014.
「仮面だとか、見届けるだとか……意味がわからなさすぎて気持ち悪いんですけどぉ」
「気持ち悪いのはアンタだろ。思い込み激しすぎて吐きそう」
気持ち悪いのも吐きそうなのも僕の方だ。
身体に染み付いた恐怖を振り払うことができず、しかしみっともない姿を見せるわけにも行かず、意地だけで立ち上がる。
「だいたい、なんなんですかここ。それにその不気味な絵……あたし、なんですよねぇ? 誰が描いたんですかそんなのぉ。――今すぐびりびりに破きたいんで、渡してくれませんかぁ?」
留針部長が描いていたもう一枚の絵。それに歩み寄ろうとする眞鍋さんを、鉄輪が遮る。
「……退いてくださいよぉ」
「私の親友が描いた絵を破る、なんて言われて退く奴がいるか」
「いますよぉ。きっとゆぅちゃんなら――」
「ならアンタらは、友達でもなんでもないんだろうな」
その一言は地雷だったのだろう。余裕綽々だった態度が崩れて、眞鍋さんはまず鉄輪に手をかけた。
その首に両手を持って行き、
「ぐ……っ」
「なんなんですかあなた。先輩みたく何か手伝ったわけでもなく、本当の意味で他人なのにぃ……どうしてそんなに、あたしの癇に障ることばかり言うんですかねぇ? もしかして死にたがりですかぁ? そんなに死にたいならぁ……死んじゃえばいいのに」
やめろ、鉄輪に手をかけるな――。
そう声を出したいのに、カラカラに乾いた僕の喉は震えない。
「……っ、……!」
苦しそうだ。当たり前に決まっている。苦痛に歪められる鉄輪の顔を見ているなんてできない。この現場そのものを、仮面で覆い隠してしまいたい。
――それでは駄目だ。
僕は逃げない、素顔を直視するんだろう。
だから、立て。
「――――ろ、よ」
立て。
「―――めろ、よ」
脚が震えるのなら折ってしまえ。身体を支えるのに胴体を両手があれば十分だ。
「――やめろ!!」
「……は? まだ逆らうんですかぁ?」
未だに、眞鍋さんの目を見るだけで身体が竦む。どことなく似ているのだ、あの人に。
「逆らうとか、そういう言葉言うのやめてくれないかな……」
怖い、けれど逃げてはならぬ。一人の時ならばわき目も振らず逃げていただろうに、今は鉄輪がいるからそれができない。
「眞鍋さん見てると、ちょっと嫌なこと思い出すからさ。……ホント、嫌な性格してるね」
「そんなのあたしの知ったことじゃありませんしぃ……っていうかなんですか、この状況で別の人のことを思い出すとか、存外余裕あるんですねぇ?」
鉄輪から手を離し、再度僕に向かって手を伸ばそうとする。
「歯向かうなんてできないほど、痛めつけてあげますからぁ……覚悟してくださいねぇ?」
覚悟、覚悟か。
……嫌だなあ。
「覚悟なんて、一度すれば十分だよ」
迫るその手を、僕は払いのけた。
「もう十分なんだよ。僕はきみの醜く惨たらしい外道の素顔を見た……散々だったけど、いろいろお腹いっぱいだ。その日記を取り返しに来たんだろ? だったら持っていけばいい。僕はもう、きみに用はない」
「は、はぁ? ここまで誘い出しておいて、いきなりそんな――」
本当はもう少しカッコつけたり、改心させたりとかしたいことは山ほどあった。だが彼女に改心とか望めるはずもない。
どうしようもなく人間的な――僕が求めた〝人間らしさ〟を既に持っているのだ。それを否定するなんて、できるはずがない。
「だから、もう僕はきみに何もしない。あとは眞鍋さんと鍵山さんで好きなだけイチャラブしててよ。……鍵山さんも、もう大丈夫だし」
最初から、何もする必要なんてなかった。
鍵山さんが危うい状態だったからこそ、眞鍋さんの愛は彼女を壊しかけた。けれどもう大丈夫なのだ。眞鍋さんの捩れていて真っ直ぐな愛をその身に受けても倒れないほどに強くなれたのだ。
