007.
「鉄輪……」
「うくくっ……え、なに?」
「きみ、最高に最悪な趣味してるな」
「はっ!?」
唐突な罵倒に、ニヤニヤとした笑みが一瞬で引っ込んだ。コロコロと表情を変える鉄輪。面白い。
しかし、これまでに、ここまで多彩な表情を見せたことがあっただろうか。僕の記憶だと、そのほとんどが仏頂面か嫌そうな顔なのだが。
「あらあら、最悪な趣味などと……いいえ、確かにわたしは、否定できない趣味を持っていますけれど。あなた方は仲が良いようで、妬けてしまいますね」
「……親友らしい留針さんには、敵わないと思いますけど」
何より、鉄輪とは精々が友達止まりなのだ。二度もフられている僕が、いくら仲が良くたってそれ以上にはなり得ない。
「それで、この人に会わせて、鉄輪は何がしたいんだ?」
正直、もう一秒たりとてこの空間にいたくない。不気味な絵の数々も、その絵を描いている本人も、何もかもが僕をおかしくさせそうだ。
だから、「何も? 会ってもらうだけ」という鉄輪の発言は、僕を非常に脱力させた。
「……はあ? 留針さんと会って、それで終わり?」
「はて。いーちゃんは彼に、なんと言ってここに連れてきたのですか?」
「うん? 会わせたい人がいる、って」
それを聞いた留針さんは、頭痛でもするのかこめかみに手を当て、
「……この子が説明不足で申し訳ありません。ですが本当にその通り、この子はわたしに会わせる為だけに、あなた方を連れてきたのです。わざわざ何日も前から準備していたのですよ?」
「……僕と、留針さんを会わせるためだけに、何日も前から?」
「ええ、何日も前から」
今度は僕がこめかみを押さえる番だった。
真剣な表情をして「付き合って」などと言うから、どんな大層な用事なのかと思えば。一瞬でもときめいた自分が馬鹿らしい。
「ちなみに、鍵山さんにも同じ説明を?」
「ううん、そっちの子はそもそも何も説明してない。急遽連れてくることになったから」
留針さんが再度こめかみを押さえた。
……なんだろう、この空間。
「さて、それじゃあ用は済んだし、帰ろうか」
「え、マジでこれで終わりなの?」
変な汗を流し始めた僕、申し訳なさそうな雰囲気をかもし出す仮面の留針さん、そしてそれらを気にした様子も無く帰ろうとする鉄輪。
さらにはそんな僕らを放り、アトリエ内にある絵を物色する鍵山さん。もう全てがカオス。
気付けば、最初に感じていた居心地の悪さは吹き飛んでしまっていた。
それに、話していてわかったことだが、留針さんは、マトモだ。少なくとも、中身はかなり常識人だ。常識という名の仮面を剥げなどと言っていたが、それを言えるのは、彼女に常識が伴っている証拠である。
なぜ仮面を被っているのか、不気味な絵を描いているのか。それらは謎のままだが、取って食われやしないだろう。
そうとわかれば、急いでここを出る理由も無くなった。
「何してんだよ、とっとと帰るぞ」
鉄輪はすでに帰る気満々らしいが、僕はそんな彼女に取り合わず、
「すみません、もう少しここにいても良いですか?」
「え、ちょっと?」
「ええ、もちろん。わたしも、久々に初対面の方にいらして頂いて舞い上がっておりますので、どうぞごゆるりと。気の向くまま、満足するまでお話いたしましょう?」
「あ、ウチも絵とか見てて良いっすか?」
「わたしなんかの拙い絵でよろしければ存分に」
そうしてどんどんと居座る流れが生まれつつあった。帰ろうとドアノブに手をかけていた鉄輪は、すごく悔しそうな表情で固まっている。
「……何してるんだ? 帰るんだろ?」
「うるさい、私も残る。というか、初対面のアンタらを残して親友である私が帰れるか」
そして手頃な椅子に腰掛け、鞄の中から文庫本――ではなく、分厚いハードカバーを取り出し読み始めた。
「まあ、拗ねちゃって」
口(にあたる場所)に手を当て、くすくすと笑みをこぼす留針さん。
「今日は何を読んでいるのですか?」
「……果てのない物語」
そのタイトルは聞いたことがあった。確か、小学校の図書室にあったはずだ。
あまりにも分厚く、貸し出し期限の七日の内に読むことができないという理由から、本棚にずっと収まっていたハードカバーだ。
中には借りていく物好きもいたようだが、その児童だって夏休みなどの長期休暇に、他の本と合わせて借りていた。
まさか、そんな本とこんなところで再会するとは。
「オペラ座の怪人は読み終わったのか?」
「ん? ……ああ、あんなのかなり昔に読み終わってる。読むのが無いから、一度読んだ本をローテーションしているだけだ」
「それじゃあ、その本は?」
「これは読み終わってない。……文庫本サイズなら集中力が続くんだけど、これはちょっと、骨が折れる」
読み終わっていないのなら、それを教室で読めばいいのに。
「教室でこれを出すのはなんか、気が引ける。……というか、視線集めて余計集中できなくなるだろ」
「ああ、なるほど」
納得した。
鉄輪が本に集中し始めたので、構うのもそれくらいにして、留針さんと会話することに。
「留針さんは、ここに住んでいるんですか?」
「ええ、まあ。少々事情がありまして」
「……聞いても?」
「良いですけど、わたしは答えませんよ」
人差し指を立て、口元に寄せる。
ああ、きっと、仮面を外せばどんな男も魅了するような女性なのだろう。仕草の節々から、大人の女性の余裕が感じられる。
……大人?
