010.
私は、彼女の顔に〈道化〉の仮面を見た。
酷く醜悪に歪められた笑顔の化粧。ゆうちゃんという女の子の前で、彼女は相反する二つの感情を押し隠すために、必死に笑顔を演じていた。
たった一人、初めて自分の可愛い顔を好きだと言ってくれたから。
殺したくなるほどに膨れ上がった憎悪を、抱きしめたくなるほどに膨れ上がった愛情で抑えて、
犯したくなるほどに膨れ上がった愛情を、口汚く罵りたくなるほどに膨れ上がった憎悪で抑えて。
……正直、よくわからない。
女性同士、という恋愛に理解がないわけではない。そういう人間は、この世界にはいくらでもいる。
私がわからないのは、どうしてそんなことで惚れてしまったのか。その一点に尽きる。
自分の可愛い顔を好きだと言ってくれたから? ――それだけで、憎く想っていた相手を好きになれるだろうか。
いいや、きっと。
彼女が好きになった相手もまた、酷く歪んでいるからだ。
歪んだ愛を向けられた。その愛に憎悪が重なり、自らもまた愛情を抱いたと勘違いしてしまった。
彼女が被っているのは〈道化〉の仮面。
二つの感情を押し隠すための仮面ではない。
彼女は、
「なあ、鍵山。アンタが被ってる仮面の正体、当ててやろうか」
……彼女は、
「――そのゆうちゃんって奴、本当は好きでもなんでもないんだろ」
〈ゆうちゃんという人間を愛する自分〉――それこそが、〈道化〉の正体だ。
◆
「――――は?」
何を言ってるんだこいつは。
ああ、見覚えがある。僕の周囲の人間だけではない、自らの理解を超えた言葉を投げかけられた時、不意の衝撃から、人間は誰しもがこういった表情になる。
鍵山さんは、つらつらと〝ゆうちゃん〟への歪な愛を語った。しかし、鍵山はそれこそが〈道化〉の嘘だと言う。
「殺したいほどに愛してる。愛したいほどに殺してる。……おかしいけど、おかしなことだとは思わないよ。それが本物なら、ね」
「何を……何を、何を何を!」
必死に声を張り上げるのは、思い当たる節があるからか。
鉄輪は語り続ける。
「唐突だけど、私の身の上話でも聞いてくれよ。――私の眼はさ、私の見たく無いモノを映す。人間の醜さだよ。普段、どれだけ善良な一人の人間を演じていたって、その下には残忍な外道がいる。それが私にはわかっちゃう。……鍵山、アンタの外道は、笑ってるよ」
……僕には、鍵山さんは涙を流しているようにしか見えない。
だがきっと、鉄輪は別の世界を覗いている。
「人形だろうと、それにゆうちゃんを重ねて何度も殺して。それをアンタは愉しんでる。悦んでる。人間の外道って、その人間の本質が強く出るわけだけど……笑っている。それがアンタの本性だ。アンタの言う愛情なんていうのは、殺したくない――自分が罪を犯したくない、という言い訳だ。そんな理性から始まる愛に、本物なんてない」
「そんなわけが……こんなにも好きなのに、殺したいのに! それが偽物なんて、そんなわけ――」
僕はたぶん、本物の愛情というのを知らない。
鉄輪への告白は、おそらく人生で初めての告白だった。しかしアレは、『周囲から出遅れた』、『周囲と同じでありたい』という理性から発生した行動。
もしかしたら、彼女はそれをこそ嫌ったのかもしれない。
告白されるなら、真実の愛を携えて。
……なんて乙女チックな。
でもさ、鉄輪。きっと、この世にそんな純愛はもう、存在していないんだと思う。
「いいや、偽も――」
「鉄輪、ストップ」
「あ?」
白熱する両者の間に割って入り、僕は、僕の持論を展開する。
「偽物でもいいんじゃないかな」
「……は?」
「……は?」
二人の視線を一身に受け、思わずたじろいでしまう。
ええい、ここで引いたら負けだ。
「ちょっと歪だけど……鍵山さんの愛情は、現代においては真っ当だと思う。誰もが理由をつけて好きになって、ちょっと喧嘩すればすぐ別れる。そんな薄っぺらい愛だ恋だこそが、今で言う『恋愛』なんだって」
ならば、鍵山さんが抱いている感情が真実の愛でなくたっていいではないか。
「鍵山さん、ゆうちゃんのことは好き?」
「……っす」
「たとえ何があったって、自分よりも優先できるくらいに?」
「……それは、無理っす。きっとウチは、何よりもまず、自分のことを優先する」
