207.強い自分になりたいと
食堂から戻ってきた私は、しばらく自分の机で書類仕事を片付けていた。
久しぶりにオリバーと話して、何だかほっとした気がしていた。
戻ってきた最奥禁書領域は、いつも通りしんと静まっていて……執務室にもどこにも、焔さんはいないようだった。
焔さん……ヴィオラと話してくる、って言っていたけど……こんなに時間かかって、何を……?
まあ……片付けが終わったらもう帰っていい、って言われたし、すぐ戻るとか、そんなことを言われたわけではないけど……。
書類に向かいながらも、ついつい時計を気にしてしまう。
――だめ。全然、集中できないや。
コト、とマナペンを置いて、うんと伸びをする。
するとふわ、と柔らかな感触が手に触れた。
「ん?……あ、あなた」
白い、ほわほわとした綿毛のような姿。
それは、ほよりと漂っているようでいて、きちんと意思を持った妖精だ。
「フィイ。どうしたの?」
図書館の妖精、フィイは、甘えるように私の手にすり寄ると、そのまま胸元へとほんわり降りてきた。
優しく受け止めて、ほわほわの毛を撫で回す。
本当にほんのりと、温かさの感じるその塊を手の中で撫で回しながら、私はふうと大きく息を吐いた。
「……待ってても、仕方ない、か」
あの人は本当に気まぐれだから、いつ帰ってくるかもわからないし。
なんだか今日は、落ち着かなくて仕事を終える気にもなれない。
なら――。
私は書類を片付けて立ち上がると、フィイを椅子の上に置いて、歩き出した。
思い浮かんだのは、黒い司書服のレグルだ。
まだ、今日のお礼を言えてない。
ぐちゃぐちゃになってしまった一般書架の様子も気になるし、彼を探しながら、一般書架まで行ってみよう、と決めた。
最奥禁書領域から出ると、廊下をばたばたと司書たちが走り回っていた。
いつもならば、走ってはだめよと注意するところだが……あんなことがあった後で、復旧作業に忙しい今は、仕方がないだろう。
廊下を歩いている途中、何人かの顔見知りの司書たちが挨拶をしてくれた。
短く状況を聞いてみると、館内にいる司書たち総出で、一般書架の片付けに当たっているようだ。
それでもまだまだ、大変な状況らしい。
やっぱり帰って休むより、みんなを手伝ったほうがよさそうだ。
やっと到着した一般書架のホールでは、何人かの組に分かれた司書たちが、懸命に清掃作業をしてまわっていた。
ぱっとみた所、だいぶマシにはなってきているが……今日中に再び利用者を迎え入れるのは、難しそうな様子だった。
カウンターの近くでは、青い制服のユリーシアが、司書たちに指示を出しているようだ。
声を掛けるか迷ったけれど……、まずはレグルを探したいな。
そう思い、ホールをうろうろとしていたところ――。
「あ、お姉ちゃん!」
可愛らしい声と共に、ミモレがぱたぱたと走り寄って来た。
「ミモレちゃん!大丈夫だった?」
「はい!おねえちゃ……あ、リリー様のおかげです!」
彼女も復旧作業をしていたのだろう。
片手に布巾を持っていて、制服は所々汚れて皺になってしまっている。
きっと、一生懸命作業してくれてるんだろうな。
「わたしはそんな……。ミモレちゃんも、作業頑張ってくれてありがとう。私もお手伝いしようかと思ったんだけど……」
「……リリー様。その前に、あの」
「うん?」
くい、と袖を引かれて、周囲を見回していた私は、彼女へと視線を戻す。
先ほどとは違い、泣き出しそうな表情のミモレがそこにいた。
「あの……ごめんなさい!」
「え?」
「私のあげた、お守り……!リリー様が、怪我するようなものにしか、発動しなくて……だから、水から、守れなくて……」
お守り、という単語に、はて?と首を傾げる。
けれど、潤む彼女の翡翠色の瞳を見て、何のことを言っているのか、はっと気がついた。
「あ……髪留め?」
手で触れながら呟くと、ミモレはこくんと頷いた。
そっか、これ……魔術が込められてる、とは聞いていたけど、私を守ってくれるものだったんだ。
「ごめんなさい……」
しゅんと小さくなって項垂れるミモレに、私は身を屈めて笑顔を向けた。
「謝らないで。ミモレちゃんは何も悪くないよ。ほら!私も怪我してないし、全然平気だから!」
「……うん……」