「そういえば、留針さんって何年生――」
「ああ、そういえば、……できれば、わたしのことは『留針部長』と呼んではいただけませんか? どうにもさん付けは落ち着かなくて」
僕の問いを遮り、そんなことを要求してきた。しまった、女性に年齢のことを聞くのはタブーだったろうか。
「部長……ですか。僕は全然良いですけど。ところで部長って?」
「わたし、これでも美術部の部長だったもので。その名残でしょうか……さん付けはおろか、先輩という呼称すら違和を感じるようになってしまって。嫌なのでしたら、いっそのこと呼び捨てでも」
そんな恐れ多いこと、できるはずがない。他のどんな大人を呼び捨てにできたとして、この人だけは無理な話だ。
「では僭越ながら留針部長と呼ばせていただき……あ、」
思わず、留針部長の口調が移ってしまった。
恥ずかしい……見れば、仮面の下の表情を笑顔に変えているように見えた。
そんな調子で話は盛り上がり、気付けば外はすっかり暗くなっていた。鉄輪はずっと本を読んでいて、鍵山さんはずっと絵を見ていた。……飽きなかったのか。
「長居しちゃってすみません……」
「いいえ、わたしも少々はしゃぎすぎました……いけませんね」
そんなことはない。元々は僕らから残ると言い出したのだ。どちらかと言えば、迷惑をかけていないか心配になってしまう。
「それこそ、そんなことはありませんよ。事情が事情なので、ここにはあまり人が訪れません。そうなると、人との関わりが恋しくなるのです。……また遊びにいらしてくださいね」
仮面で覆われてはいるが、きっと優しげな笑みを浮かべ、留針部長は僕らを見送ってくれた。
「ああ、そういえば、」
一つだけ、聞くのを忘れていた。
「留針部長、ここはあんまり人が来ないって言いましたけど――先生って、来たりしないんですか?」
以前ここを訪れた時には、金澤が現れ、さらにはドアの鍵を開けていた。まさか無関係ということは無いだろう。
「――いいえ。教師がここを訪れることは有り得ませんので」
だが、留針部長はそれを否定した。その時の彼女の仮面は、木々の葉の間から漏れた月明かりに照らされ、少しだけ不気味に見えた……――。
◆
帰り道、鬱蒼と茂る林を歩きながら、
「そういやさ、鉄輪が時々使う敬語……あれ、留針部長のが移ったんだろ」
「えっ」
ほんの少し話した僕でさえ移りかけたのだ。親友と言うからには、二人の付き合いはそれなりに長いのだろう、移っていたとしても不思議ではない。
というかあれは真似したくなる。正しい敬語なのかどうかはわからないが、少なくとも相手を不快にさせない言葉遣いではある。
「ま、まあ、そうかもしれない」
「ウチもあの言葉遣い、見習いたいっすねー。っていうか、人間性そのものを?」
鍵山さんには無理だと思う。
部室棟まで辿り着き、その日はそこで解散することと相成った。
「あ、じゃあウチこっちなんで! また明日っす!」
とはいえ、鍵山さんだけが帰る方向が違うわけで、僕と鉄輪は二人で帰路に着く。
「……本当に、会わせるだけだったな」
「なんだよ、そう言ったろ?」
確かに、会わせたい人がいる、とは聞いた。だが聞いたことならば、もう一つある。
「きみさ、体質がどうのこうのって言ってたよな。その話は? てっきり、あの場でしてくれるもんだと思ってたんだけど」
「……ああ、そうか。そういえば、その話をしてなかった」
途端にふざけた雰囲気を掻き消し、鉄輪は立ち止まる。
ちょうど街灯に照らされる形で浮かび上がる少女。
「――私さ、見えるんだ」
そんな初句から始まり、
