002.
ご都合展開ばっちこいや。
遠く、幼い頃の記憶。
それはきっと、夢の記憶だろう。
その記憶の中で母は、子どもの首を絞めていた。その子どもとは、幼い頃の自分。
視界は暗転、目の前には、髪に隠れ表情を伺えない母の顔があった。
ああ、今自分は、首を絞められている。
両手は軽く、しかし確実に意識を刈り取らんと締め付けてくる。
ギリギリ、ギリギリ。苦しくなる呼吸と、苦しくなる心。
どうしてお母さん。どうして殺そうとするの、お母さん。
――ポタリ。頬に落ちたのは生ぬるい雫。
ああ、きっとこれは涙だ。母だって、何も殺したくてしていることではない。きっと、食費が苦しいとか、そんな理由なのだ。
喉から嗚咽が漏れ出る。これは自分のか。
ふと、髪に隠れていた母の顔が顕わになった。
そこにあったのは、
「……お母さん」
泣いているとも、怒っているとも判別がつかない般若の仮面。
ただ、牙の覗く口から、ぽたぽたと、涎が垂れていて。
その目はただ暗く。
涙なんて、溢れていなかった。
◆
「な、……は、なぁ?」
閉まっていた鍵を開けるのがもどかしい。わたわたと慌てる手元でどうにか開け、同時に窓も開け放つ。
顔だけでなく上半身までも乗り出し、階下を覗く。……そこにあったのは、
「ひ、人……」
生垣に突っ込み、本来ならば曲がらない方へ曲がってしまっている両手足が見えた。
これはマズイ、マズイ、マズイ。
これは事件だ、これは異常だ。周囲と同じく普通でありたい僕なんかが関わってはいけない類のものだ。
この場にいてはいけない!
その日、今日は何をしていたとか、そういうことを全て忘れるほどの衝撃に見舞われた僕は、翌日、さらなる衝撃に見舞われることとなる。
◆
「…………人が、落ちてきた?」
まさかそんな話をされるとも思わなかったのだろう。機嫌を損ねていたはずの鉄輪は、僕の話を聞き、訝しげな表情をする。
「日が沈みかけた時間帯だった。なんとなく窓の外を見たら、落ちてきたんだよ」
「……それで? アンタは警察に連絡することもなく、それどころか先生に伝えることもなく、ノコノコと温かいご飯が待ってる自分の家に逃げ帰ったと」
コイツ正気か? と言わんばかりの鋭い視線とキツい言葉だ。
「本当なんだって! 信じてくれよ!」
「それ、信じてもらえないセリフ筆頭だと思うぞ」
確かに。ならば、
「嘘なんだって! 絶対信じるなよ!」
「…………」
信じてもらえないセリフと正反対のことを言えば信じてもらえると思ったのだが、そういうわけでもないらしい。僕の言葉を無視し、彼女はすたすたと先を歩いていく。それをまた早足で追いかけながら、
「僕の言葉を疑うのはいいけど、学校に着いて驚いたって知らないからな」
学校に行けば現場を見ることができるはずだし、何より朝のHRで担任から何かしら連絡があるはずだ。今に見ていろ、僕をフったこと、そして僕を疑ったことを後悔させてやる。
……僕をフったことは、別に後悔しなくてもいいや。
僕は昨日の事件を先生には伝えていない。それは鉄輪の指摘した通りだ。
だが普通、生垣に人が突っ込んでいたら気付くだろう。なんなら今日、休校になることすら視野に入れていたのだ。
だから僕は驚いた。生垣に黄色いテープが貼られていなかったことや、何事もなかったかのようにHRを終わらせた担任に。
「……で、何を信じろって?」
昼休みになり、唐突に鉄輪が話しかけてきた。
HR中も授業中もずっと読んでいた『オペラ座の怪人』に視線を落としながら、声だけで痛いところを突いてくる鉄輪にぐうの音も出ない。
僕自身、何を信じればいいのかわからなくなっている。何事もなかったかのように回る日常か、それとも僕の目か。
昨日見たアレは見間違いなのだろうか。そういえば、どこか曖昧な記憶だ。もしかしたら夢を見ていたのかもしれない。
「ちょっと、顔洗ってくる」
「わざわざ私に言わんでもいい」
立ち上がり、教室を出て――、
「昨日、人が生垣に落ちるのを見た人はいませんか?」
顔を洗いになど行かず、そんなことを聞いて回った。
