第5話 風鳴りの丘
「レイン」
微睡の中、自分を呼ぶ声が聞こえる。もう起きなきゃという焦燥感と、まだ寝ていたいという怠惰な心が鬩ぎ合う。
「レイン」
ゆさゆさと肩を揺すられ、覚醒へと大きく傾く。重い瞼を開く。
「ん……」
覗き込んでくるダグラスの顔を、とろんとした目で見返す。彼が息を飲んだのを、気配で感じた。
「ふあ……」
体を起こし、口元を押さえて控えめに欠伸した。硬直しているダグラスを見て、不思議そうに尋ねた。
「どうしたの?」
「い、いや」
彼は何かを払い落とすように、勢いよく首を振った。レインは緩く首を傾げた。
女冒険者とも別れ、二人は再び闇の中を進んだ。幸い魔物にも出会わず、森での二日目は順調に過ぎていった。
出口に近づくにつれ、日の光が次第に力を増した。全てが曖昧に溶け合っていた景色が、輪郭と彩りとを取り戻す。まるで、夜が朝に変わるのを、早回しに見ているかのようだった。
やがて、木々も疎らになっていった。陽だまりを踏むたび、レインは眩しさに目を細めた。日はちょうど天頂付近に位置しているようだった。
森を抜けると、目の前には大きな山が聳えていた。草木の緑と土の茶色、岩と砂の灰色がマーブル模様を成している。至る所に垂直な崖を晒していて、全体としてどこかちぐはぐな形状だった。
不意に、遠方で鳴る重低音が、レインの耳に引っかかった。楽器の演奏のようにも聞こえるが、何の音だろうか。ちょっとだけベルトランの声を思い出してしまった。
レインの疑問に答えるかのように、ダグラスが言った。
「ここが風鳴りの丘だ」
「……丘?」
レインは思わず呟く。どう見ても丘ではないと思う。
ダグラスは口の端を上げて言った。
「そういう名前なんだから仕方ない。昔は別の名前で呼ばれていたらしいが」
話しながら歩く間に、音はその質を変えつつあった。音調が徐々に高まり、頭にキーンと響く。顔を顰めながら、レインは言った。
「風の音なの?」
「ああ。これを渡しておく」
両手で椀を作るようにすると、くしゃくしゃに丸めた小さな布が二つ置かれた。少し湿っている。
「もう少し進んだら耳に詰めろ」
「耳栓? うるさいの?」
「うるさいなんてもんじゃない。間近で聞くと気を失う」
「う、わかった」
平地ならともかく、山の上だ。音に驚いて崖から落ちるなんて死に方、絶対嫌だ。レインは気を引き締めた。
◇
麓から見た印象の通り、山の地形は継ぎ接ぎのように移り変わった。森のような木々の間を抜けたと思ったら、崖に挟まれた細い道を恐々進む羽目になる。緩やかな土の道で散歩を楽しんだと思ったら、急に岩登りを強いられる。
「レインは意外と体力があるんだな」
手を引かれて大きな岩の上に登ったあと、ダグラスにそんなことを言われた。緩く首を傾げて返す。
「そう?」
「途中で音を上げるんじゃないかと思ってた」
「私の国は山の中だから」
「ああ、そうか」
どこに行くにも坂道だし、街の外に出ればもう岩山だ。よっぽど引きこもっていない限り、多少なりとも体力はつく。
問題の『音』は、聞こえてきたり急に止まったりしながら、徐々に大きくなっていった。前を歩く男の背中を、レインは指先でつつく。
「そろそろ耳栓つける?」
「ああ」
布を耳に詰めると、周囲が急に静かになった。ごうごうと低く鳴るのは、自分の体から出る音だろうか。
単に水で濡らした布というわけでは無く、特殊な材料を使っているのだろう。例えば、魔法士が調合した水薬だとか。
「何か言いたいときは、大声で喋ってくれ」
と、ダグラスは口元に手を当て、叫ぶように言っているようだった。ようだというのは、それでも普通の話し声程度にしか聞こえないからだ。
まるでタイミングを見計らったかのように、『音』はぴたりと止まってしまった。静寂の中を、一人で彷徨っているかのような錯覚に襲われる。レインはダグラスとの距離を少しだけ詰めた。
喋るのにもいちいち手間がかかるので、二人は黙々と道を進んだ。ある時、レインは周りの景色が少し変化していることに気づいた。岩の割合が圧倒的に増えている。
ほとんどの岩に、たくさんの穴が開いていた。穴の大きさは、指先ほどのものから、人が入れそうなものまで様々だ。
奇妙なことに、どの穴もきちんと整列していた。縦一列に並んでいたり、敷き詰めるように格子状に配置されていたり。とても自然にできたようには見えない。
「道が細い。気をつけろ」
