第4話 闇夜の森
ある日の昼過ぎに、地平線の向こうから大きな森が姿を現した。ようやく草原地帯を抜け、『闇夜の森』まで辿り着いた。
直前の宿で一夜を明かしたあと、二人は森へと足を踏み入れた。進むごとに増えていく木が空を隠し、眩しかった日の光が徐々に和らいでいく。
だが、変化はそれだけでは終わらなかった。木の密度が飽和したあとも、さらに辺りは暗くなっていく。まるで、知らぬ間に日が沈んでしまったかのようだ。どこまでいってしまうのかと、レインは不安になった。
足元が見えづらくなってきた頃、ダグラスは荷物の中からランタンを取り出した。二つ点けたのうちの片方をレインに渡す。
「俺から離れるなよ」
「う、うん」
レインは緊張の面持ちで頷いた。この森には魔物も出る。万が一はぐれたら、生きて帰れないかもしれない。
やがてその呼び名に相応しい、闇夜の暗がりが辺りを覆い尽くした。それも、星の見えない重い曇天の夜だ。ランタンの明かりが無ければ、一歩も進むことはできないだろう。
闇は原初的な恐怖を呼び起こす。その奥で何かが動いたような気がして、体を強張らせた。
「どうかしたか?」
立ち止まってしまった少女を、ダグラスは心配そうな目で見やる。レインはふるふると首を振って、足を前へと運んだ。
目の前を歩く男の袖を掴みながら、レインは恐々森を進んだ。そのうちに、闇の奥で動く何かが、単にランタンの光の揺らめきであることが分かってきた。複雑に折り重なる木々が、ありもしない怪物の影を生み出している。
だからと言って、安心もできない。あの中には、本物が混じっているかもしれないのだ。
沈黙に耐え切れなくなって、レインは縋るように口を開いた。
「ずっと真っ暗なの?」
「ああ。森を抜けるまではずっとだ」
「そっか」
つまり、明日の昼頃まではこのままということか。一日半も闇の中を進むだなんて、考えただけで憂鬱になる。
レインの顔を横目で見ていたダグラスだったが、不意に何かに気づいたかのように言った。
「どんな魔物が出るか、俺話したか?」
「ううん、聞いてない」
「そうか、すまん。ここの魔物は動きが遅いから、突然襲われることは無い。だから怖がらなくてもいい」
「そうなんだ」
レインは少しほっとした。ダグラスは身振りを加えながら説明を続ける。
「この森に出る魔物は一種類だけだ。見た目は、そうだな……黒くてでかい綿毛か」
「綿毛って、たんぽぽの?」
「そうだ。人よりでかいやつもいる」
「……」
想像してみたが、あまり怖くはない。もふっと体を埋めたら、気持ちよさそう。
そんな心の中の感想を読み取ったわけではないだろうが、ダグラスはこう付け加えた。
「触れると体力を奪われるから気をつけろ。相手の大きさによっては、しばらく動けなくなる」
「それだけなの?」
「まあな。気をつけていればそれほど怖い相手じゃない。だが次々に集られ、動けないまま餓死したやつもいる」
「う、それはやだな……」
恐ろしい結末に、レインはぞっとした。やはり魔物は魔物ということか。
森の景色は草原ほど単調ではなかったが、だが闇の奥をじっと見つめるのは恐ろしかった。かと言って、のんびりお喋りする気にもなれない。足元とダグラスの腕を、交互に眺める他なかった。
不意に、ダグラスが立ち止まった。レインはびくりとして前方に目をやる。変わらず広がる闇の中に、おかしなものは見当たらない。
「下がってろ」
背中の留め具を外し、重そうな両手剣を肩に抱えるように持つ。彼が剣を構えるところを見るのは、これが初めてだった。
レインは自分自身を抱くように身を縮こまらせ、ゆっくりと後ずさった。ダグラスが何を見ているのか、まだ分からない。
「あっ」
とっくの昔に視界に入っていたそれを唐突に認識して、思わず声をあげた。
細い触手のような何かが無数に生えた人の頭ほどの塊が、真正面に浮かんでいた。それはランタンの光を全く映していない。まるで、闇そのものが具現化したのかのようだ。背景から浮いて、もしくは沈んで見えることで、辛うじて視認できている。
うねうねと動き回る触手を見て、レインは嫌悪に顔を歪めた。これを『綿毛』と称したダグラスのセンスを疑ってしまう。
黒の塊は、ゆっくりとこちらに向かってきた。あえて近づいてきているのか、他者の存在など気にしていないのか。もしかすると、思考する能力を持たないのかもしれない。
