扉の向こうに消えるその瞬間。
「――え?」
ちらりと、木立の間に白い影が横切ったように見えた。
困惑する中、一瞬の出来事だったそれは、ぱたりと閉じた扉の向こうに消える。
「……あると」
「おう?」
扉を閉じた体勢のまま、身体はがっちがちに固まってしまっている。
ひっくり返ったような声で、ばくばくと全力疾走する鼓動をそのままに、私はそっと相棒へ問いかけた。
「この、世界って……まさか普通に、おばけ、いたりする……?」
そんなものいないと、いつも通り鼻で笑って欲しかった。
……切実に。
本当に切実に、今だけは。
しかしアルトさんはきょとんとした顔をして、呆れたように溜息を吐いたのだ。
「おばけってお前なぁ、幽霊くらい普通にいるだろ」
一番聞きたくなかった台詞に、私はその場でへなへなと崩れ落ちた。




