012.
鍵山さんが学校に復帰した。それ以来しょっちゅう僕らの二年三組に顔を出す。周囲の視線が集まるが、鍵山さんが「そんなの気にするんすか? 先輩ってなんかちぐはぐっすね」なんて言うもんだから、意識しないように必死である。
しかし、意識しないように努めるのは意識しているのと同じ事で、結構苦戦を強いられている。
「それでっすね、今日もウチが――」
「……鍵山さ、毎日ここに来るけど。クラスの友達とかは良いの?」
ふと。
それまで文庫本を読んでいたはずの鉄輪が、僕と鍵山さんの会話に乱入してきた。口を挟むという表現が正しいのだろうけれど、この場合は乱入が適切だ。
なぜなら鉄輪は、いかにもイライラしているというオーラを放っているから。今にも手が出そうな雰囲気の彼女に対し、鍵山さんは勇気ある行動に出る。
「それはウチが決めることっす。今は先輩と話していたいんでここにいるんすけど……え、何か問題でも? あ、邪魔っすか? それなら先輩、廊下で話しましょう! ほらほら、ささこっち」
否、それは勇気ではあれど、蛮勇の類だ。
おそらく鉄輪は、少し注意しただけのつもりなのだろう。その注意に従わないどころか煽ってくる後輩に苛立っているつもりなのだろう。
「そういう問題じゃなくて……」
しかしそれは、傍から見ればある一つの感情の表れに見えてしまう。
「あれぇ、鉄輪さん、もしかして――」
それは、
「――嫉妬してるんすか?」
「…………、…………、…………はあ?」
ん? あ、あれ?
「私が嫉妬? ……え、いや、何に?」
心底わけがわからないとばかりに首を傾げる鉄輪。それはとぼけているのではなく、本当にわからないから取る行動のようだった。
「何にって……えっと」
煽った本人である鍵山さんですら戸惑っている。
「いいか? 友達がいるならきっと、そっちを優先した方がいいんだって。妙にそいつに懐いてるみたいだけど、感謝の熱が冷めればその内この時間を後悔することになる。しかも鍵山、アンタにはゆうちゃんがいるんだろ?」
「うぇ、ええぇ? 唐突な正論の嵐、ちょっとウチじゃさばけないっす……先輩、パス」
「え、ここで僕に振るの? え?」
鍵山さんは脱兎の如く逃げ出し、教室には何事かと振り返る数人の生徒と鉄輪、そして僕だけが残った。
「……鉄輪。ちょっとでも期待した僕が不甲斐ないから、殴ってくれない?」
「よし任せろ」
「もちろん冗だ――へ」
思い切り殴られた。
◆
俺、鏡兄亮は、不審なものを見た。
教室の外から、その中を覗いている女子生徒だ。見れば一年生のようだが、ここは二年生の階層である。
中の誰かに用でもあるのだろうか。
「……ああ、ここ鉄輪のクラスか」
鉄輪とは、見目麗しく、大変可愛らしい性格をした少女。その容姿、性格で俺を虜にし、今では捻じ曲がった愛を捧げるほどにまでになった。
数々の盗撮写真は、一部を除いて全て鏡が管理している。一時的な保管場所として部室棟を使う場合もあるが、そのほとんどはデータ、そして現像された写真として家にある。
いやまあ、そんなことはどうでもいい。
「なあ、中の誰かに用があるのか?」
女子生徒は声をかけられたことに驚いたのか、肩を跳ね後ずさりながら俺を見る。
「驚かせてごめん。でもなんか、立ちっぱなしってのが妙に目立って。中に入るのが気まずいってんなら、俺が呼んで来るよ?」
「……いえぇ、そういうのでは、ないのでぇ」
言って、女子生徒は去っていった。
なんだったのだろう。憧れの先輩を眺めていた、という雰囲気でもなかった。むしろ、殺意さえ抱いていたような。
中を覗く。
どこもかしこも、数人ずつ仲のいい人で固まりグループができている。そのうちの一つはグループが八人ほどの一番規模が大きいもの。きっとこのクラスのカーストトップだ。
それとは逆に、教室の隅でひっそりと、しかし確実に盛り上がっている三人のグループがある。
そこには鉄輪がいた。
「相変わらず可愛いなちくしょうめ! ……で、一緒にいる二人はなんだ?」
鉄輪はあまり友達付き合いがない。親友と呼べる人間が一人だけいるが、彼らはその人物とは違う。
一人は肩で切り揃えた髪を揺らす、どことなく天然で、大雑把な雰囲気を漂わせる一年生女子。笑顔が印象的な子だ。
もう一人は……なんて言えば良いのだろうか。すごく無個性で、しかし妙に鼻につく、そんな男子生徒。やけに鉄輪に話しかけ、それに対し鉄輪は多彩な表情を見せる。
――ムカつく。
「なんでそこにお前がいるんだ……本当なら俺がいるはずの場所に、どうして……!」
ぎりり、と音がなるほど歯を噛み締め、怨嗟の視線を向ける。
鉄輪を笑わせるのも、楽しませるのも、膨れ面にさせるのも、顔を赤くさせるのも、――泣かせるのも。
それは、俺がするべきことで、しなければいけないことなのに。
なんで他人であるお前が……!