ある程度まで接近したところで、ダグラスは身を前に投げ出すようにして剣を縦に振り切った。塊はあっさりと両断され、剣先が地面を抉る。
と同時に、レインは驚くべきものを目にした。塊の断面が、日の光のように強烈に輝いていたのだ。炎で瞳を炙られるような衝撃を受け、悲鳴を上げて瞼を閉じた。
目を瞑った状態でも、周囲が昼のように――つまり、森の外における普通の昼間のように、明るくなっているのが分かる。もしかすると、それ以上かもしれない。
光は、徐々に弱まっていくようだった。しばらく待ってから目を開くと、気まずそうに頬を掻くダグラスと目が合った。
「……悪い。目を瞑れと言うのを忘れてた」
「もおー!」
レインは彼の腕をぽこぽこと叩いた。まったく、この男はいつも説明が少し足りない。
「目は大丈夫か?」
「たぶん……」
ごしごしと目を擦る。まだチカチカするが、ちゃんと見えている。特に痛むわけでもない。
二つに別れた塊に目をやる。だいぶ収まってはいたが、まだランタンよりは明るい。
「こいつは日の光を食う魔物なんだ」
「光を?」
「ああ。この森が暗いのはこいつのせいだ」
改めて断面を凝視する。つまり、この光は食べて体内に溜めた分ということなのだろうか。世の中には不思議な生き物がいるものだ。
「あー、それで」
ダグラスが、躊躇いがちに言った。
「次にやつが現れた時は、タイミングを見て目を瞑ってくれ」
「分かった」
レインは唇を尖らせた。
◇
その後も何度か魔物を撃退しつつ、二人は予定通りに今日の行程を終えようとしていた。果たして今が何時なのか、周囲を見回してもさっぱり分からない。懐中時計を確認すると、まだ正午と日没の間ぐらいのようだった。
どこで夜を明かすのかダグラスに聞いてみると、森を抜ける道の途中に、魔物が寄り付かない場所があるらしい。皆そこで眠るそうだ。
森の奥の方に、ぼんやりとした明かりが見えてきた。レインは目を細めてそれを凝視する。他に人がいるのだろうか。
「……」
ダグラスの服の袖を、無言でくいっと引っ張ってみる。彼はちらりと視線を向け、すぐに戻した。
「……なんだ?」
もう一度引くと、ようやく反応してくれた。残念ながら意図は伝わらなかったようだが……。
「あれ、なに?」
「ああ。あそこが目的地だ」
遠くの明かりを指さすと、ダグラスは小さく頷いた。
ある程度近づくと、明かりの正体が分かった。花だ。各所に群生する小さな白い花が、蛍のような淡い光を発している。まるで魔法士による幻覚魔法のような、幻想的な光景だった。
花は広範囲に渡って生えている。一つ一つの光は弱々しかったが、周囲は足元が辛うじて見える程度には明るくなっていた。二人はランタンの灯を消した。
「ふむ」
ダグラスが声を漏らした。花が最も集まっている辺りに、誰かいる。右足を伸ばし、膝を立てた左足を抱くように座っている。
相手もこちらに気づいたようで、振り向いて手をひらひらと振った。
「いらっしゃい。あなたもここで泊まり?」
「あ、ああ」
どもりながら答えるダグラスを、レインはむっとした表情で見た。
そこに居たのは、女性の冒険者らしき人物だった。このような場所にあるまじき軽装をしている。豊満な肉体を覆っているのは、ショートパンツと、上は袖の無い薄いシャツ一枚きりだ。胸元は大きく開いている。
彼女は、ダグラスの顔をじっと見つめながら嫣然と微笑んでいた。
「護衛のお仕事?」
ちらりと少女に目をやりながら言う。ダグラスは眉を寄せた。
「……それは……」
「ふうん、隠さなきゃいけないようなすごい人なんだ」
急に声のトーンを落とし、彼女が言う。レインはぎょっとして、目の前の背中に隠れた。
「うそうそ。詮索してごめんなさいね」
彼女はころころと笑いだした。ダグラスは困ったように頬を掻いていた。
「あたしはちょっと散歩してくるわね」
そう言って立ち上がると、前かがみになって脚に付いた砂を払っていた。ダグラスの視線がある一点に固定されているのに気づいて、レインは半眼になった。
「また夜にね」
彼女は必要以上にダグラスに近づくと、囁くように言った。彼は顔を引きつらせてのけぞっていた。
足音が聞こえなくなった頃に、レインがぼそりと言った。
「ああいうのが好みなんだ」
「……何の話だ」
「べつに」
ぷい、と顔を背ける。結局その日の残りの時間、レインはほとんど口をきかなかった。




