77.ロランディア村
「実はね、かなり大昔に繋げた扉があるんだよ」
ロランディア村へと向かう日。
最奥禁書領域の外へと通じる扉が立ち並ぶその場所で、焔さんは悪戯っぽい笑顔でそう言った。
「準備の期間中に、ちゃんと動くかどうかとか、繋がった先が無事かどうかは調べておいたから、大丈夫なはず。……ええと、ほら、これ」
焔さんが手を掛けた扉は、ものすごく古いものに見えた。
扉の間の奥の方で、ひっそりと佇んでいた特に飾り気もない木の扉。
ドアノブなんてついておらず、ただ古くさいかんぬきがかけられているだけの質素な扉だった。
「さて、それじゃ準備はいいかな?」
「はい」
モニカからもらってきた、お昼ご飯の入ったバスケットをぎゅっと握って頷く。
肩の上でアルトがふいっと尻尾を振ると、焔さんはそれを合図に扉のかんぬきへ手を掛けた。
ぎいい、と金属が擦れる嫌な音がして、木の板が外される。
ぐっと扉を押し込むと、隙間からふわりと濃厚な緑の匂いが溢れてきた。
長身をかがめて扉をくぐった焔さんの後に続いて、恐る恐る扉を通り抜ける。
さく、と軽い音を立てて、靴が踏みしめた地面はふかふかしていた。
眩しいくらいの日差しと緑色の光りに包まれて、目を細める。
ゆっくり慣れてきた視界いっぱいに広がったのは、鮮やかな黄緑。
初めて聞く鳥の鳴き声。
吹き抜ける生ぬるい風が揺らす、木の葉の大きな音。
そこはまさに夏の森というにふさわしい、緑豊かな森の真っ只中だった。
「わぁ……」
こんな自然は、元の世界でだって観光地にでも行かなければお目にかかれない。
また一歩踏み出せば、さくりと足下で音がする。
見れば、地面は下草と野生の花、所々が苔やきのこで覆われていて、人の手のあまりはいっていない森の中そのもの、という感じだった。
「すっごいでしょ。ロランディア村は、本当に辺境のど田舎だから」
背後で扉を閉めながら、焔さんが苦笑気味に言った。
振り返ると、私たちの入ってきた扉は、石を積んで作られた崩れかけの小さな小屋のような建物だった。
すっかり苔むして蔦に絡まれたその建物は、ほとんど森に同化してしまっている。
じっと見つめる私の視線に気づいたのか、焔さんが「ああ」と小屋へ手を伸ばした。
「これ、当時のままだからね。もうボロボロでしょう?一応保護の魔術は効いてるから、崩れてなくなっちゃうってことはないけど」
「当時って、いつぐらいからある物なんですか?」
「うーん……えっと、建国の時から、だよ。ザフィアが村の様子を見に来るのに使いたいって我が儘を言うから、仕方なく用意してやったんだ」
そう語る焔さんの瞳が、ほんの少し柔らかく細められる。
しかしそれも一瞬のことで、焔さんはくるりと踵を返すと、私の背に手を当てて歩くように促してきた。
「さ、村はすぐそこだから。行こう?」
「……はい」
本当はもっと、昔の話を聞いてみたい……けれど、いつもこうして、するりと話題を変えられてしまう。
やっぱり、焔さんは過去の話をしたくない、のだろうか。
後ろ髪引かれる思いで、ほんの一瞬振り返った森の中。
ぽつんと佇むその小さな小屋を、もう少し見ていたかった。
小屋から少し土手を上ったところには、あぜ道が敷かれていた。
舗装されたわけでもない、土がむき出しで踏み固められただけの道に、いくつか馬車の轍のようなものが残っている。
その道を5分ほど歩いたところで、村の入り口が見えてきた。
粗末な木の柵と、村の入り口だと分かる傾いた木の看板。
そこを通り過ぎた後には、人工の石垣のようなものが続き、ぽつりぽつりと粗末な民家が見え始めた。
