狂王アインの慟哭
ずしりと、剣が重さを増した。
つっと刃を伝う、赤い血。
アインは、返り血を浴びることを気にすることなく、剣を乱暴に引き抜く。支えを失ったそれは、ごとり、と鈍い音を立てて転がった。ゆるく斜面になっている部屋の、一段、高いところ。そこには、領主のために用意された大きな椅子がある。たった今、所有者を失った椅子が。
じわりと、石の隙間を縫うように、赤い血が伸びていく。その様子を、アインは目で追っていた。
ああ、俺は壊れたのだな、と妙に冷静に思う。
実の父を殺し、その骸を前にしても、何も感じない。
ただ、ずっと、繰り返し叫んでいる。
ただ一人の名を。
柔らかな光を放つ、黄金色の髪。深い碧の瞳。
それが炎に飲みこまれていく。
脳裏に焼き付いて、消えない紅蓮。
愛しい幼馴染は、魔女として、火刑に処された。
『お願い、キリーを助けて!』
小鳥の形をした式が、よく知る子供の声でそう叫んだのは、王都にたどり着いた直後のことだった。
「・・・危急だ!帰る!」
挨拶もせずに踵を返すのは、不敬である。咎められるに違いないが、行く手を阻もうとする王都の騎兵を置き去りに、アインは来た道を駆け戻った。
そして見たのは。愛しい人が火刑に処される光景。
赤い炎が、輝かんばかりに白く眩しくなって。
その身体は黒い、輪郭だけのものになる。
もう、間に合わないとわかっていても。手を伸ばすのを止められなかった。
指先に触れた瞬間。
人の形すら失って、崩れゆく黒い灰。
炎は急速に力を失って、跡形もなく散っていく。
嘘だ。
こんなこと・・・・・きっと、夢だ。
腕を染める、黒い灰。
これが、これが。キリアエルだなんて。
「・・・うあああああああああ!」
どうして逃げなかった?
お前なら、お前なら、逃げられたはずだろう。
捨てればよかったんだ。・・・俺ごと、すべて。
名を呼ばれるのが好きだった。
その瞳に映るのが好きだった。
柔らかな髪を、指に絡めて。そっと口づけるのが好きだった。
喪った。すべてを。
残っているのは、もう、いらないものばかり。
許さない。
許さない。
許さない。
ドミヌスの神官、シェーベルがキリアエルに邪な感情を抱いていたのは知っていた。奴の望みは、キリアエルを改宗させて、彼女を妻に迎えること。それを拒否したから、殺したのか。こんな残酷なやり方で。
黒い灰になった彼女のすぐ横で、這いつくばる奴の姿を見て。
何も考えずに剣を振った。
・・・ああ、失敗した。
もっともっともっと。
苦しめて苦しめて、苦しめてから殺せばよかった。
こんな、一瞬で終わらせるなんて。
シューベルの首が跳んで、トン、トントン、と地面に転がる。
広場は、静まり返った。
アインはゆっくりと立ち上がる。その腕は黒い灰に染まっている。
握りしめた手の中に、小さな石があった。
「・・・・カミル。」
「はい。」
「神官どもを根絶やしにしろ。」
「はい。」
「ヨゼフ、お前は、契約者らを。」
「は。」
「・・・抵抗する者は、構わない、殺せ。」
「承知。」
「私は、父のところへ行く。」
幼馴染の騎士二人は、命じられた惨殺を、当たり前のように受け、動き出す。
止める者はいなかった。
領主である、父を殺した。
キリアエルの火刑を求めたのはドミヌスだろう。でも、承認したのは父のほかはない。
わざわざ、俺の不在を狙って。
施政者としては落第だ。
そんなことはわかってる。
「貴方の言葉が、行動が、シュレージェンのすべてに影響するの。アインはもっと、考えた方がいい。」
「わかってるよ、そんなこと。」
「・・・本当かなあ?」
わかってる。本当だ。キリー。・・・だけど、もう、ダメなんだ。
(一時の感情に流されるな。大局を見ろ。)
言われ続けた言葉。
それは、我が民のため、国のために、犠牲者を選択するということ。
・・・・そんな選択、ありえない。
俺には、ありえない。
バルコニーから、広場を見下ろす。
そこには、まだ民が集まったままだった。立ち尽くす民が。
シュレージェンは、辺境の武の一族。
受け継がれてきた黒い剣は、主を選ぶ最高の武器。伝説の術具。
アインは乾ききらない血もそのままに、剣を携えてそこに立った。