景色に目を奪われていたレインに、ダグラスが釘を差した。道の先は、右側が岩壁、左側は深い崖になっていた。幅は片足ががぎりぎり入る程度しか無い。
「先に行け。壁から手を離すな」
レインは小さく頷いて前に出た。崖を目の前にして、喉をごくりと鳴らした。
「足を交差させるなよ。ゆっくり行けばいい……いや待て!」
細道に足を踏み出そうとしていたレインの肩を、ダグラスが急に掴んだ。びくりとして振り返る。
「な、なに?」
「右の壁を見ろ。穴があるな?」
「うん」
今までに何度も目にした『穴』が、岩壁一面に空いている。大きさはどれも人の頭程度だ。
「あそこから『音』が出るんだ。風が吹いたら気をつけろ」
「わかった」
そういうことか、とレインは頷く。きっと、管楽器のような仕組みで音が鳴っているのだろう。
ダグラスの助言通り、一歩一歩慎重に進む。崖下を覗き込みたい衝動と戦いながら、前をじっと見据えた。
不意に、左から強い風が吹きつけた。と同時に、無数の音色をでたらめに詰め込んだかのような混沌とした音が、穴から流れ出す。耳栓の上からでもうるさいぐらいの大音量だった。
身構えていたにも関わらず、耳を塞ごうと反射的に手を離してしまった。一瞬バランスを崩す。
次の瞬間には、二の腕を掴まれ崖側に引っ張られていた。ダグラスが何か言っているようだったが、よく聞こえない。冷気が体の中を駆け巡るような感覚に襲われ、蒼白になった。
「とにかく進め! 落ちそうになったら俺が助けてやる!」
辛うじて聞き取れたその言葉に縋るようにして、必死に足を動かした。
先ほどまでの半分以下の速度で、じりじりと歩を運ぶ。一歩進むごとに、崖下へと落ちていく妄想に捕らわれる。全身の感覚が、薄い膜を張っているかのように違和感がある。まるで自分の体では無くなってしまったかのようだ。
もう風も音も止んでいた。だがそれは、再び同じことが起こるんじゃないかという恐怖でもあった。
永遠にも思える時間を超え、細道の先にある広場に辿り着いた途端、レインはその場にへたり込んでしまった。足が震えて、立っていられない。
「大丈夫か?」
ダグラスの手が、肩を抱くように優しく添えられた。一瞬身を固くしたが、すぐに力を抜く。体の中が、少しだけ暖かくなったように感じられた。
「うん……」
レインは控えめに身を寄せた。
しばらくそうしていると、ようやく震えが収まってきた。体を離して立ち上がる。
「ごめんね」
「いや。よく最後まで行ったよ」
相手が落ち着いたのを確認すると、ダグラスは再び歩き出した。レインは彼の耳元に顔を寄せるようにして、聞いた。
「まだこんなとこある?」
「危ないのはここぐらいだ」
「そっか」
レインは安堵のため息をついた。
◇
彼の言うとおり、その後は危険な場所は無かった。ただ、何度か『音』に襲われ、レインは毎回驚かされる羽目になった。
やがて峠を越えると、聞こえてくる音も小さくなった。耳栓を外したレインが、ぽつりと言った。
「山が嫌いになりそう」
「帰ったらどうするんだよ」
ダグラスが困惑と苦笑の中間のような表情で言った。
「世界中探しても他には無い。こんな変な山は」
「ダグラスが言うなら間違いなさそう」
「自然にできたものなの?」
「さあな。魔法士が穴を開けて回ったって説もあるらしいが」
「そうなんだ」
レインは振り返って、山を見上げた。もし本当なら、何故そんなことをしたのだろうか。
不意に、いつか国に来た楽団の記憶が蘇った。音楽よりもパフォーマンス重視のその楽団は、巨大な楽器を背負ったまま演奏し、さらには踊りまで披露していた。人が入れそうなほどの箱から、無数の管が伸びた楽器だ。
もしかすると、とレインは思った。穴が開いた岩は、大きな楽器なんじゃないだろうか。崖で聞いた、騒音としか思えない混沌の調べも、一つの音楽なのかもしれない。常人には理解できないだけで。
ふと、ある考えが頭に浮かぶ。あれが楽器だと言うのならば……。
(この山全部、魔法で作った、とか)
地面を隆起させ、岩を削り、楽器を配置する。まるで楽団を編成するかのように。
継ぎ接ぎのような地形は、その名残なのかもしれない。だがそんな大規模な魔法を使える者が、この世に存在する、もしくは過去にしたのかどうか。
「どうした?」
いつの間にか立ち止まっていたレインに、ダグラスが尋ねる。彼は少し先で、訝しげな表情を浮かべていた。
「ううん」
小さく首を振り、後を追った。




