019.
「おしるこくん、三組だったんだね」
二年二組の教室の前で出会った黄村先輩は、僕を見つけるなり駆け寄ってきてそう言った。
昨日に比べ、あまり緊張した様子が見られない。二度目だからだろうか、むしろやる気さえ見え隠れする。
しかしそれらはどこか薄っぺらい。いつかビリビリに裂かれてしまいそうだ。
「背中を押してもらったから、今日も頑張ることにしたの。……やっぱり、大変だけど」
眼鏡越しの上目遣い。レンズと瞳に僕の顔を映し、強かな笑顔を浮かべる。
「って、あれ、風邪でも引いたの?」
ようやくマスクに気付いたのだろう、他人を慮る余裕もあるらしい。
「それじゃあ、私先に帰るから」
同じくマスクをつけた鉄輪は、先輩の横を通り過ぎようとして、
「あっ……彼氏さん、借りちゃってごめんなさい」
足を止めた。そのまま顔だけを振り返らせ、
「――――」
とんでもない顔をした。
口元が見えないから、とんでもない目になった、でも良いだろうか。極度まで見開かれた双眸が先輩と僕を睨み付け、そして細められ、閉じられた。そのまま何も言わずに踵を返し、階段を下りていく。
「……あの、先輩。嫌味ですか? 鉄輪にはフられたって言ったのに」
「あ、つい……でも、カンナワ、さん? たぶん、おしるこくんのこと好きだよ?」
「んなわけ」
あっけらかんと言ってのけるこの人は、まるで羨ましいと言わんばかりに頬を染め、
「いいなぁ……舞も、恋してみたい」
などと口にした。話を聞かないタイプには見えなかったが、色ゴトに関しては妄想を突っ走っている。しかしそれは有り得ないことだ。鉄輪が僕のことを好きだなんて……ならば今頃、僕はカノジョ持ちでなければおかしい。
それはそうと、先輩は順番に回っているらしいからと伝えておく。
「あ、そうだ。三組にはいませんから、鏡くん」
「え? ……ああ、うん、ありがとう、教えてくれて。無駄骨折らずに済みそう。それじゃあ次は四組だね」
僕はヒーローではないし、自ら先輩を手伝うつもりもない。けれど、いないことを伝えるだけならば片手間にもできる。ただそれだけなのだが、先輩は勘違いしてしまったようで、
――右手を差し出してきた。
「一緒に頑張ろう!」
「……はい?」
ボーっとする僕の手を掴み、そのまま一歩踏み出した。
「あ、あの、手伝うとは……」
「あのね、舞、正直まだ怖いし恥ずかしい」
僕の方は向かず、ただ前を見て、
「昨日だって家に帰ってから死ぬかと思ったし、何度も何度もどうしてあんなことしちゃったんだろうって思ったし、なんなら今だってわざわざ舞がやらなくても良いって思ってるし、」
でも、
「でも、舞だってもう三年生だし……そろそろ、変わらなきゃ」
――変わらねば。その言葉は、やけに心を掻き毟る。
「……別に、無理して変わる必要はないと思いますけど」
「あは、そう言ってくれたのはおしるこくんが初めて。でも駄目だよ、変わらなきゃ、今まで通りだもん」
それはそうだろう。変化があるから今までとは違うのだ。僕が言っているのはそういうことではなく、今まで通りの何が駄目なのかということだ。
しかし、僕だって普通になりたいという変化を望んでいる。先輩の言葉は、強く否定できない。してはいけない。
「おしるこくんってさ、手伝ってって言われれば断れないって感じがするの。あー、舞ってばズルいなあ……」
断れないわけではない、……が、ここで断れば、きっと異端扱いされてしまう。もしも誰かに見られたのならば、人の頼みを断るなんてサイテー、などと陰口を叩かれまくるかもしれない。そんな恐れがいつだって僕の中にある。
そんな僕の気も知らないで。心の中で毒づいて見せる。
「……あのね、もう一度だけ、背中を押して欲しいんだ。……舞が、ありったけの勇気を振り絞れるように」
立ち止まり、手を離し。先輩は僕に背中を差し出した。昨日と同じように、とっ、と人差し指だけでその背中を押し、
「――やっぱり、優しいんだ」
そのまま四組の戸に手をかけ――、
「うぉっ?」
――る前に、その戸が開かれた。
戸を開いたのは恐らく四組の男子生徒。……? 見覚えがあるような。
「あ――、」
その男子生徒の名を、僕は知っている。
――鏡、兄亮だ。
「え、っと……え、はい?」
先輩も気付いたのだろう。顔を真っ赤にして、目の端に涙を浮かべている。
「……か、鏡くん」