昨日のアレが見間違いなわけがあるか。僕はしっかりと見た。窓の外で、沈みかけの夕日に照らされながら人が落ちるのを。両手足が有り得ない方向に曲がっているのを。
あの時間に残っていたのが僕だけなはずがない。校庭に人はいなかったと思う。だが、まさか僕だけなわけが。
誰でもいい、一人でもいい。僕と同じ光景を見た人物を探し出せ。
僕だけが周りと違う光景を見たなんて、
僕だけが周りと違う現実を認識しているなんて、
……そんなことは絶対、あってはならないのだ。
「見ませんでしたか?」
「見てないけど」
「見ませんでしたか?」
「何それ事件?」
「見ませんでしたか?」
「何を? 夢を?」
「……見ませんでしたか?」
「ドラマの話?」
聞けども聞けども、僕が望んでいる答えとは違う返答ばかり。
もしかして僕はイカれてしまったのだろうか。恋人も満足に作れず、だがみんなのように青春を送りたいという欲が暴走するあまり、有り得ない現実を見てしまったのだろうか。
「……見ませんでしたか?」
僕はまた一人、声をかけた。
きっと、また返ってくるのは望まないモノだと思いつつ、これを最後にしようと。
そして、
「人が、落ちるのを――」
「人が、落ちるのを!!」
背後に、僕とまったく同じセリフを吐いている人間がいるのを知った。
◆
「鉄輪、鉄輪ってば」
「なんだよ、今忙し――誰だそいつ」
忙しいなどと言いつつも、彼女は本を読んでいただけだ。構わず話しかけ続け、ようやくこちらを向いた鉄輪の反応がこれだ。
「第一声で『誰だそいつ』はないだろ。……いたんだよ」
「何が?」
「僕と同じ光景を見た奴が!」
「――――」
また何をバカなことを。そんな表情を浮かべると思っていただけに、やけに険しい顔をした鉄輪に面食らう。もしかして知り合いだったりするのだろうか。
「や、ああ……初めまして、一年三組の鍵山柚月っす」
知り合いではないらしい。
しかし鉄輪は険しい表情を収めることなく、鍵山を凝視し続けている。
「えっと……ウチの顔に何かついてるっすか?」
「……いや、何も」
戸惑いつつも笑顔を浮かべる鍵山の話を思い出す。
「僕が昨日見た光景――窓の外で、人が上から落ちてくるのを、この子は見たって言うんだ」
「驚いたっすよ。遅くまで残って課題と日課をこなしていたら、突然窓の外に影が見えて……窓の外を覗いて下を見たら、生垣に人が、人が! って」
その光景は何度聞いても、僕が見たものと一致する。
「でも朝学校に来たら、人が落ちたはずの生垣には何もないし、先生達は何もなかったように振舞ってるし、そんなバカな! ってなって。ウチが見たのは夢だったのかって気になって……そんでいろんな人に聞いて回ってたら、先輩が同じことしてるのを見て」
「顔洗いに行ったんじゃなかったのかよ」
呆れ声で指摘され、そういえばそんな嘘ついたな、と思い返す。
「なんでそれは信じるのに、今朝の言葉は信じてくれなかったのさ」
「……現実味の問題」
「何が現実味の問題なのやら……世間では簡単に人が死んでるんだし、それがいつ身近に起こったって不思議じゃないだろ。自分は大丈夫、なんていう考えこそ現実味がないってもんじゃないの?」
「じゃあなんだ、アンタはちゃんと事件を目撃したとして、でも朝になったらそんな現実なかったっていうのを信じろって言うのか?」
「結果的にそうなったのであって、僕が言ってるのは話をしたその場で疑ったのはなんでっていう話で――」
「……まるで痴話喧嘩っすね」
うっ、と変な声を漏らし、僕と鉄輪の口が止まる。いけない、ここにいるのは僕らだけではなかった。
「ああ、ごめん鍵山さん。無視したつもりじゃなくて……」
「この男もアンタも、変な話で周りの気を引こうだなんて考えはやめた方がいいと思うぞ」
「なんてこと言うんだきみ」
そんな悪目立ちするようなことを、自ら進んでするわけがない。もしかしたら、聞いて回った際に悪目立ちしていたかもしれない。だがそれは、そうしなければいけなかったから。ノーカウントである。
「アンタと話してても埒が明かないのはわかったから、ちょっと退いてろ。……鍵山、だっけ」
「っす」