「何を? まさか、幽霊とか言わないよな」
「そんなもんじゃない。……いや、いっそのこと、幽霊が見えていた方がよかったかもなんて思うこともある」
彼女の表情は髪に隠れて見えない。
「幼い頃から……たぶん、物心つく前から見えてたんだと思う。見ようとして見えるんじゃない、見たくなくても見えるソレが、たまらなく怖くて、眼を抉り出そうとしたこともある」
語られるのは、唐突な身の上話。
眼を抉り出すだなんて物騒な真似を思いつくほどに、何かがあったという話。
「誰に言っても信じてもらえなかった。……だからさ、本当はアンタの話、信じる努力はしたんだよ? 信じてもらえない辛さってやつ、知ってるから」
そんな感じはまったくしなかったけどな。
「じゃあ、私は何が見えているか。……アンタは、何が見えるって言っても信じてくれるか?」
「……場合によるかな」
「知ってる。だから私も、信じようと努力するのが馬鹿らしくなった。私のこれだって信じてもらえない可能性があるんだから、無理して信じる必要もない、って」
……いい加減じれったくなってきた。
なんだ、鉄輪はその瞳に、いったい何を映しているのだ。
「――――〝仮面〟だよ。私はたまに、人の顔に仮面を見る」
◆
彼らがアトリエを去った後、一時間もしない内にとある人物がわたしの元を訪れた。
「――いらっしゃい、来ると思っていました」
その人物はかなり慌てた様子で、わたしのアトリエの奥へと進んでいく。
そこに隠されているのは、その人物の、大事な大事なもの。
それを持ち出し、来訪者はわたしに何も言わずに出て行こうとする。
「まあ、せっかちですこと。少しばかり、お話でもいかがでしょうか?」
「――悪いけど、そんな余裕、ない」
その言葉に偽りはないようで、たどたどしくも『大事なモノ』を抱えて去って行った。
「さて、と。わたしも、絵を描きましょう」
並べられたのは二枚のキャンバス。そのうち一枚はすでに、半分ほど出来上がっている。彼らがアトリエを訪れた時に描いていたのもこの絵だ。
その絵はやはり、首から上が無くて。しかし、そこに鉛筆を走らせる。
「久しぶりに、首から上を描けるんですもの……ふふ、楽しくなるのも、当然でしょう?」
しかも、今回は二枚も描ける。
「あはっ」
走る鉛筆が描いていくのは〝仮面〟――鼻は赤く、唇ははれ上がっている。黒と白との濃淡により、仮面の基礎が白いことを表していく。
目元には派手な化粧。
――――描かれたのは、〝道化の仮面〟。
「さて、問題はもう一枚の方」
こちらは少々手がかかりそうだ。わたしが彼に見たソレを、どう形にしよう。
「かなり猟奇的な絵図になりそうですが……いいえ、それくらいした方が、彼の在り方には沿っていますね」
そしてまた、鉛筆を走らせる。
久々に心躍る時間を過ごさせてくれたお礼として、いつもよりも感情を込めて、端整に、丁寧に。
己が、この絵をどう仕上げていくのか。
まったくもって、楽しみで仕方が無い。
◆
4月X日
あああああああああ、ああああああああ。
ああああああああ、あああああああああ。
ああああああ? ああああああ……。
ああ、ああああああああああああ!!
……もう、駄目だ。
殺そう、殺そう。殺してしまおう。
どこまでも歪な感情を、ぶつけてしまおう。
「――――ああ、素敵な感情」
◆
それからさらに一週間後。僕は、眞鍋さんから、鍵山さんが行方不明になったという話を聞くことになる。
この作品は〈恋愛=モノ〉ですので。どうかお忘れなきよう。
ぶっちゃけミステリ要素はオマケです。