「なに、なんで泣いてるんすか? え、え?」
「――ずっと、ずっと探してましたぁ……!」
そのまま感極まって泣き始める先輩と、何が何やらわからなくて狼狽する鏡くんの構図を眇め、僕は静かにその場を去る。もう手伝いなんて必要ないだろうし、何か見ていると悪い気がしてきたのだ。
ずっと探し求めた恋人同士の巡り会いを邪魔するような気がして。
「それにしても、やっぱりどこかで聞いた気がするんだよな……先輩に聞くよりも前に、」
鏡兄亮という名を。さて、どこだったろうか。
……どこでもいいか。
二人の会話を後ろに聞きながら、これ以上風邪が酷くなりませんようにと祈り、帰路に着く。
……翌日から僕は、高熱のため三日ほど学校を休んだ。
◆
「――それで、話って?」
「あのね……実は、ちょっと」
曖昧な言葉のみで、先ほどからはっきりとしない。女子生徒が何かを言わんとしていることを男子生徒は理解していた。しかし、あまりにももどかしい。
「オレ、部活もあるしあんまり時間取れないんですけど……」
「ご、ごめん! うん、すぐ終わらせるから! ……すぅー、はぁー」
これ見よがしに深呼吸を始め、暗にもう少し待ってくれと言う女子生徒。ようやく意を決し、その口を開いた。
まずは、急にこんなことしてごめん、という言葉から始まり、
「実は……はい、ええと……――お願いが、あるの」
頬を朱に染め、両手を胸の前で組んでは開き組んでは開きを繰り返す。
「――付き合って、くれませんか」
それに対する男子生徒の返答は――、
◆
三日間学校を休み、さらには土日を挟んだため五日ぶりの登校。
鉄輪の姿を見ないまま教室に辿り着き、そこでようやく鉄輪の姿を目にした。――机に突っ伏す、鉄輪の姿を。
「よっす、久しぶり」
声をかけると、顔だけをこちらに向けた。気だるげではあるが、風邪は治っているように見える。
「あんまり期待しないで聞くけどさ、授業のノート取ってたりしない? 鉄輪と違ってちゃんと授業受けないと点数取れないんで」
「……え? 私、水曜から休んでたけど」
「……え? 鉄輪も……?」
「うん」
なぜこうも変なところで息が合うのだろうか。まさか、相性が良いとか?
「よし鉄輪、付き合ってくれ」
「内科なら付き合うけど、頭の病院には一人で行けよ」
「違うわ」
そんなやり取りを終えて、そういえば今日は鍵山さんたちが来ていないなと気付く。さすがに三日も休めば来るのもやめるか。
例の一件以来ほぼ毎日だったため少々物足りなさはあるが、静かでよろしい。
と、思っていたのだが。
「や、やっほー……」
ガラ、と戸を開けたのは、印象的な金髪を緩い三つ編みにした眼鏡の先輩。クラスの視線を一身に集め身体を小さくしていたのは当然、黄村先輩だ。
注目に晒されながら僕の席に近づいてくるもんだから、以前の余熱を引いて様々な声が飛び交った。
「またアイツ?」
「前もなんかやってたよな」
「一年生を教室に連れ込んだり、先輩を連れてきたり……」
「なんかチョーシ乗ってね」
そんな声をかいくぐり、先輩は僕の前に立った。
「あ、あれ……何かマズいことしちゃったかな」
「先輩は可愛いから目立つんですよ、地味な僕が浮いてしまう」
「そ、そんなこと……って、それより、今日は伝えたいことがあったんだよ。でも……」
クラスの様子を見て、ここでは無理だろうことを悟ったのか、苦い顔で「昼休み、食堂前の自販機で」と言い残して去って行った。
ふと隣を見れば、鉄輪は不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。
「……僕の顔に何かついてる?」
「別に、相変わらず誰にでも可愛いって言うんだなって」
拗ねてた。
◆
「あ、今日は学校来れたんすね先輩!」
三日も休んだおかげでまったくわからないところが出てきた授業を乗り越え、普段の倍以上に疲れて迎えた昼休み。朝は来なかったのに、後輩二人が教室を訪れた。その際、またも視線が僕に集う。
「んん? なんか妙な空気してるっすね」
「……気分悪い」
普段はそれこそ周りなんて関係ない! と言う二人が、この時ばかりは教室の視線に気付く。……いいや、むしろこの二人は周囲の視線に敏感なのではないだろうか。特異な存在である自分たちに注目が集まっているのを知りつつ、それを無視しているのだとすれば、それはどれだけ強い心なのだろう。
