013.
純愛純愛♪
結局踏み込んでしまった。
鍵山さんが閉じ込められていた家の表札に書かれていたのは、『眞鍋』という文字。おそらくあそこが眞鍋さんの住む家なのだろう。
その時点で、僕らは眞鍋さんをどうにかせねば事件は終わらないと理解した。
……だが、終わらせる必要はあるのだろうか、とも同時に思ったのだ。
僕らは他人だ。少しだけ関わりがあっただけの、先輩後輩でしかない。他人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られると言うが、まさにその通りだ。これ以上は、自ら首を突っ込む道理はない。これ以上関わることがあるとすれば、眞鍋さんが干渉してきた時だけだ。
だというのに、あちらから仕掛けてくるまでは、と思っていたのに。
あんな日記を見せられてはそんな気も失せてしまう。
待っていては駄目だ、こちらから仕掛けねば――そうして僕は、鉄輪と留針部長に協力を申し出た。
眞鍋さんを誘い出すから、手伝ってくれ、と。
日記に綴られていたのは擬音の数々。それが最初、何を表しているのかわからなかった。だが「感情の波が聞こえなくなった。」という一文によって全てを理解する。
その後に続く文章から見るに、これはゆぅちゃんからゆうちゃんへ向けられた感情の羅列だ。
酷く、酷く酷く歪んでいる。普通ではない。他者の感情を勝手に理解した気になって文字に表して、それを愉しんでいるなど。
「そろそろ終わりにしよう。この事件も、鍵山さんとの歪な関係も。自分自身に、嘘をつくのも。ねえ――――眞鍋さん」
ここで終わりにするべきなのだ。せっかく鍵山さんは真っ当な嘘を手に入れられた。なのにそれを、ゆうちゃんが壊していいはずがない。
鍵山さんが惚れた女の子である眞鍋さんが、壊していいはずが、ない。
「……終わりに、って言いますけどぉ。なんで終わらせなきゃいけないんですかぁ?」
先ほどまで怒り狂うほどの勢いだったのに、急に静まる。それが余計不気味に見え、僕の声は裏返った。
「……普通じゃ、ないから」
言いつつ、思う。――いいや、違う。
この世には、普通なんてものは存在しない。人の数だけ特別があって、それを自信に繋げて行く。それが人間の、本来あるべき姿だ。
だとしても、在っていい特別と、在ってはいけない特別がある。眞鍋さんのソレは、在ってはいけないものだ。
「それを決めるのはぁ、……あなたじゃないです」
ゾッ、と。視線だけで背筋が凍る。
普段のふんわりとした、おっとりとした彼女は偽り。これこそが、本当の彼女。
哀れで弱い子を装い他人の同情を誘う、狡猾なピエロ。
「普通だろうが特別だろうがぁ、あたしはあの子の『ゆうちゃん』なんですよぉ……虐められてたところを助けたヒーロー、それからも隣で守り続けたヒーロー。世界で始めてあの子に、本当の意味での『好き』を言ってあげた女の子。それがゆうちゃんであるあたしなんです……空っぽなだけのあなたが、あたしたちの間に入ってくるんじゃない」
なんて真っ直ぐで、捻じ曲がっているのだろう。それゆえに純心である。眞鍋さんはさながら、ネジのような心を持っている。
捩れているのに、真っ直ぐでもある。そんな歪が成り立っている。
「入ってくるな、とは言うけど、元々僕らを巻き込んだのはきみだろう」
「えぇ? 巻き込んだのはゆぅちゃんでしょう」
「違う、死体探しの件じゃない。……僕らに、鍵山さんを探してくれと乞うたのはきみだ」
あの日、眞鍋さんが教室に駆け込んでこなければ、僕は鍵山さんが行方不明だということ自体気付けなかった。二人の時間を邪魔するな、と言うのなら、探してなどと懇願しなければ良いだけの話だ。
なのに、なぜそうしたのか。
答えは簡単だ。そこには理由があった。
「きみは、捜索願を出されることを嫌った。……所詮は一人の学生、警察をどうにかできるわけがない。だから出される前に見つけ出させたかった。そして、探す役に選ばれたのが僕だったってわけだ」