「私ね、この髪飾り、とっても気に入ってるの。大切にしてるんだよ。だから、何か危ないことがあったらきっと、守ってもらうから」
「……うん、うん、ずっとつけててね」
「うん!約束する」
やっと笑顔に戻ったミモレにほっとした後、合流してきたリンアード嬢も加わって、私たちは復旧作業に精をだした。
濡れたわけではないものの、少し湿ってしまった本を棚から出して、丁寧に布で拭く。
そんな作業の繰り返しを、1冊1冊、本が無事だったことに安心しながら続けていく。
そのうち、綺麗になった本を棚に戻しながら、ミモレが大きく溜め息をついた。
「もう、まったく……!こんなに忙しい時に、あの人どこにいったのかしら」
「あの人?」
「レグルさんですよ!ちょっと用事があるって言って、ふらっとどこかに行っちゃって……あ!」
ぷんぷん怒っていたミモレは、不意に声を上げるとがばりと立ち上がった。
「もう!どこ行ってたんですか!レグルさん!」
その言葉に、私もがばりと顔を上げて、振り返る。
「すみません、少々話し込んでしまいまして……」
申し訳なさそうに微笑みながらこちらに向かって歩いてくるのは、探していた人だった。
「あっ……」
私が立ち上がると、レグルさんもぴたりと足を止めた。
モノクルの奥の瞳と、目が合う。
普段は優しげな色をした緑の瞳が、ざわりと荒れているように思えた。
彼の視線に、何故か気圧されるようなものを感じて、言葉が途切れる。
そのまま黙ってしまった私に、レグルはほんの少しの沈黙のあと、小さくにこりと笑ったのだった。
「先ほどぶりですね。リリー様も、こちらの手伝いですか?」
「あ……はい」
「お疲れでしょうに、本当に立派なお方だ」
「いえ……その、そんなことは」
……どうにも、ぎこちない会話しかできない。
レグルと面と向かって会話をするのは、あの日――中庭の奥で、『あの話』をしたとき以来だ。
彼が今、どんなことを考えて私と会話しているのか。
わかるはずもないことだけれど、どうしても、構えてしまうのは……彼から責められたことを、引きずっているからなのだろうか。
――しっかりしないと、梨里。
自分で自分に言い聞かせるように、心の中で強く思う。
私は彼を探していたんじゃない。
そう、さっき庇ってもらったお礼を、ちゃんと言わなくちゃと思って――。
「あの、――っ」
なんとか心を奮い立たせて、顔を上げた瞬間だった。
ふわ――と、視界にちらついた、微少なマナの輝きに息を呑む。
水の加護を受けてから見えるようになった、本当に細かなマナの輝き。
レグルの身体から、本当に本当に、僅かな……深紅の色のマナが、ふわりと大気へ散っていったのが見えてしまった。
「……レグルさん、あの……マスターと、会いました?」
レグルが、驚いて目を見張る。
それは一瞬で、すぐに苦笑いを浮かべた彼は、フッと小さく息を吐いて、床へと視線を落とした。
「……本当に、優秀なお方ですね。そうです。先ほどまで、少しお話をして参りました」
「……そう、でしたか」
焔さんは、ヴィオラと話してくる、って言っていたけど……レグルとも話していて、帰ってくるのが遅かったのか。
視界に漂っていた、深紅のマナの粒……焔さんのマナは、ほんの少しふわふわとした後、私の方へと近づいて来た。
触れたい衝動のままに手を伸ばす。
指先に、マナが触れるか触れないか――その瞬間に、マナの粒は、大気に溶けて消えてしまった。
行き先を失った手をぐっと握りしめて……私は、しっかりと顔を上げた。
「……レグルさん。先ほどは、庇って頂いて本当に、ありがとうございました」
ゆっくり、しっかりと、落ち着いた声で。
シャーロットに教えてもらった淑女の礼をして膝を曲げ、ふわりと身を沈めた。
たっぷり数秒待って、ゆっくりと姿勢を戻す。
再び視線を向けたレグルは、まるで眩しいものでも見るかのように、目を細めて私を見つめていた。
返礼のため、持ち上げた手を胸元に添えて、彼がそっと腰を折る姿は、そこらの貴族男性にも劣らない、とても優雅なものだった。
「貴女の盾になれて光栄です。……ふふ、役得でした」
その声色は、優しく、幸せそうなもので……。
そんな視線と声を受けても、微笑んだまま立っていられるだけの器が欲しいと……震える両手を握りしめながら、心底から思ったのだった。