「……ああ、そろそろチャイムが鳴る」
教室に戻らねば。
顔は覚えた。名前は後で調べよう。
いつの日か、その場所に俺が立つ。
◆
5月X日
楽しい、嬉しい。嘘だとしても、こんなにも笑えるのは久しぶりだ。
――そうだよね、ゆぅちゃんはいつもいつも、苦しそうな顔してた。
いつも何かに縛られているようで、彼女の前ではこうでなくてはいけないって自分を責めて。そんな日々が嫌になって、仮面を投げ捨てた。
新たに被った仮面は、自分ではなく、ゆうちゃんを笑わせるための〈道化〉の仮面。
どうすれば笑ってくれるのだろう。どうすれば赦してくれるのだろう。
いつかその方法を知った時、本当の友達に、そしてそれ以上になれる気がする。
――やだなぁ。もう友達だし、それ以上にだってすぐになれるよ。だってあたしは、こんなにもあなたのことが好きなんだから。
――あなたの顔が、仕草が、笑顔が、身体が、髪の毛が、目玉が、唾液が、指が、吸い付いたら愛おしく絡みついてきそうなその舌が、全てが。
――でも一番好きなのは、あなたのあの表情。
――あたしが笑って、そして赦すための方法? そんなの簡単だよ。
――あたしの前で、泣いて媚びへつらって頭を下げて。
◆
誰かに追けられている。
……いよいよ来たか。
「鉄輪、少し走るけど良い?」
「良いけど……あの子、アレでよくバレてないって思えるな」
せーの、で二人して走り出す。
背後の足音も、一瞬送れて加速する。これで僕らを追っているのは間違いない。
夕方、ほとんどの生徒が帰路につき、残る生徒は部活で精を出す時間帯。
校門付近から感じていた視線は、最早隠すことなく僕らを追い立てる。
「鉄輪! こっちだ!」
がしゃがしゃと一気に柵を登り、その上から鉄輪を引き上げる。「あ、無理」柵に足をかけられずずるずると滑る鉄輪を「何やってんだよ……!」と無理やり引き上げ、再度学校の敷地内に入り、追っ手を撒こうと走る。
「あ、ちょ、待って」
鉄輪、きみ結構運動神経悪いな。
すぐに息を切らし、足場の悪いことこの上無しという道を走る。湿気のせいか、妙に暑い。制服の下は汗が染み出し、張り付いて気持ち悪い。
追っ手の足音はまだ聞こえている。
「鉄輪、どっちだっけ!?」
「えっと……たぶんこのまま真っ直ぐで――」
「見えた!」
僕らが目指していた建物を視界に収め、さらに足を回転させる。
鍵がかかっていないことは確認済みだ。扉を開け、建物の中に入る。
――そして、
「……入ってこないな」
きっと躊躇しているのだろう。わざわざ逃げてまでここに来たのだ。ここには何かがある、と聡明な彼女ならば考えているはずだ。
「だけど、それでも入って来ざるを得ない」
僕の手の中にこれがある限り、危険を冒してでも彼女は取り返しに来るはずだ。
なぜならこれは、彼女の仮面を剥ぐための切り札だから。
これを拾ったのは、昨日のことだ。
「ん、なんだこれ」
トイレに行こうと教室を出てすぐの場所に、それは落ちていた。
誰かの落し物だろうか。名前も書いていないし、誰のものであるかの判別がつかない。
だから僕は中身を見た。そして――これは、あの子のものだと確信する。
「すぐそこにいるんだろ!? これを返して欲しければ、自分から一歩踏み出せ! 扉を開けて中に入ってくるんだ!!」
◆
ああ、なんて腹が立つ言葉なのだろうか。
自分から一歩踏み出せ? ああ、ああ、そうだ。それこそは自分が幼い頃、得意としたことだった。
だが今の自分はどうだ。踏み出すのが怖くて、ゆぅちゃんの影に隠れてみっともない姿を晒す気弱な女子に成り下がってしまった。
勇気を出しゆぅちゃんを救ったゆうちゃんはもういない。
今のあたしは、卑怯な女だ。