彼女自身ではいけなかったのだろう。鍵山さんの失踪に自分が関わっていると、少しでもそう思われたら眞鍋さんは終わる可能性がある。だからわざわざ僕に頼み、匿名で鉄輪に居場所を教えたりと工夫を凝らしたわけだ。
「そもそもなんで閉じ込めたのか、とか僕にはわからないし、知ったこっちゃない。きっときみたちの愛だ恋だに関係してるんだろうけど、今はどうでもいい。それは後でしっかり聞くから」
今重要なのは、僕らを巻き込んでおいて逆ギレしていることだ。
「結局きみは、何がしたいんだよ」
「……別にぃ? 今先輩が言った通りでしたよぉ、流れだけは。……見つけ出して終わっていればよかったのに、余計な言葉をあの子に吹き込んだのは先輩たちでしょう?」
余計な、言葉。
「何が仮面だ、何が普通だ。それでいいはずがない、薄っぺらい愛だ恋だが当然なはずがない! あたしの愛は本物で、あの子もそれに必死に応えようとしてくれてた! あたしが望むようにあろうとしていた! ……それに気付きながらあたしは、嘘をついてついて、騙してきたけれど。それだってあの子の為だ。あたしたちが! 本物の恋人になるための! ……そのためにできることならなんだってしてきましたよぉ? 脅したり、強制したりぃ、時には酷いことも言ったり。それでもあの子はあたしの傍を離れなかった。これって、あたしのことが好きだからですよねぇ?」
聞こえてくる。彼女の仮面の下、素顔から溢れる本音が。
――あーあ、ちょっと助けただけで本気で恩なんか感じちゃってる。虐められっ子はチョロいなぁ。
――誰もあなた自身が好きなんて言ってないのに。顔だけだよ、顔だけ! あっははは! こんな言葉一つで笑顔になるなんて! ようやくあたしの思い通りになった!
――ねえ、もっとあたしの言う事を聞いて? 好きなんでしょう? 憎いけど、好きになろうとしてくれているんでしょう?
――なんで怯えるの? そんなにあたしが怖い? でも大丈夫。それでもあなたは、あたしを好きになる。それが本物の愛なんだから。
――簡単だった。楽しかった。鞭が多くても、極上の飴一つであたしに従うこの子を虐めるのが。この子は気付いていない。あたしは虐めから助けたんじゃないってこと。
――元々この子を虐めさせていたのがあたしだっていうこと、マッチポンプだったこと、虐める人間があたしになっただけのこと。
――ああ、楽しい、愉しい! 何もかも思い通りに動いてくれるあなたが、思い通りに笑ってくれるあなたが……ねえ、ゆぅちゃん?
……これならまだ、〝普通〟ではなく、周囲と同じ『普通』の方がマシだ。
思わずおぞましく思ってしまう。背筋が凍る、嫌な汗が伝う。緊張で全身が硬直し、膝が笑いそうになる。
僕が今、前にしているのは化物。『人間』という化物が被っていた〈化道〉という仮面の下にある――外道。
鍵山さんのように生易しいものではない。こんなものが常から表に出ていたら、きっと人間は人間ではなくなってしまう。だから人は仮面を被り、眞鍋さんもまた仮面を被っていた。
その仮面を、本当に暴いてしまっていいのだろうか?
「――――」
鉄輪は、ただ見ている。彼女の瞳には、彼女の仮面はどう映っているのだろう。
ここに来て僕は、仮面の下の素顔を覗くという行為の本当の恐ろしさを知る。
どうしようもない外道。人間の本性。誰もが飼っているという、内の化物。
弱気でどうしようもない女子に成り下がった、と自分にすら思い込ませる、まったく別の自分。
「……覚悟は? って私は聞いた。なのになんだ、その体たらく」
気付けば僕は震えていた。それを見咎めたのか、鉄輪は冷めた目で指摘してくる。
こんな外道を、彼女はこれまでどれだけ見てきたのだろう。どれだけ見れば鉄輪のように慣れるのだろう。
「ああ、そうです、思い出しました思い出しましたぁ! 踏み出すのが怖くて、ゆぅちゃんの影に隠れてみっともない姿を晒す気弱な女子に成り下がってしまった――なんてそんなの嘘ばっかり! あはははは、あたし、自分にも嘘をついてたみたい!
勇気を出しゆぅちゃんを救ったゆうちゃんはもういない? 嘘ばっか! あたしは最初から卑怯な女!