「僕は仮面の下にある素顔を見た。それでおしまいだ」
「は――あ、あなたが言ったんでしょう。そろそろ終わりにしようって。この事件も、ゆうちゃんとの歪な関係も、自分自身に嘘をつくのも。なのに、言ったあなたが放り出すんですかぁ!?」
「終わったじゃない。鍵山さんとの関係は歪だったけど、よくよく考えれば鍵山さんはもう強いんだしどうこうする問題でもない。さらにはきみが自分自身に嘘をつくことをやめたから今こうなってるわけでしょ? そんで一番大事な、事件のことだけど……眞鍋さんがここに来た時点で、全部終わったよ」
そも、事件の大半が鍵山さんが起こしたことだし。眞鍋さんが犯人である事件なんて、鍵山さんを閉じ込めたそのことだけだ。
「な、なな、な」
「あ、そうだ。そういえば聞くって言ってたっけ。どうして鍵山さんを自分の家に閉じ込めたりしたの?」
「それは……愛を確かめたいっていう気持ちに、理由なんて――って違う! そうじゃない、あなたは何を言って!」
これ以上なんだというのだろう。正直怖いからもう帰ってくれというのが伝わっていないのか。
調子に乗りました、反省しています。だからここからいなくなってください。そう言葉にしないと伝わらないと言うつもりだろうか。
これ以上鉄輪の前で無様を晒したくないから帰ってくれ、と切に願う。
帰れ、帰れ、帰れ。
「もう謝るからさ、帰れよ」
◆
何を、何を言っているのだこの男は。
私の視界に映るのは、つい先ほどまで怯えていた男が一転、強気に主張をひっくり返している光景だ。
情けないと思ってみればこの変わりよう。……最高に、不気味だ。
留針部長に言わせれば、この男もある種の仮面を被っているという。だがあまりにも異質すぎて、私にはその仮面が見えていない。
――ゾクリ。
見てみたい、その仮面を。暴いてみたい、その素顔を。
この化物が抱えている外道はいったい、どんな姿をしているのか。
あまりの変わりように、眞鍋ですらたじろいでいる。
眞鍋の素顔も良いものではあった。だがあまりに露骨過ぎて冷めるというか、萎える。
自覚している異常なぞ、どこに魅力を感じろと言うのか。
まだ自分に嘘をついたままの彼女の方が、私好みだった。
反面、この男はどうだ。
異常を自覚していないどころか、自分が普通であると思い込んですらいる。だというのに〝普通〟を追い求めるという矛盾を抱えるこの男。――もしこの男が、自らの異常を自覚したとき、どうなってしまうのだろうか。
そういう意味でならば、異常を自覚するというのも悪くない。
いつか、その日が来ますように。
私はこの男に見た可能性を、胸のうちに仕舞った。
◆
「ああ、クソ、クソクソクソ!!」
なんなんだあの男は。
日記を餌に誘い出し好き勝手に言いやがったかと思えば、少し脅せばすぐに怯える。そこまでは良かった。ああ、実に良い。強気で来る相手をねじ伏せるのは気持ちがいい。
……だが、あの急変の仕方はなんだ。
何かに触発された、と受け取ってもいいが、だとしても、一瞬、ほぼ一瞬だ。その一瞬でなぜあそこまで変われる。
人は、そんなに強い生き物だったろうか?
そんなわけがない。誰よりも人間らしいあたしだからこそ言える。あの男はさながら化物だ。
人間が一番の化物だとか、そういう意味ではない。人間という範疇を超えた、理解不能の怪物だ。
「そんなものを従えるメリットなんて何一つないしぃ……!」
仮面のアトリエだったか。あの建物から逃げるように出てきたが、そんな自分が恥ずかしい。堂々と、余裕綽々と見せかけることすらできなかった。
――あんな男に、ゆぅちゃんは諭されたのか。
ああ、もう、腹が立つ――!!
