018.
「あ、あのっ!!」
誰かへの呼びかけにしてはやたらと大きい声で、しかし喉につっかえたかのように響かなかった。一瞬で霧散した声は振り返った誰を動かすこともなく、生徒たちの関心は声から離れていく。
きっと、他の誰かが声をかけるだろう。自分とは関係ない。そんな心無い声が聞こえてくる気がした。
勇気を振り絞ってみたは良いが、そんな仕打ちを受けては勇気も砕け散ってしまうだろう。だがその人は諦めず、もう一度通らない声を震わせた。
「あのっ!!」
「…………」
今度こそ、誰も振り返らなかった。
こんなところ、見たくなかった。見てしまえば最後、彼女を放ったら僕は彼らと同じになってしまう。
彼らと同じ。それこそ僕が望んでいたもののはずなのに、段々と望まなくなり、ここに至り嫌悪すらするようになってしまった。誰でも良い、彼女を助けてやれ。そんな僕の声は、届かない。
彼女を気にしてしまうのは知り合いだからだろうか。それとも、知らない人相手でも僕はこんなことを思ったのだろうか。
二年一組の教室の前であたふたする印象的な三つ編みの金髪。きっと生徒手帳の件だろう。恥ずかしいだろうに、それでも懸命に生徒手帳の持ち主を探そうとしている。
「……やけに気にしてるけど、ああいう人が好みなの?」
心底興味ない、とでも言わんばかりに鉄輪が問うてくる。
「まさか」
言いつつ、僕は黄村先輩に近づいていく。
「――――っ」
ぞわり。
聞こえたのは舌打ち。朝聞いたものと同じように聞こえた。しかしこの場には眞鍋さんはいない。……いいや、もう認めよう。
今のは、黄村先輩の舌打ちだ。
その表情からは色が消え、おどおどとした態度が消え、黄村先輩とは別の誰かが乗り移ったかのような怒気を感じられた。
「……っふぅ。……あれ? ああ、おしるこくんだ」
僕が呆けていると、黄村先輩はいつもの雰囲気に戻る。僕の知っている先輩が、僕の知っている声で話しかけてくる。
「…………、……どうです、か? 鏡くん、見つかりました?」
動揺を悟られないように、と努めたつもりだが、もしかしたら声が震えていたかもしれない。
「あっはは、結構勇気いるね、これ……まったく面識のない人ばかりの教室に、一人で突撃するのは。たった一回で心が折れそうになっちゃった――」
恥ずかしかったのか、それとも悔しかったのか、先輩は顔を俯け、声は消え入りかける。
……先輩だ、僕が知っている、おどおどとした黄村先輩だ。そうしてようやく肩の力を抜く。
「あー! 今日はもう無理! また明日、明日から頑張ろう」
「……はは、それ、頑張らない人が言うセリフだと思いますよ」
黄村先輩は、腰まで伸びる一房の三つ編みを揺らし、後ろを向いてしまう。
「なら、背中を押してくれる? 諦めんなよ、頑張れ、って」
こちらを見ず、悪戯っぽく言う。おかしなことをする人だ、なんて思いながら、僕は背中に手を伸ばす。
両手を背中に触れさせ、トン、と軽く押した。
とと、と前につんのめる。その勢いのままに振り返り、不思議と惹かれる笑顔で先輩は笑う。
「本当にやるなんて。初めて会った時にも思ったけど、変な人だね」
そのまま「じゃあね」と残し、先輩は階段を下りていった。……どちらが変な人なのだろうか。でも、悪くはない。
変な人、なんて受け入れたくない言葉のはずなのに、すんなりと馴染んでしまう。あの人の笑顔は、言葉は、不思議だ。
――ぞわり。
だというのに、脳裏に蘇る色のない彼女の表情。
「なあ、鉄輪。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……あ? なに?」
どこか不機嫌さを顕わにするクラスメイト。もしかしたら、ではなく確実に怒っている。なぜだろう。腕を組み、指をトントン。眉を寄せ唇を尖らせて、声には棘がある。
しかし、思い返せば鉄輪はいつも仏頂面だし、別に気にすることでもないか、と僕は問いを続ける。
「黄村先輩――さっきの人なんだけど、仮面被ってた?」
「――――」
