199.瞼の裏に、あの笑顔
「ミモレさんには、こことここと……あと、ここの書架の整理をお願いできるでしょうか?はい、書架番号はここにメモしましたので」
「はい!行って参ります!」
メリー・リンアード嬢からメモを受け取ると、ミモレは笑顔でぺこんと頭を下げ、指定された書架へと早足で向かっていく。
「……ミモレさん、本当に頼もしくなりましたね。すっかりここの仕事にも慣れて」
「ええ、本当に」
その背を見送りながら、リンアード嬢は眼鏡の奥の瞳を柔らかく細めていた。
私も、ミモレの保護役としてリブラリカへやってきて、もうひと月以上経っただろうか。
まだまだ幼いとばかり思っていたミモレは、ここで司書見習いとして働くうちに、司書としても、そして人間としても、めざましい成長を遂げているようだった。
「レグル様は、ミモレさんと一緒でよろしいですよね?」
「はい。私もすぐ向かいま……」
あれ、と思ったのはその時だった。
リンアード嬢の背後を、青い人影が通り過ぎたのだ。
……青い髪の青年、というだけならば、この国でさして珍しい外見でもない。
それでもぱっと見で気が惹かれたのは、彼の容姿が整いすぎているせいか……それとも、この未練がましい想いがくすぶっているせいか。
正面玄関から入ってきて、ホールで誰かを探すようにきょろきょろしている青年――それは間違いなく、先日リリーに迫っていた、あの青い妖精だった。
……また来たのか、と、苛立ちにも似た感情が黒く渦巻く。
幸い、今日は一般書架にリリーは来ていない。
今ならまだ、追い返せるだろうか。
「レグルさん……?えっと」
突然黙り込んだ私を不思議に思ったのだろう。
リンアード嬢は首を傾げて、私の視線の先を振り返り……あ、と小さく声を上げた。
「あ、あれ……? レグルさん、あの、あの方って……」
「恐らく、リンアード嬢の思っている通りかと」
今の外見は人間そのものだが、妖精姿の彼を知っている人ならば、やはりそれと分かるようだ。
気づいたリンアード嬢は、青くなってあわあわしている。
「ど、どうしましょう……えっと、これはやっぱりリリー様に報告を……」
「――いえ、お待ちください」
すぐに踵を返そうとする彼女の肩に手を置いて、やんわりと引き留めた。
「リリー様もお忙しいでしょう。一旦私がご用件を窺ってきて、必要ならばリリー様へご報告するように致します。それではいかがでしょうか?」
立場上、リンアード嬢が上司ではあるが、年上なのはこちらだ。
彼女は少しだけ迷うように問題の彼を見ていたが、やがてそっと頷いてくれた。
「そう……ですね。私も急ぎの仕事がありますから、すみませんが対応、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい、お任せ下さい」
彼女の了解を得て、私はミモレではなく、あの彼を目指して歩いて行く。
リリー様の好きな、空想上の物語小説が置かれている書架でぶらぶらしている彼の近くまで行くと、さすがに気づいたのか、こちらを見た彼から睨み付けるような気配を感じた。
目元が前髪で隠れているので、はっきりとはわからないが……だいぶ警戒されているらしい。
私はにっこりと笑顔を貼り付けた顔で、彼へと声を掛けた。
「……くそっ」
自分に割り当てられた客室へと帰ってきて、荷物をベッドへと放り投げ悪態を吐く。
「あの腹黒男め……また邪魔しやがって」
本当に気に入らない。これで二度目だ。
折角今日も、リリーの顔を見ようとリブラリカまで行ったのに……会えずにここに帰ってくることになるなんて。
本当に、面白くない……。
翅が痛まないよう、うつ伏せでベッドへと倒れ込む。
ちょうど目の前に、先ほど放り投げた鞄があった。
少しだけ開いた蓋から覗く本に、彼女のことを思い出す。
「……リリー」
小さく名前を呼ぶと、余計に会いたくなるようだった。
