242.虹の街からの旅立ち<2>
朝食後の荷物整理は、これまたすぐに終わってしまった。
そもそも、この旅にあまり物を持ってきてはいない。
最低限の着替えと、身の回りのものや……焔さんとお揃いのマナペンと、栞と。
それから、このママルファ=エルで購入した、妖精の国産の手帳。
植物で作られた表紙をぱらりと捲ると、そこにはマナペンで書き綴った、私自身の文字が並んでいる。
ここには、妖精の国での出来事や、この旅で感じたこと、思ったことを記録している。
人間の身で、妖精の国に訪れること自体、稀なことだというし。
念のためフェイン=ルファンに確認したところ、ここでのことを書き留めておくこと、人間の世界に戻ったとき本にすること等、何も問題ないと言っていた。
だったら、人間の国に帰った時に、少しでもこの場所のことを伝えられるように。
そう思って始めた、記録帳だ。
全ての荷物を机の上に並べ、確認し終えて、私はふう、と息を吐いた。
これだけの荷物……小ぶりな机の上に収まってしまう程度のものたちだが、少ないとはいえ、両手に一抱え分くらいはある。
だが実際持ち運ぶときには、小さなポシェットひとつにまとまってしまうのだから、かさばらないし重くもなくて、本当に有り難い。
よいしょと取り出したのは、旅の間、肌身離さず身につけている、小さなポシェットだ。
上質な茶色の皮で作られているポシェットは、緩やかな半月の形をしていて、金具までクラシックで上品な作りになっている。
私はポシェットの蓋を開けると、中に次々と、荷物を入れ始めた。
するん、するんと暗闇に消えていく荷物たち。
そう――このポシェットは、所謂『マジックバック』というものだ。
私の妖精の国行きが決まってすぐ、リブラリカの復旧作業で忙しくしているはずのシャーロットがやってきて、少しだけ赤い目元でこれを押しつけてきた。
「旅に出るなら、絶対に持って行くんですのよ!」と……あの時は本当に驚いたけど、彼女のお陰で、とても楽に旅が出来ている。
シャーロットは、「大したものではないから受け取って!」、と言っていたけれど……その後、このマジックバックを見たオリバーの顔の引きつり具合から察するに、どうやらだいぶ高価なお品らしい。
このバックのお礼……というわけではないけれど、人間の国に帰るときには、何か素敵なお土産を持って行けたらいいな、なんて考えている。
お土産……用意しても、帰るのが何年後になるのかなんて、わからないけどね。
「……だめだめ。またこんなこと考えて」
ぱん、と頬を叩いて、残りの荷物をポシェットにしまいこんで。
綺麗に整えた部屋を一度、振り返ってから……私は、3日間お世話になった場所を後にした。
集合は、確か昼食の後だから……。
うん、昼食まであとちょっとだけ、時間がある。
私はその足で宿舎を出て、すっかり慣れた妖精の道を駆け下りて、市場の妖精たちへと別れの挨拶をしに向かった。
市場で良くしてくれた妖精たちは、皆口々に別れを惜しんでくれた。
沢山のことを教えてくれたことに、丁寧にお礼を言えば、「人間の世界のことが聞けて楽しかった」、と逆にお礼を言われ……。
宿舎に帰ろうという時には、私は両手いっぱいに、頂き物を抱えていた。
ハーブに雑貨、果物に、布、貴重な宝石まで……。
妖精たちの温かい気持ちが、本当に有り難かった。
「……どうしたの、それ」
突然、呆れ声が背後から聞こえたって、もう驚いたりしない。
「お世話になりましたって、みんなに挨拶に行ったら……色々もらっちゃった」
そう応えて振り返ると、想像した通りの呆れ顔をしたルゥルゥが、溜め息を吐きながら荷物をひょいと取り上げてくれた。
「俺が持ってるから。早くしまっちゃいなよ」
「ありがとう、助かる」
両手一杯の荷物だって、マジックバックがあるから平気。
みんなからの気持ちを大切に、ひとつひとつしまいこむと、私はルゥルゥと宿舎のほうへ戻り、最後の昼食を取った。
気がつけば、あっという間に出立の時間だ。
ママルファ=エルの端にある、出立用の広場へ行くと、使節団以外にもこの街から移動する妖精たちがいるようで、広場はすごく混んでいた。
「わあ……」