細められていた目が一瞬、大きく見開かれる。せわしく動いていた指の動きは止まり、それだけではなく全身の動きが硬直した。
「……どうして」
「なんとなく、気になったんだ。で、どうなんだ、――よ?」
鉄輪は、顔を真っ赤にして固まっていた。口を開いたまま、可愛い顔をあどけなくアホ面にし、まるで信じられないものを見たと言わんばかりに。
「……鉄輪?」
「……し、知らない。教えてやらない」
「は?」
言うなり鉄輪は、僕から逃れるように走り出した。一緒に帰る流れだったはずなのに、その姿はあっという間に見えなくなった。
「え、えぇ……」
「あ、せんぱーい!」
僕が呆気に取られていると、鉄輪と入れ替わるように後輩二人が背中から声をかけてきた。本当に毎日来るな。
「教室に行ったらもういないんすもん、酷いっすよ」
「雨が降ってるから今日はさっさと帰ろうと……止む気配もなかったし」
廊下から窓の外を見てみるが、やはり降り続けている。鉄輪の傘に入れてもらおうと思っていたのだが、それも叶わなくなった。
「ずぶ濡れ確定だ……」
肌に張り付くシャツを想像し、やはり雨なんて嫌いだ、と零した。
◆
傘を差すのも忘れ走る、走った、止まった。
元々体力があるわけでもなく、運動神経は皆無に等しい。肺に空気が流れ込む度ヒュー、ヒューと乾いた音が鳴る。
耳のすぐ傍にあるのかと疑いたくなるほどに鼓動が響く。湿気によりじわじわと滲み出す汗がシャツを濡らし、肌に張り付いて気持ち悪い。ヤツの言っていた「雨が嫌い」という理由もわかる気がする。
それでも私は雨が好きだ。降る雨を一身に浴び、赤くなった顔を冷やす。
ああ、とんでもない不意打ちをしてくれる。虚を突かれ、上手く誤魔化すこともできなかった。見られただろう、赤くなった顔を。
「……何の疑いもなく、信じてくれてるなんて」
告げた時ならば、勢いも雰囲気もあった。疑うよりも信じた方が良いという気持ちもあっただろう。だから信じた、一時の気の迷いとして。――だと思っていたのに。
ヤツは、一ヶ月経つ今でも変わらず私の言葉を信じてくれている。
「アレは……反則だ。うん、ずるい。卑怯だ」
私の言葉はいつだって空虚で、信じてくれる人は多くなかった。仮面が見えるなどという戯言、信じてくれる人間は多くなかったし、だから勝手に思ってしまっていた、信じてもらえてはいないのだろう、と。
だというのに、ヤツは、ヤツは……!
「ああああ――ッ!」
どうしようもない感情を吐き出す。ああ、やはり雨はいい。どれだけ叫んでも雨音に掻き消されてしまう。誰の耳にも届かない。思う存分、ありのままの自分を曝け出せる。
そろそろ呼吸が落ち着いてきた。うずうずとする全身を余し、私はまた走り出した。大して脚は速くもなく、長くも走れないけれど、少しでも遠くへ、離れて。
――逃げる。
「はは、ははは」
嬉しいのだ、信じてもらえていることが。怖いのだ、軽率に頼られることが。
きっと私は、これ以上ヤツの傍にいたらおかしくなってしまう。それはいい、もっとおかしくなってしまおう。このまま、私ではない私になってしまおう。
「はははははっ」
――同時に、恐ろしい。
いつか、ヤツの前で被っている仮面を暴かれたらと思うと、震えてしまう。
いつか、気持ち悪くない告白をしてきたらと思うと、震えてしまう。
もっと、もっと、続け。
「いつまでも続け、青春――ッ!!」
結局のところ、私は普通の女の子でしかない。
◆
「……なんていうか、二人って仲良しっすね」
翌朝、鍵山さんに呆れ顔を向けられる僕と鉄輪は二人してマスクをしていた。
「思い切りずぶ濡れになりました」
「……私も」
鉄輪は傘を持ってきていたはずなのだが、なぜずぶ濡れになったのだろう。確かに強い雨ではあったが、差していればそこまで酷いことにはならないはずなのだが。
「……感染しちゃ悪いから、戻った方がいいと思う」
珍しく鉄輪が他人を慮り、僕も鉄輪さんも面食らう。
「ウチは気にしないっすけど……本当に大丈夫っすか? 帰って休んでた方がいいんじゃ? ……まあ、そこまで言うならウチらは戻るっすけど」