「で、で、二人して三日も学校休んでたっすけど、もしかして秘密の新婚旅行とかしてたんすか?」
僕と鉄輪、二人して吹き出した。
「げほっ……んなわけないでしょ。普通に熱出して休んでたんだよ」
「んなの当たり前に知ってるっすよ。冗談じゃないっすか」
この野郎。
……ああ、でもやはり、このくらいの鬱陶しさがちょうど良い。久々の鍵山節だったからか、妙にホッとしている自分がいることに気付く。
「それじゃあ今日は久々にこの四人でお昼を食べられるっすね!」
あ、それは無理だ。
僕は黄村先輩と約束をしている。そろそろ行かないと待たせてしまうだろう。その旨を伝えようとしたら、
「駄目だって。こいつ、可愛い先輩とデートだから」
「ええええええええっ!?」
とんでもないことを鉄輪が口走った。鍵山さんの大声に釣られ、ようやく離れたクラスの視線が再度僕に集まる。その視線は言っている、「うるせえ、余所でやれ」と。
もう言い訳すら面倒になって、僕は何も言わずに教室を去った。背後で「ちょっとちょっと、お相手は誰なんすか!? 鉄輪さんのことはどうでもよくなっちゃったんすかー!?」なんて声が聞こえ――しばいてやろうか。
さすがに聞いていられなくなり早足になる。
そうして食堂前の自販機に着き、
「……まだ来てないか」
財布の中から小銭を取り出し、おしるこを購入。飲みつつ待つこと数分。
「ご、ごめん! 遅れちゃって」
「いいえ、今来たとこなんで」
いつかも言ったセリフで先輩を迎えつつ合流。さて、どんな話をされるのやら。
「その前にちょっと待って。……よっと」
ガタガタ、ゴトン。自販機から取り出したのは、ペットボトルのお茶だった。
「へへ、今日は間違えなかった。それじゃあ場所を移そっか」
「え、ここじゃ駄目なんですか」
「駄目ってほどでも無いけど……そこそこ人目あるし、ね」
そう言って目配せする先輩は、着いてきてと前を歩き始めた。その足取りはいつものようなおどおどとしたものではなく、確固たる自信に満ち溢れていた。僕が休んだ三日と土日で何かがあったのだろうか。
歩きながら先輩は口を開く。
「今日はね、お礼を言いたくて」
「そのお礼って、歩きながらでもいいやつなんですか」
「うん。話しにくいのは、もう一つの話だから」
くるりと振り返り、後ろ向きのまま歩きながら、
金の三つ編みを揺らし、笑顔を浮かべながら、
僕のことを、真っ直ぐ見つめながら、
「ありがとう、背中を押してくれて」
風に吹かれるその姿は、あまりにも完成されすぎている。
また歩き出した先輩は、僕を連れて部室棟まで来た。度々縁のある部室棟は、人目を避けるには十分すぎる影を生んでいる。
その影にて、先輩はもう一つの話を始める。
「たぶん、こんなこと言われても、なんで? って思うかも。なんでそんなことをわざわざ伝えるんだって。でも……どうしても、伝えたくて。嫌味ったらしいよね、……よりにもよって、おしるこくんにこんなこと言うなんて」
「あの、いきなり自虐入ってますけど、話が見えな――」
「舞ね、鏡くんと付き合うことになったの」
「――――」
――はあ、誰でもいいから付き合いたい……。
――ふ、ふふ……おしるこ片手にお弁当を食す女子高生って、モテない……。
――ちょっとよくわからない、かな……だって舞、恋したことないもの。
――――は?
「えへ、えへへ……ホント、こんな話されてもって感じだよね。でも背中を押してくれたのもあるし、なんとなく、おしるこくんには伝えておきたいなって思っちゃって。……迷惑だった?」
なぜ、とか、迷惑だとか、そういったことよりも真っ先に浮かび上がった感情。人はこれを、なんと呼ぶのだろう。
なんとなしにこの先輩に感じていた安心感。それと同時に感じていた不信感。それがたった今、完全に不信へと振り切られた。
――裏切られた。
裏切られた、裏切られた、裏切られた。
先輩の落ち込む姿、ため息、涙を浮かべた悲壮な表情、そして恋に対する諦め。それら全てが、たった今瓦解した。
「おしるこくんが背中を押してくれなかったら告白なんて無理だったし、それに――」
どういった経緯で告白するに至ったのか、僕が帰った後に何があったのか。目まぐるしく流れ行く記憶の中に、僕はこの感情の名前を見つける。
――拗ねてる。
ああ、きっと。
この感情を――〝嫉妬〟と呼ぶのだろう。