73.王宮からの手紙
都心の隅、とある町の、とある駅前にある小さい商店街に、その店はあった。
薄汚れた外観で、建物と建物の間に押しつぶされそうに挟まる小さな店舗。
いかにも怪しそうな、今にも風に吹かれて飛んでいきそうな看板には、『求人支援 ハッピーワークアップ』という店名が消えかけのペンキで書かれていた。
普通に生き、生活している人間ならば素通りしてしまうその店の薄暗い店内で、平凡な身なりの男性が書類の山と向き合っていた。
「ふう」
小さく息を吐いた男性が、黒縁の眼鏡をくいと上げる。
どこにでもいそうな、黒い短髪にスーツ姿のこの男性。
こう見えて実は、政府の機密組織・異世界管理課の職員だ。
「やれやれ……仕事が減りませんね」
そう独りごちた男性――境信彦は、次の書類を手元に引き寄せ、おや、と少しだけ目を見張った。
「ああ、この方……。うん、元気にやっているようで何よりです」
書類に記載されているのは、彼が管理している、異世界へ渡ったある女性の勤務報告だった。
こちらの世界とあちらの世界を行き来しながら、という少し特殊な勤務形態ながら、禁則事項を破ることもなく良く働いているらしい。
勤務初期の頃、彼女から掛かってきた電話を思い出して、境はしみじみと頷いた。
「上手くいっているのならよかった」
きっと今日も、彼女はあちらの世界で一生懸命働いているのだろう。
自分も頑張るか、と気合いを入れ直すため、新しいコーヒーでも買ってこようとスーツの上着を手に取った。
私――堀川梨里が、この異世界一の大図書館リブラリカで、大賢者様と呼ばれる館長の秘書として働き始めて早3ヶ月。
オルフィード国は夏と言っていいくらいの高い気温で蒸されているというのに、この図書館の中はひんやり、からりと、本にとって非常に良い環境に保たれていた。
半袖のブラウスにベスト、通気性の良い生地のスカートという真新しい制服へ衣替えはしているものの、館内にいる間は薄めのカーディガンを羽織って仕事をするのがここの職員たちの常識らしい。
特に、この国立大図書館の奥の奥。最奥禁書領域と呼ばれる大賢者様とその秘書しか入ることのできない特別な書架では、室温の変化はまったくなく、むしろカーディガンを羽織っていても少し肌寒いくらいだ。
定位置であるアンティークの机で作業していた私は、ふと時計に目をやった。
繊細な飾り彫りのされた時計の針が指していたのは、午後の3時過ぎ。
うん、丁度いい時間だ。
「よし、アルト。これ届けに行くから手伝って」
机の上に並んだいくつものポプリを籠に入れながら、背後へと声を掛ける。
ふああと大きな欠伸が聞こえたと思えば、続けて、とすっと肩に衝撃を感じた。
「ん、妖精避けできたのか」
「うん、ちゃんと教えてもらった通りに作れたよ」
肩に乗ってきたのは、喋る黒猫。
大賢者様の使い魔で、私の相棒のアルト。
彼は宝石のような鮮やかな紅い瞳で山のようなポプリを見やると、ふさふさした尻尾でぽんぽんと私の頭を優しく叩いた。
「おー、えらいえらい」
少々雑な気もするが、褒めてもらえたらしい。
手元にあるのは、先日作り方を習ったばかりの、妖精避け効果のある薬草を組み合わせて作るポプリだ。
この世界に当たり前に存在する妖精の中には、図書館の本へ悪戯をする種類もいるから、こうして定期的にポプリを作り交換するというのも、この国の司書の重要なお仕事なのだそうだ。
アルトを肩に乗せたまま、最奥禁書領域の端にある扉のエリアへと向かう。
ただのがらんとした空間に様々な扉だけがぽっかりと立っているその場所は、この領域から様々な場所へと繋がっている出入り口のようなものだ。
見慣れた扉のひとつを開くと、その先には小さな面談室。
少し前まで、毎日のようにここで淑女のマナー講座を受けていたのが懐かしい。
面談室から一歩廊下へと出ると、ほんの僅かに体感気温が上がったのを感じた。
「外はもう、すっかり夏だね」
廊下の窓から見える中庭には、色鮮やかな花が咲き乱れている。
今日は良い天気で、日差しも強そうだ。
「外はなー。ま、リブラリカの中ならそんなの気にならんけどな」
あまり興味なさそうにしながらも返事をしてくれる相棒に、私はうん、と頷いた。