ぐしゃり、とシーツを握りしめる。
目を閉じれば、すぐに彼女の笑顔を思い出せる。
小説について語る時の、晴れた日の泉のような、その畔に咲く美しい野花のような。
ぱっと明るく、目を惹くあの笑顔――。
思い返しただけで、胸の辺りがほわりと春風のように温かくなる。
――嗚呼、好きだ。
胸いっぱいの幸せな気持ち。
いつからかわからないけれど……あんなにも憎たらしく思っていた彼女に、恋をしていた。
彼女のような存在に会ったのは、初めてだった。
俺が妖精だと知っていても、彼女は畏れず接してくれる。
あの笑顔を、いつも見ていたい。
今日だって――。
――トントン。
ノックの音とほぼ同時、返事すら聞く気がないように、またもあいつがばんっと扉を開け放った。
「やあ我が友ルゥルゥ! 今日は帰りが早かったな!」
「……はぁ」
やかましい嵐の到来に、盛大な溜め息を吐く。
折角彼女のことを思い返して良い気分だったのに……台無しだ。
だがこいつに、ノックをしろというツッコミはもう、何百年も前からしている。
今更言っても無理だということは、十分、分かっていた。
「……一体何の用だよ、フェイン」
むくりと上体を起こしながら、苛立つ声で問いかける。
フェインはむかつくほどに笑顔のまま、楽しそうにベッドに腰掛けた。
「いやなに、今日もいそいそと出掛けていった君が、なぜか早く帰ってきたようだったからね。何かあったのかなと思って」
「……別に」
「そう?まぁ別にいいけれど。いやあ、人間を花に、なんてふざけたことを言うな、と、あれほどの剣幕で怒っていた君がね。あの子に骨抜きじゃないか」
「うるさいな。……お前には関係ないだろ」
言い方が気に食わないし、言い返したいのは山々だが……。
悔しいことに、確かに過去の自分が言った言葉ではあるし、その通りでしかない。
ふいと顔を背けて、睨みつけるだけに止める。
彼ならいつも通り、面倒くさくこの話題に突っ込んでくると思った――のだが。
「まぁ、君とあの子が仲良くしているのは、好都合なので構わないよ。とてもお似合いなんじゃないか?」
あっさりとそう言って、すぐに立ち上がってしまった。
「本当はもっとゆっくりじっくり、彼女についての話を聞きたいところなんだけどね……とても残念なことに、今の俺は君と話すよりも大切な用事があるから、もう行かなくちゃいけないんだ」
「は?」
予想外すぎる言葉に、思わず顔を上げてしまった。
こいつが、俺に突っかかってくるのをやめるくらい大切な用事って……。
フェインは扉の前でこちらを振り返り、くすりと気味の悪い笑みを浮かべた。
「君の相手ができなくて、悪いね。……私の愛しの花が枯れないうちに、愛を注ぎにいかなくては」
ぱちん、とウインクまでして、フェインは去って行った。
取り残された俺は、脱力してまた、ベッドに突っ伏す。
「……なんで俺が、謝られなきゃならないんだ」
やはり今日も、フェインの言動には納得がいかなかった。
ルゥルゥの部屋を後にして、向かったのは使節団に割り当てられた一角からほど近い位置にある、談話室。
人間の王に頼んで用意してもらったこの部屋だけは、外の気温に関係なく、常に暖炉には火が灯っている。
カーテンも閉め切り、昼間でも薄暗い部屋の中。
フェインが暖炉に近づく度に、その火は段々と大きく燃え盛り――。
彼が暖炉の前に片膝をつき、仰々しく頭を垂れると、部屋中を燃やし尽くしてしまうのでは、と心配になるほどの大きさで、暖炉の枠すら越えて、炎がぐんと大きく広がった。
「――フェイン=ルファン、我が愛しの女王陛下へご報告に上がりました」
フェインが朗々と告げて、数分後。
「――フェイン? 貴方なの?」
ゆらり、と怪しく、炎の表面が揺らめいて、その中心から鈴を転がすような、星の瞬きのような、繊細で美しい少女の声が響いた。