僕を脇に追いやり、鍵山さんと対面する鉄輪。先ほどと同じく、妙に険しい顔で、鍵山さんの顔を覗き込む。
彼女は、そこに何を見ているのだろうか。
「……ピエロ」
しばらくして鉄輪は、そんな言葉を呟いた。
「はい?」
「ああ、いや、なんでもない。……それよりいいの? そろそろ午後の授業始まるぞ」
「あ、やっべ! すみません先輩方、一旦失礼するっす! また放課後話しましょう!」
鍵山は一目散に去って行った。
「ああ、そうか。一年生の教室は四階なんだっけ」
ちなみに、僕ら二年生の教室は三階だ。三年生になるとさらに下、二階になる。
鍵山さんの話も鑑みると、少なくとも四階より上――そうなるともう屋上しかないわけだが、そこから人が落ちたことになる。そんな高さから落ちたならば、当然無事では済まない。
なんて面倒なものを目撃してしまったのだろうか。
「……なあ、アンタ」
「ん?」
再び文庫本に目を落とした鉄輪が言う。
「あの子……鍵山って子、嘘ついてるよ」
唐突に、そんなことを。
「アンタが私に、嘘をついてるんじゃなければ、だけど」
横目で僕を見るその目は、何かを確信しているようで。
だがその確信に、僕は頷けない。
「鍵山さんが嘘をついてるなんて……そんなわけない。そして、僕も嘘をついてない。人を疑うのもいい加減にした方がいいよ。だから友達ができないんだろ?」
「その言葉、そっくりそのまま返す。アンタこそ友達いるのかよ」
「…………」
言い返そうと思えば、いくらだって言い返すことはできた。だがこれ以上は無意味だ。
鉄輪は、自分を信じている。だからこそ、自分の考えをここまで頑なに正しいと思い込める。間違っているのは自分ではない、周囲だ、と絶対的な自信がある。
そんな人間には、どんな意見も通じない。頑固者とは得てしてそういうものだ。
……僕らの間に、ぺら、ぺら、と。鉄輪がページを繰る音だけが響いた。
◆
4月X日
くるくる、くるくる。ぱらぱら、ぱらぱら。
ふわり、ふわり。ぺた、ぺた。
がーん、がーん。べちゃ、べちゃ。
がつーん、がつーん。ぶちゅり、ぶちゅり。
ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。
◆
放課後になり、鍵山さんが僕らを訪ねてきた。
それと同時に、鉄輪は帰り支度を始める。
「あれ、帰るの?」
「なんでアンタに付き合わなきゃならないんだ。勝手にやっててくれ」
確かに付き合ってくれと告白したが、この事件に付き合ってくれとはまだ一度も言っていない。……言おうとはしたけれど。誘う前にフられてしまった。
「約束通り来たっす! ……あれ、あの先輩は帰っちゃうんすか?」
「うん、付き合ってとはまだ言ってないんだけど、言う前にフられた」
「なんかすげー現場に遭遇したっす!?」
変な誤解を与えてしまった。
「僕の話はいいよ。……それで、そっちの子は?」
「ああ、ウチの友達の眞鍋っす。先輩以外で唯一、ウチの話を信じてくれたんすよ」
「ど、どうも……あのぉ、ゆぅちゃんが迷惑かけたりとか、してませんでしたかぁ……?」
「ウチの信頼無さ過ぎて泣けるっす」
活発的な鍵山さんに比べ、大人しそうな子だ。
二人は対象的だが、案外そういった関係の方が上手く行くのかもしれない。
僕だって、鉄輪とは正反対な性格していると思う。なぜフられてしまったのだろうか。僕らとこの子達との間にある差とはなんぞや。
「そんでまあ、来るって行っちゃったんで来たんすけど。……どうしましょう?」
「……ちょっと、やりたいことがあるんだよね」
僕一人では無理だったけれど、同じ光景を見たという鍵山さんと二人でならば、それも叶うかもしれない。
「僕の言葉を疑った鉄輪に、これは現実に起きたことなんだって信じさせてやりたいんだ」
自分は間違っていないという少女に、現実を突きつけてやる。
――間違っているのは、きみだ、と。
「そのために、何がどうなっているのかを、調べていこうか」
さあ、探偵ごっこの始まりだ――――。
更新は遅くなるつもりでしたが、急かされてしまったもので。
こうして続きを待ってくれている人がいるというのは嬉しいですね!!