でも、だからこそゆぅちゃんはあたしの為に変わってくれた。あたしのために無理をしてくれた。それだけで良かった。それが良かった。
なのに、こいつらは。
そんなゆぅちゃんの無理を、否定した。
そんなゆぅちゃんの素顔を、認めた。
それをしていいのはあたしだけだ、お前たちじゃない。誰に何の許可を取ってどんな権利があってそんなことをする。
何より、拾っただけのそれを餌にするなんて許せるはずがない。どうせ人間味のないあの男のことだ。デリカシーだとかプライベートの侵害だとかそういうことを気にせず、堂々と中身を見たのだろう。
ゆぅちゃんからゆうちゃんに向けられた感情の渦を綴った、『日記』を。
「…………っ!」
歯が欠ける音がした。これほどまでに怒りを、殺意を抱いたのは久しぶりだ。
ああ、もう良いではないか。それを解放するだけで楽になれる。
こいつらを、殺してしまおう。
きっとそれで気持ちよくなれるのは一瞬だけだ。すぐに罪を犯したことを理解し、これからはゆぅちゃんと一緒でいられなくなる。それはとても辛くて、悲しくて、寂しいことだ。
だとしても、こいつらを許したくない。裁かねばならない。
あたしが罪を犯してでも、この悪党どもを裁かねばならない。
一つ、深呼吸をする。
そしてあたしは、扉に手をかけた。
扉を開けた先には、真面目くさった表情を浮かべるあの男と、そして鉄輪先輩がいた。
いや、それよりも目を引くのは、数々の絵だ。首から上がなく胴体だけのものがほとんどの中、ところどころに首から上が描かれている絵がある。決まってそれらは、仮面を被っていたが。
異質だ。この空間は、外の世界とは違うところにある。
こんな世界が現実にあっていいはずがない。気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い!
駄目だ、ここにいてはいけない。頭がおかしくなりそうだ。
踵を返し、外に出ようとして、
「逃げるの?」
そんな声を聞いた。
「逃げるの? この空間から。……逃げられるなら、どれだけ楽なことか。だよな、逃げるのって楽だもんな。悪い、責めるようなこと言っちまった。ほら、逃げるなら逃げていいよ? 帰り道迷っても、ちょっと責任は取れないけど」
帰り道ならば問題ない。一度だけ、ここに来たことがあるから。
その時は教師の邪魔が入り中に入ることはできなかったが、まさかこんな世界が広がっていようとは。あの時、中に入れなくて良かった。
……問題はそこではない。
彼女が、鉄輪の言葉が、全てが癪に障る。
「何が、言いたいんですかぁ……!?」
怨嗟の篭った視線を刺す。特に気にした様子もなく振舞っているが、それがまたあたしの琴線に触れてしまう。
「何が、何が言いたいって聞いてるんです……ぅ! 答えたらどうなんですかぁ……? こんなところにあたしを誘い出して、いったい何がしたいんですかぁ――!!」
「……きみなら、落としたこれを探しに来ると思った」
そう言って彼が取り出したのは『ゆぅちゃんの想いを綴った日記』。彼女があたしへ向ける感情の羅列。
そうだ、あたしはそれを探してここまで来たのだ。
「ここに誘い込んで何がしたいかって?」
背後に隠してあったのだろう、彼が一歩横にズレることで現れた、布を被せられたキャンバス。
その布に手をかけ、
「きみの仮面を剥いで、事件の結末を見たいんだ」
一気に剥いだ。
その下にあったのは、仮面を被った少女。
気弱な表情に見える、哀れを装った〈化道〉の仮面を被った――
「そろそろ終わりにしよう。この事件も、鍵山さんとの歪な関係も。自分自身に、嘘をつくのも。ねえ――――眞鍋さん」
――あたし、眞鍋美優の姿だった。