家々の庭には木々や畑があって、洗濯物が干してあったり、割りかけの薪があったり。
本当に田舎というのがふさわしいような、のどかな光景の中に、時たま家畜のような動物の姿も見えた。
「……焔さん、ここが?」
「そう、ここがロランディア村。……うん、ここも変わらないなぁ」
すたすたと前を歩く焔さんの、のんびりした声が返ってくる。
しばらく歩いて、足下があぜ道から石畳に変わる頃には、道の脇に見える民家も多くなり、たまにこちらを珍しそうに眺める住民の姿も見え始めた。
くすんだ色の質素な服を着た、農民風の人が多い。
皆こちらを見つけると、作業の手を止めて様子を窺うようにじっと視線を向けてきた。
嫌な視線ではない……けれど、まあ、見られている感覚というのは、あまり居心地の良いものではない。
確かに、焔さんは飾りのついた、いつもの豪奢な黒いローブ姿だし、私はワインレッドのリブラリカの制服だから、この村ではだいぶ浮いてしまっているようだし、この村の住民としてはもの珍しいに違いない。
肩の上に乗ったままでいるアルトが、深い溜息をついた。
「……ここでも見世物かよ」
ちょっとうんざりした様子の声に、苦笑してしまう。
確かに最近、人の視線を向けられることばかりだなぁ。
正直苦手なのだけど……焔さんと一緒にいる以上は、仕方ないのかもしれない。
「もうすぐ広場が見えてくるよ。あの王子ともそこで待ち合わせだから」
「はい、マスター」
やっぱり焔さんは周囲の視線など全く気にしていないみたいだし、もう気にしないようにするしかないようだ。
焔さんの言葉通り、すぐに前方に開けた空間が見えてきた。
オルフィードの城下街のように、石造りの噴水を中心にした、円形に近い広場。
その端の方に、この村には不釣り合いにしか見えない、豪奢な王宮の馬車と何頭もの馬が集まっている一角があった。
見慣れたオルフィード国の旗を持つ騎士に、お城で見る侍従さんの姿もある。
それらを遠巻きにするように、広場にはそこそこ多くの村人が集まってきている様だった。
……これは何とも、わかりやすい。
ざわざわと村人たちがいるところへ、焔さんは気にせず進んでいく。
間もなく私たちに気づいた人達が、互いをつつきながら道をあけてくれた。
「……ああ、そうか。それは助かる」
あ、と行く先から聞こえてきた声に顔を上げるのと、人垣の中心に居たきらっきらの人物と目が合ったのは、ほぼ同時だった。
「大賢者!秘書殿も、到着したか!」
王子としての言葉で、それでも嬉しそうにライオット王子が目を細める。
焔さんもにこりと貼り付けたような笑みでそれに応じた。
「うん、そっちもご苦労様」
感情が全く籠もっていない棒読みな台詞に、肩のアルトが吹き出した。
王子は諦めたようにちょっとだけ肩を竦めてみせると、隣に立っていた小柄な老人に向き直った。
「村長、改めて紹介する。こちらが大賢者イグニス殿と、その秘書殿だ」
「……おお、おお」
老人は杖をつき、曲がった背を支えながらよたよたとこちらに向き直ろうとしていた。
白く長い髪を編んでまとめていて、寄り添った若い青年に支えられながらいる姿は、相当な高齢に見える。
彼がこの村の村長、ということらしい。
老人が震えながら指しだしてきた手を、焔さんはそっと握って微笑んだ。
「初めまして、今代の村長。しばらくの間世話になるよ」
焔さんの言葉に村長はしきりに頷くと、掠れているわりにしっかりとした声で応えた。
「ようこそ、ようこそこんな辺鄙な村までおいで下さった。村一同、心より歓迎申し上げますぞ、偉大なる大賢者様」