でも、だからこそゆぅちゃんはあたしの為に変わってくれた。あたしのために無理をしてくれた……卑怯で姑息な手を精一杯使って、言いなりにさせたんです」
狡猾で、恍惚の表情を浮かべる眞鍋さん。
「あの子を否定していいのも肯定していいのもあたしだけなんです。だってあたしが今のあの子を造ったんだもの! なのに……なに勝手に、あたしのゆぅちゃんを変えちゃってるんですかぁ? あたしは『探して』としか頼んでないのに――誰がそこまでしてほしいって言いましたぁ?」
ゆっくり、ゆっくり近づいてくる。
全身が硬直して動けない。手に持った眞鍋さんの日記を取り落とし、ぱらぱらと開かれた日記のページが視界に映る。
「……ああ、そういえば、これを追って来たんでしたっけぇ。まったく、乙女の日記を勝手に見るだなんて、いけない男ですねぇ、先輩?」
なぜか右手を握られる。
「ああ、男らしくない、柔らかい手ですねぇ……潰れちゃいそう」
ぎり、と。
「――――ッッッ!」
声も出ないほどに握り潰される。逃れようにも握力が凄まじく、また恐怖により身が竦んでいたためか、女子が相手なのに動けない。
「これでもあたしぃ、小学生の頃はヤンチャな女の子だったもので」
ヤンチャで済むレベルかこれが!!
しばらくして解放されるが、手の感覚がない。指先が紫色になっていた。
「それくらいで音を上げちゃ駄目ですよぉ。ゆぅちゃんはもっと苦しんできたんですからぁ……あたしの言う事を聞くまで、とりあえず痛めつけられてくださいねぇ?」
その両手が、首にかかる。先ほどの握力で首を絞められたりしたらきっと、死んでしまう。冗談でも比喩でもなく、間違いなく死んでしまう。
相手が、ただ力が強いだけの女子ならばそんな心配はなかった。だがこの女は、理性とか常識とか兼ね備えた上で僕を殺す。警察から逃れるためにあらゆる工夫を凝らした、などという事実も忘れて、僕は恐怖する。
殺されてしまう。殺されてしまう。
また、首を絞められて――!
嫌だ、それは嫌だ。
どんな死に方をしようと、どんな殺され方をしようとも構わない。それが納得できる死ならば受け入れよう。
だけど、首を絞められて死ぬのだけは嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!
絶対に嫌だ、それこそ死んでも嫌だ。首だけはやめてくれ、首を絞めるのだけは駄目なんだ。もうやめてくれ、謝るから、土下座でもなんでもいい、指を全部詰めたって構わない。
だから、首だけはやめてくれ。
ニタリと笑う彼女の顔が、笑っているのか泣いているのかわからなくなってくる。
口元から覗く牙。頭に生える二本の角。その双眸はただ暗く、昏く。
般若だ。僕は彼女に、般若の仮面を重ねた。
「い、嫌だ……!」
「えぇ? なんですかぁ?」
「やめて、やめて……!!」
「やめて欲しいならぁ、態度で示してくださいねぇ。ほら、できるでしょう?」
首から手を離され、呼吸を許された安堵からか咳き込みそれが止まらない。
僕が落ち着くのを待って、眞鍋さんは催促してくる。
あたしの頭を垂れろ、跪け。
僕はその視線のままに、膝をつき、頭を下げる。
そして、恐怖に喉が震えるまま、核心的な一言を――、
「まったく、情けない」
――言わせてもらえなかった。
「あらぁ。黙ってるから、不干渉なのかと思っていましたけどぉ。もしかして狙ってました? このタイミング。それっぽく口を挟んで、ヒーローになれるタイミング」
「アンタみたいなのと一緒にするな。この男は覚悟を決めた、って言ったんだ。だから任せてたけど……なんか折れちゃったっぽいし、ならここから先は、私がアンタの仮面の結末を見届ける」
それまで黙っていた鉄輪が、土下座する僕の前に立ち、
「いつまでもそんなんなら、何度私に告白したって、何度もフるだけだ」
――――ズキリ。
僕はもう、鉄輪という少女に恋愛感情など抱いていない。
だというのに、なぜ。
なぜこんなにも、その言葉は刺さるのだろう。
情けなくて惨めだ。こんなところ見られたくなかった。なのになぜ僕は、こんな姿を晒している?
僕は鉄輪になんと言った?
――それでも僕は、その素顔ってやつを見てみたい。
自分から言い出したことだろう?
ならば――目の前にある外道から、目を逸らすな。