「――こんなところで、何をしてるんすか眞鍋」
林を抜けた先。見慣れてしまった部室棟の前に、ゆぅちゃん――鍵山柚月がいた。
「ゆぅちゃん……! ねえ、あんな男と関わったら駄目だよぉ? ゆぅちゃんまでおかしくなっちゃうぅ……!」
「あの男って……ああ、先輩っすか」
先輩? ああ、駄目だ。その呼び方は駄目だ。まったくの他人であれ。先輩後輩という関係すら許さない。
「もうあんな男忘れようよぉ。あたしたち、入学して一ヶ月をあの男のせいで無駄にしちゃったんだしぃ、もっと怒ってもいいと思うなぁ?」
「無駄? 怒る? はっはっは、いやいや。眞鍋に……いや、ゆうちゃんに何があったのか、ウチは何も聞いてないっすけど。それでも、先輩には感謝しかないっすよ」
――手遅れだったのか。
いいや、まだ間に合う。調教して、わからせてやればいい。あたしの言うことを聞け、あたしのことだけを見ろ。それこそが正しくて、それ以外は間違いだと教えてやるのだ。
いつもの如く、右拳を振り上げて、
「こればかりは、譲らないっすよ」
ゆうちゃんの、鳩尾に叩き込む。
「……何を、譲らないって?」
「ぐ、ぅ……、……っはぁ!!」
もう一度叩き込む。もう一度、もう一度、何度でも。
「……こればかりは、ゆうちゃん相手でも譲れないっす」
なのに、ゆぅちゃんはあたしの思い通りになってくれなかった。
嫌だ。ゆぅちゃんが、あたしのモノではなくなっていく。
「な、なんで……? あたしのことが好きなんでしょ……? なら、ならさ……」
「あ、れ? 好きだって言ったこと、あったっけ……覚えがないんすけど。もしかして気付いてたんすか? やー……恥ずかしいな――うぐっ!」
もっと、もっと殴らなきゃ。
ほら、早く。いつもならそろそろ泣いて懇願するのだ。許してくれと。言う事を聞くからと。だから殴らないで、嫌いにならないで、と。
「どうして、どうして!! どうしてあたしの言う事が、聞けないの……!」
「……っ、……っ! ――どうして、って」
苦しげに呻きながら、それでもなお言う事を聞かないゆぅちゃんが、言葉を紡ぐ。
「さっき、自分で言ったじゃないっすか。――好きだからっすよ」
「は……は? だったら、どうして歯向かうの。あたしだってこんなに好きなのに、どうして……!」
殴るのをやめ、顔を見据える。その顔は、苦痛により流れる涙に濡れていて。しかし笑っているのだ。
どこまでも強く、眩しく、笑っているのだ。
「ウチが何年ゆうちゃんのことを好きだと思ってるんすか。小学生の頃からっすよ? ゆうちゃんがウチのことを好きなのなんて知ってるし、いつもあたしのことを想ってやってることだってのもわかってるんすよ。……でも、一つだけ見えていないものがあった」
見えていないものなんてない。あたしたちは完成されている。二人だけで完結している。そこに隙などありえない。
「いいや、在り得たんだって、ようやく気付けた。……心の底から好きな相手って、昔っから思い通りにならないモンなんすよ。なのに、思い通りにしようとするからおかしかった」
……いつからそんなに、強くなったの。
ここに、虐められっ子だった〝ゆぅちゃん〟はもういない。
――あたしが好きになった〝ゆぅちゃん〟は、もう、いないんだ。
「それが〝恋〟ってやつなんすよ。ウチらは少しだけ、順番を間違えた。恋どころか友達まですっ飛ばしていきなり愛するとか、おかしくなるのも当然なんだって。だから――やり直そう。ここから始めよう!」
いつの間にか俯いていたあたしは、きっと、光り輝くゆぅちゃんの顔を見ていられない。
駄目だ、あたしは、駄目だ。
「――ゆうちゃんが好きです、付き合ってください」
あたしには、その言葉を聞く資格がない。
◆
眞鍋さんがアトリエを飛び出して数分もしないうちに、奥から留針部長が現れた。
「もう良いのですか?」
「あ、はい。……なんかもう、疲れました」
見たいものは見れたし、言いたいことも言えた。鍵山さんも呼んでおいたし、後は彼女たちが勝手に結末を描くだろう。
その結末を見たい気持ちがないではない。
「でも、それこそ邪魔になっちゃうし」
「ふふ、考えすぎだと思いますけどね」
仮面の下に微笑を浮かべながら、留針部長は僕の頭に手を乗せる。
「……頑張ったと思いますよ、あなたは。何もない、空っぽの身でありながら」
「――――?」
その言葉の意味がわからず、手を乗せられた頭の上にはてなマークを浮かべる。
「それで、いーちゃん。彼女はどうでしたか?」
「んー……面白かったけど、それだけだ」
「……そうですか」
留針部長は、自らが描いた眞鍋さんの絵に歩み寄り、手をかけ――、
「あぁ!?」
びりびりと、引き裂いた。
「もういいのです。こんな醜悪な絵、もう彼女たちには似合いませんから。鍵山さんの絵も渡してくれますか?」
渋々手渡すと、躊躇することなく破いていく。せっかくの絵が……はあ。
「そんなにわたしの絵が良いのであれば、描いてあげますから。――だから、この二枚の絵だけは許してください」
裂かれていく二枚の絵。それはまるで、今回の出来事を通して二人が変わったことを表しているようで。
そして実感する。
ようやく、終わったのだと――。
次回エピローグのようなもの。お約束の「覚えてろよー!」が炸裂する予定です。