お大事に、と残し、大した話もせず鍵山さんたちが帰っていく。その瞬間、鉄輪は机に突っ伏し、
「あは、あはは」
「…………!?」
唐突に笑い出した。力なく、弱々しいものではあるが、ほとんど仏頂面しか見せてこなかった鉄輪が、笑っている。
こう、嫌らしい笑みだとか、不気味なものではなく……ただ、普通に。これも不気味であることに変わりはないのだが、少々雰囲気が違う。
「ほ、本当に大丈夫か? 帰った方がいいんじゃ」
「ははは……やだ」
「やだ!?」
突っ伏していた身体を起こし、
「なんだよ……私といるのがそんなに嫌?」
と、唐突に不機嫌そうな声で言う。まるでデート中にスマホを弄り出したカレシを咎めるカノジョのように。
「い、嫌じゃない……けど、」
「けど?」
「……不気味」
「――――」
正直に言ってしまってから後悔する。マズイ、怒られる。真顔になりジッと睨んでくるその瞳からは、感情を読み取ることができない。
鉄輪の返答を恐る恐る待ち、必要以上に怯える。そんな僕を見て、また鉄輪は笑った。
「あは、ははっ。……ああ、やっぱ無理だわ」
自嘲気味に呟き、びし、と左手の人差し指を立て、それを鼻先に指して来る。
「忘れろ、今の」
「……無理だ、って言ったら?」
「……あー、どうすれば忘れる?」
なんだそれ、と肩の力が抜ける。いつもの鉄輪に戻った気がして、ホッとした。
……ホッとした?
「まあいいや。ああああ、ダルい。……帰ろうかな」
「さっきと言ってることが違うじゃんか」
「さっきまでの私を私だと思わない方がいいぜ?」
いつもの嫌らしい笑み。
いったいなんだったのだろう。まるで夢でも見たかのように、先ほどまでの鉄輪はすっかりと霧消してしまった。
「あ、本忘れた。……今日寝てるか」
「なあ、きみってマトモに授業受けたことあるの?」
「ないけど? それでも中間ちゃんと平均ちょい上は取れてるんで」
なんと憎たらしいVサインか。
しばらくして担任が教室の戸を開け、HRが始まった。まだ授業は始まっていないのに、机に突っ伏し既に眠る気満々の鉄輪は、その耳を少しだけ赤く染めていた。
それは風邪から来るものなのか、はたまた。
「……わかんねえ」
そうして今日も、授業が始まる。
◆
そろそろ良いだろう。タイミングを見計らい、教室の扉を開けた。
程よく人がいなくなり、自分以外のことへの興味が薄くなった時間。授業から解放され、気の抜けた生徒。彼らに向かい、声をかける。
かけるだけにしては、大きすぎる声を。
「あのっ!!」
まずその一言で数人が振り返る。そして、しばらく何も言わずにいるとすぐに視線を外す。なんだろうあの人、誰か反応してやれよ。そんな心の声が、確かに聞こえてくる。
誰も彼もが他人に押し付け始め、十分な時間が経った頃、もう一度大きな声で、しかし遠慮がちに、
「あのっ!!」
今度こそ、誰も振り向かなかった。
ぐるりと教室内を見渡す。捜し求めている彼の姿は見つからない。ならばよし。あとは、いかに可哀想に振る舞い、立ち去るかだ。
ふと視線を廊下に移せば、隣の教室から見知った顔が出てくるのを見た。三組の生徒だったのか。その生徒と目が合い――このタイミングだ。
三年二組から離れ、その男子生徒に近づいていく。隣には女子生徒がいたが、構うことはない。ある程度控えめに、それでいて知り合いであることを意識して声をかける。
「――おしるこくん、三組だったんだね」
これで、今日も勇気を振り絞って持ち主を探す、哀れな黄村舞の完成だ。
「背中を押してもらったから、今日も頑張ることにしたの。……やっぱり、大変だけど」
極度の恥ずかしがり屋である黄村舞は微笑みかけ、小さな勇気を主張する。弱いだけではない、ほんの少しだけど、強さも兼ね備えているのだ、と――、
――そう思わせる。
感じる。そんな黄村舞に惹かれていく彼を。オチていく彼を。
黄村舞の笑顔にほだされ、少しずつ心を許していく彼を。
作者は鉄輪が大好きなのです。