第1話 紫色の空
靄のように揺らめく毒々しい紫色が、天上を覆っていた。空も、雲も、頂に輝く日の光すら、同じ色に染まっている。まるで色硝子を通して見たかのように。
週に一度は目にするこの紫の空も、しばらく見ることは無いだろう。これほど広い範囲で魔力風が吹く場所は、世界中を探してもほとんど無い。
バルコニーの欄干に身を乗り出しながら、少女は緩慢な動作で振り返った。白金のごとく輝く金髪の毛先が、腰のあたりで揺れる。年齢に対して未成熟な華奢な体を、動きやすい旅装束で包んでいる。
空の色を写したかのような菫色の瞳には、いつもの快活な輝きは見られない。代わりに、暗鬱な陰が覆っていた。
テーブルに並んだ色とりどりの砂糖菓子を、ぼんやりと眺める。菓子は、一目で一級品だと分かる、瀟洒な食器に飾り付けられている。少女のために準備されたそれらは、大半が手を付けられないまま残されていた。
今日は、少女の十六回目の誕生日だった。と同時に、望まぬ旅立ちの日でもある。
「レイン様、そろそろご覚悟下さい」
バルコニーの入り口付近に控えていた侍女の一人が、毅然とした口調で言った。少女、レインの幼いころからの教育係で、絶対に逆らえない相手だ。
「ほんとにやるの?」
「当然です。王妃様のお言いつけですから」
「うう」
レインは小さく呻くと、諦めたように椅子に座った。ずっと前から言われていたことだが、だからと言ってすんなりと受け入れられるわけも無い。
「それでは失礼致します」
侍女が背後に回る。手には鋏を携えている。レインは思わず目を瞑った。
じょきり、と音を立て、髪が大胆に切り落とされた。
侍女は無慈悲にじょきじょきと鋏を動かしていく。切り終わったら、肩までの長さになっていることだろう。旅に出るなら長い髪なんて絶対駄目だ、とお母様に言われてしまったのだ。
やがて鋏の音が止んだ。侍女は様々な角度からレインを見て、髪型を確かめているようだった。
「お似合いですよ、レイン様」
「帰ったら絶対また伸ばすから」
レインは唇を尖らせて言った。
「姫様ー! レインディア様ー!」
出し抜けに、地の底から響いて来るかのような濁声が耳朶を打つ。一度聞いたら忘れられない、二度と聞き間違えようのない声だ。
そもそも、長ったらしい『レインディア』という本名で自分を呼ぶ者など、ほとんど居ない。
「ここに居られましたか、レインディア様!」
バルコニーの入り口の扉が、勢いよく開いた。凝った装飾が施された、重厚な木の扉だ。
現れたのは、金属製の部分鎧に身を包んだ白髪の老人だった。がしゃがしゃと音を立てながら、彼は年齢を感じさせない機敏な動作で近付いてきた。
「さ、参りましょう。時間ですぞ」
「分かってるって」
レインは諦念の吐息を漏らした。
◇
両親に、つまりはこの国の王と王妃に見送られ、レインは城を出た。横には先ほどの老人が、大きな荷物を背に付き従っている。
振り返ると、質素な、だが巨大な城の後姿が視界を埋めていた。高価だが量産できないいくつかの特産品で成り立っているこの山間の国では、多くの国民が城仕えをしている。実際のところ、やるべき仕事はあまり無い。
二人が進む先には、険しい山道が伸びていた。ごつごつした岩の合間を縫うように、捩じくれた木々が生存を賭けて争っている。時折、小さな草花が身を寄せ合うようにして咲いていた。
城からどの方向に進んでも、すぐに同じような山にぶつかる。一部の商人を除けば、旅人すらも寄り着かない辺境の地だ。魔力風の影響か、滅多に魔物が出ないという大きな利点があるにも関わらず、不便がそれに勝っていた。
そんな閉鎖的な国だから、不可思議な因習も多数生き残っていた。例えば、王家の血筋を引く者は、十六歳の誕生日に旅に出なくてはいけない、と言ったような。
(はあ……)
レインは深く息を吐いた。まったくご先祖様もおかしな言い伝えを残してくれたものだ。何の意味があるのか分からないし、早くやめてしまえばいいのに。
もっとも、両親や、隣を歩く忠実な騎士ベルトランにそんなことを漏らしでもしたら、長々と説教を受けるだろうが……。
「ため息をつくのはおやめください、レインディア様。街に着いたら、王族らしく堂々と振る舞っていただかないと困りますぞ」
件の忠臣に諌められ、レインは唇を尖らせた。王族らしくと言われても、普段からそのあたりの子供たち遊ぶことも多いレインには、よく分からない。物語に書かれる『お城』や『王様』、『お姫様』とは、この国はかけ離れていた。
(王女だってばれないようにしなさいって言われてるし)
教育係の言葉を思い出す。平和な我が国と違って、どんな悪人が居るか分からないから、と。
それもまた憂鬱の種だった。生まれてこの方、レインは一度も国を出たことがない。他所の話など、商人や、稀に訪れる吟遊詩人から伝え聞く程度。どんな世界が広がっているのか、期待もあるが、やはり不安の方が大きい。
「レインディア様、ご覧ください」
黙々と山道を進み、そろそろ足が疲れてきた頃に、ベルトランが不意に声をあげた。木々の間から顔を覗かせる、巨大な岩塊を指さす。
「あそこが頂上ですぞ。着いたら昼食を取りましょう」
「うん」
レインはこくりと頷いた。
ドラゴンの牙のように尖ったその岩は、空に向かって崖から斜めに突き出していた。ベルトランに手を借りながら上に登る。
景色の片側は、山々に囲まれた自分たちの国だ。おもちゃのような城と家が、岩山のほんの僅かな間隙を縫って配置されている。最初にここに暮らし始めた人は、どうしてこんな場所に住もうと思ったんだろう。
逆側を見ると、ますますそう思ってまう。森と草原が、どこまでもどこまでも広がっている。点在する街は、細い線で繋がっていた。馬車が通っているのが、辛うじて視認できる。
景色を眺めていたレインは、見たこともない『何か』が、真正面の遥か遠くに存在していることに気づいた。まるで地面を覆うかのように、一面に広がっている。
「あれってなに?」
「どれですかな?」
「あの青いの」
少女の指先が示す方向を、ベルトランは目を細めて見た。やがて、手をぽんと打ち合わせる。
「海ですな」
「あれが海なんだ」
山で育ったレインにとって、お話の中でしか知らない存在だ。一度は自分の目で見てみたいと思っていた。
この旅は、城付きの魔法士が一か月かけて行った占いの結果に従って、行く先が決められている。あの海の横を通り過ぎた少し先が、最後の目的地のはずだ。
レインは若干柔らかくなった表情で、海の方をじっと見つめ続けていた。不安と不満ばかりの旅だが、少しは楽しみもあるかもしれない、と思いながら。