「本当にすごいよね。魔道具で気温の調整してるんだっけ?」
「ああ。本の保管には大切なことなんだろ?」
「うん、すっごく大事なことだと思う。さすが焔さんだよね」
「あいつほどの本バカはそうそういないからな」
「確かにそうかも」
焔さん、と呼んでいる大賢者様のことを思い出して、自然と笑みが浮かぶ。
今朝も朝食を持って行った時、自室で本の山に埋もれて寝ていたっけ。
私の上司である彼は、こちらの世界ではイグニスという名前で知られる大賢者様で、このオルフィード国建国当初から800年以上生きている、伝説になっているような人だ。
そんな途方もないような年月を生きた偉大な大賢者である――なんてこと、普段の彼の様子からは、どうにも実感がないのだけれど。
とにかく本が大好きで、整った容姿でたまに少年のようにきらきらした笑顔を見せる彼に、私はひっそり片思いしている。
……まぁ、相手が本しか頭にないような愛本家であるがゆえか、3ヶ月が経った今でも、一向に私との関係に変化はないのだが。
そんなことをぼんやり考えながら、廊下の角を曲がった丁度その時。
「あ――リリー!」
聞き慣れた可憐な声が背後から聞こえて、私は足を止めた。
「シャーロット。どうしたの?」
振り返ると、私を呼び止めた金髪の美人が鮮やかな青い制服を揺らして、早足にこちらにやってくるところだった。
この世界で一番の親友であり、この大図書館リブラリカで副館長を務めている才女、シャーロット・ロイアーだ。
彼女は私のところまで来ると、「丁度よかったですわ」、と一通の手紙を差し出してきた。
「ちょうど今、貴女のところへ伺おうと思っていましたの。王宮から大賢者様宛に急ぎのお手紙が届いたので、お渡しをお願いしたくて」
「王宮から?」
王宮とは定期的に書状のやりとりをしているはずだけれど、急ぎというのは珍しい。
驚きながらも受け取った手紙は相変わらず上等な紙を使ったもので、蝋で封をされた手紙の差出人は国王の名義だった。
急ぎ、だなんて……何だろう?
「わかった。すぐに渡してくるね」
「ええ、お願いしますわ。……あ、そのポプリは一般書架用のものでしょう?宜しければ私が預かりますわ」
「……ありがとう、助かります」
シャーロットは副館長でとんでもなく忙しいはずなのだけど、陛下からの急ぎの手紙を頼まれた以上、素直にお願いしてしまうのが正解だろう。
「それじゃあまた、お茶の時間に会いましょうね」
「うん、またあとでね!」
笑顔で手を振り合って、私は手紙を届けるべく、足早に元来た道を引き返した。
「焔さん、部屋にいるかな?」
肩の上のアルトに聞くと、しばらくぴくぴくと髭を動かしていた黒猫はこくりと頷いた。
「おう、大丈夫そうだ」
「ありがとうアルト」
再び最奥禁書領域へと戻ってきて、そのまままっすぐに焔さんの部屋へと向かう。
コンコンコン、とノックすると、中から「どうぞー」と返事が返ってくる。
美しい彫刻の施された扉を開いて、本に埋もれるような大賢者様の私室へと足を踏み入れる。
「失礼します。焔さん、王宮から急ぎのお手紙が来たので、届けにきました」
「お、やっと来た?」
くるりと作業机からこちらを振り返った焔さんの右肩で、三つ編みにされた、紅みがかった長めの黒髪が揺れる。
整った顔立ちですらりと高い身長の、青年にしか見えない彼が、800年以上生きている大賢者イグニスだ。
きらきらとした少年のような笑顔とその反応から、どうやらこの手紙が来るのを待っていたらしいということが窺える。
待ってましたと言わんばかりに駆け寄ってきた焔さんに手紙を渡すと、彼は指先をすっと封筒に沿って滑らせた。
その動作だけで、指先から微かに紅く輝く細かな粒子――マナが舞い散り、封筒は綺麗に開封される。
便箋を取り出しざっと目を通した焔さんは、こちらに視線を戻すとにっこりと笑顔を向けてきた。
「梨里さん、今から王宮に行こうと思うんだけど、一緒に来れるかな?」
「……はい?!」
久々にひっくり返った声が出るほどびっくりする私をよそに、焔さんはにこにこと上機嫌でいつもの豪奢な黒いローブへと手を伸ばしていた。