右に控えるはカミル。左はヨゼフ。彼らもまた、全身に返り血を浴びていた。
「シュレージェンの民よ。」
淡々と。
「わが父、ルドルフ・ヨハネス・フォン・シュレージェンはたった今、死んだ。よってこれより、私、アインハードが、シュレージェン領主である。」
ただ、告げる。
「異議のある者もいるだろう。・・・だがもう、逃げ場はない。」
父を、殺した。
ドミヌスの神官も、皆殺した。
彼らと組んで甘い汁を啜っていた連中も。
「私は、ドミヌスが憎い。それを国教と定めた王家に、忠義を尽くすことなどもはやできぬ。私は、ドミヌスに刃を向ける。」
その先に破滅しかないことを、知っている。わかっている。
「我が民よ。・・・・全員、死ね。」
誰かが息を呑んだ。
「我らに生きる価値はない。女神の加護は、もう、ない。我らは誤り、見捨てられた。・・・幸せな未来など、許されない。我らがやるべきことはただ一つ。」
「ドミヌスに、死を。」
狂っている。
神の御名の下に、やりたい放題の教団も。
すべてが許されると、勘違いしている信徒も。
それを利用し、権勢を我が物としている王族も。
歪んでいる。
この国も、ドミヌス教も、民も、俺も、皆。
「・・・民よ。我が剣となり、盾となれ。一人でも多くのドミヌス教徒を、道連れにせよ。」
世の中のためではなく。
国の、民のためでもなく。
この絶望を、世界に叩きつけてやるために。
理不尽な命令を。
粛々と受け入れるは、我が騎士たち。
そして兵が、民が。
その狂気にのまれていく。
狂王、と呼ばれるようになるまで、時間はかからなかった。
キリアエル。
君の死を。覚悟を。狂気に変えた俺を憎むか?
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「・・・・・長かったね。」
懐かしい声が聴こえた。
傷口は大きく開いたまま、赤い血を吐き出し続けている。治癒と守備の加護はとうとう限界を超えて、効果を失ったようだ。ああ、死ぬのか。確かに、思ったより、長かった。
「なんだ。・・・・・お前、か。」
「不満そうじゃない。」
当然だろう?
お迎えなら、愛しいキリーがよいに決まっている。
心で答えながら、変わらない、生意気な口調に思わず口角があがる。
キリーが最後に逃がし、護った子供。
6年の歳月は、少女をほんの少し成長させたようだ。背が伸び、女らしくなった。
教団に売った無謀な喧嘩。
シュレージェンが帝国有数の武の民であっても、所詮は辺境の一地域。反乱は、短いものになるだろうと、思っていた。だが、ドミヌス教団のやりように不満がたまっていたのは、シュレージェンだけではなく。期せずして、アインは反ドミヌスの旗印になってしまい。・・・気が付けば、もう、6年。
ヨゼフはすでにない。カミルも、この戦いで、たぶん。
これが最後、と挑んだ戦いは、成果を挙げたが、ほぼ、全滅。
「約束を、果たしに来たの。」
「・・・・約束?」
覚えがない。
「キリーとの約束を。」
「・・・・!」
身を起こそうとして、もう、身体が動かないことを知る。
緑金の瞳が、痛ましげに揺れた。
白い手がアインの胸元に伸びる。小さな封石が、光を放っていた。
「・・・・キ、リ?」
「そう。」
封石。
それは、術士が作る術式の結晶だ。キリーが最後に残したそれには、治癒と防御の強力な加護がかけられていて、アインの命を幾度も守った。長年の酷使にとうとう効果は薄れ、亀裂が入っていたけれど。
「ここに、キリーはいるの。」
藍色の長い髪が風に揺れた。
「ドミヌスの教皇はね、魔女と言って殺した力の強い巫女達を、聖霊にして、支配していた。」
残酷な魔女狩りの、それは目的。
「それを知った巫女たちは、支配される前に、自らを封印することにしたの。」
だから、ほら。
少女が上を見上げる。
きらきらと、瞬きながらいくつもの光が天に昇っていた。
「教皇は死んだわ。あれらは、みな、殺された巫女たち。囚われた仲間を解放するための力となって、家族を、恋人を、護り続けて役目を終えた。」
「貴方も、一緒に行くでしょう?」
キリアエルと一緒に。
「行き先は、・・・二人で決めればいい。」
あなたとともに。
そう、キリアエルが望んだから。