だだっ広いその場所には、ルゥルゥの大鳥のような、大きな獣型の妖精たちが沢山いたのだ。
あちらには鷲のような鳥、またあっちには、フェイン=ルファンの獅子のような、翼の生えた大きな獣……。
中には、海の生物のような形をした妖精も飛んでいたりして、その多様さに目が奪われた。
よく見ればみんな、行商の妖精が使役しているものだったり、移動屋と呼ばれる、空のタクシーみたいな仕事に使われている妖精たちのようだ。
「リリー。こっち」
ルゥルゥの呼び声に走って行くと、広場の一角に、私たち使節団の出立場所が準備されていた。
「くぅるるる!」
ルゥルゥの側で鳴くのは、私もすっかり仲良くなった、彼の大鳥だ。
「またよろしくね」
頭をすり寄せてきた大鳥をそっと撫でて、優しく伝えたところ、ひんやりした身体で頬ずりされた。
全身が水で出来た大鳥だが、こうして触ることもできるし、触っても濡れることはない。
不思議な存在だが、ルゥルゥ曰く、あのフェイン=ルファンの獅子も、実は触っても手が焼けたりすることはないのだそうだ。
……まぁでも、獅子が「燃やそう」と思えばやけどすることはあるみたいなので、自分から触れようとは思えないけれど。
ルゥルゥに手助けされて、大鳥の上に登る。
先頭を行くフェイン=ルファンが飛び始めると、いよいよ出立だ。
どんどん背後へ小さくなっていく虹色の街を、名残惜しく見つめる。
妖精の国の旅は、まだ始まったばかりだ。
次に向かう王都では、ついに……妖精の女王と、会える。
ぐっと前を向いた私に、緑の香りが瑞々しい、優しい風が吹き付ける。
広がる緑深い森を眼下に、使節団は風に乗って飛び続けた。
しんと、幻想的な程の静けさが、ゆらりと揺れた魔力に乱された。
繋ぎ目がめちゃくちゃになってしまったリブラリカ――最奥禁書領域。
梨里が旅立ってからというもの、ただ静寂だけに満たされた揺り籠だった場所に、またゆらり、とマナが揺れた。
――宝石の中で目を覚ましたのは、大賢者イグニスの使い魔だ。
(ん……なんだ、俺、えっと……)
ぼんやりとした寝起きの頭で、ゆっくりと思い出したのは、リブラリカが炎に包まれた、あの日――。
(そうだ、俺……戦ってる最中に、気を失っちまって……)
ハッとして、自分の状態を確認する。
まだまだ本調子とは言えないが、いつもの子猫の姿を保つくらいならできそうだ、と判断する。
しゅるん、と宝石から出て、黒猫の姿で降り立ち……。
――そして、気がついた。
「おいおい……なんで、これ外れてんだよ」
アルトが宝石から出てまず見たのは、机の上に置かれたブレスレットだった。
これは、イグニスがリリーを俺の仮の主にするために渡したもの。
イグニスのやつか、それ以上の力を持つようなヤツにしか外せないはずなのに、どうして……。
イグニスのヤツが外す訳がないから、これは、他の誰かが外したんだろう。
そして、ブレスレットのすぐ側に、青白い顔で寝ているイグニスの姿を認識した。
「お、おい……イグニス?!」
驚いて枕元へと駆け寄る。
口元を確認すると、微かに寝息が漏れていて……アルトはへなり、とベッドへ沈み込んだ。
……イグニスが無事で、本当によかった。
しかし、この状態は……。
見渡した最奥禁書領域は、繋ぎ目がズレまくっていてめちゃくちゃだ。
まあ、イグニスの衰弱っぷりを見るに、これは仕方ないだろうと思うが……。
どうして、すぐ側にリリーがいない?
イグニスが寝込んでいるのなら、すぐ側にリリーがいるはずだと……当たり前のように、そう思っていたのに。
気配を探ろうにも、リブラリカの敷地内に、彼女の気配がないのだ。
痕跡さえも、もうしばらくこの場所にいないかのように、薄れて消えかかっている。
……どういうことだ。
ブレスレットが外れているから、彼女がどこに居るのか探れもしない。
イグニスは昏睡状態で弱り切ってやがるし、もう、一体何がどうなって……。
まさか、リリーは妖精のやつらに……。
いや、落ち着け俺。
うろうろ、うろうろと。
その場をどのくらい、歩き回っていただろう。
……まぁ、こうしていても埒が明かない。
ひとまずは、周囲の状況を確認しにいこう、と。
アルトはひとり、表側のリブラリカへと出掛けることにしたのだった