だからこそ、人形を隠したり、殺人衝動を人形にぶつけたり。
自分がしたいことを我慢しないで、それを隠して。
「それでいいんじゃないかな」
〝普通〟ではないかもしれない。けれど『普通』だ。
自分よりも他者を優先できる人間は、この世界においては『異常』なのだ。
「ただまあ、その暴力癖だけはなんとかした方がいいかもね。愛情それ自体で捕まることはないけど、人間を傷つければその手に錠を嵌められちゃう」
いつの間にやら、ストッキングを振り下ろす彼女の手は止まっていた。
そして、
「――ははっ、はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!!!!!」
鍵山さんが、大声で笑った。
「馬鹿なんじゃないっすか? ウチの愛情を認めてくれたのは感謝するっすよ、ええ、大いに! でも、殺したいっていうこの感情だけはどうやったって抑えられない。段々っすね、人形だけじゃ満足できなくなってきたんすよ! 本物のゆうちゃんを手にかけたい、殺したい。それこそこの衝動に理由はない! 最初は理由があって憎かった、けれど今はそんな理由すらどこかへ行っちゃったっすよ! あははは! 先輩はこれでもウチのことを普通だって言うんすか? 理由もなく人を殺したがるウチが! 真っ当な人間だって!」
――ああ。
「そんなわけないでしょう! ウチはどこまでも歪んでいて、愛だなんて感情を作り出して、ゆうちゃんの隣にいる自分を正当化している。……いつ殺してしまうかもわからない感情を愛情で抑えて、人形にぶつけて、そんな人間が、『普通』なわけ――」
――――ああ。
「もう、いい加減仮面を被るのはやめろよ」
これが、鉄輪の見ている世界か。
彼女の言葉こそが仮面となり、僕の耳からするりと入り込んでくる。
彼女が被る仮面は〈道化〉――自分はおかしいのだと偽り、相反する二つの感情が同時に存在するのはおかしいのだと偽り、そのおかしな自分こそが、己の外道なのだと偽り。
本当は、ただ一人の女の子。
『普通』に恋する、女の子。
それこそが、仮面の下にある彼女の素顔。
自分はおかしいのだという自覚、理性から発生した〈道化〉の仮面が剥がれ落ちていくのが見える。
「――――うそ」
鉄輪の仮面を映す瞳でも、見誤ることがあるのだろうか。
「普通を演じる〈道化〉、異常を演じる〈道化〉――そしてようやく、彼女の素顔に辿り着く」
鍵山さんは、二枚の仮面を被っていた。
「……普通なわけ、ないじゃないっすか」
今度こそ本物の涙を流し、鍵山さんは泣く。
暴かれたくない、見られたくない素顔を徹底的に暴かれ、涙する。
だが同時に、笑っているようにも見えた。これは、気持ちの悪い僕の中の妄想。
――――ありがとう。
そう言っているような気がして。
頬の傷が、月明かりに照らされ白く浮かび上がった。
◆
5月X日
感情の波が聞こえなくなった。今まであんなにもささくれ立っていた感情の渦が、今では嘘のように静まり返っている。
暴かれた。仮面の下にある素顔を、とことんまで暴かれた。
許せない、許せない許せない許せない。
誰もここまでしてくれだなんて言っていない。なんてことをしてくれた、なんてことをしてくれた!
もう駄目だ。我慢できない。
異常を見せつければ勝手に手を引くと思った。ただここにいる、とだけ伝えれば、あとはどうとでもなる。そしてそれを見つけたのは、鉄輪たちだ。
だが実際はどうなった。彼らは見つけただけではなく、心に踏み込んでしまった。荒らしてしまった。それだけでは飽き足らず、認めてしまった。
それをしていいのはこの世界でたった一人、あたしだけなのに。
さらさら、さらさら。そよそよ、そよそよ。
荒れ狂っていた感情が、まるで草原に吹く風のように。
こんなものは求めていない。こんなものは彼女じゃない!!
返せ、返せ返せ返せ!
――――あたしのゆぅちゃんを、返せ!!
◆
「い、嫌だ、ここから出たくない……出たら、ゆうちゃんが!」
鍵山さんを家まで送ろうと提案すると、そうして取り乱す。
だが、
「大丈夫。僕らがいるから。少なくとも、僕らがきみを連れ出す分には、何もしてこない」
鍵山さんを見つけ出し、家まで送る。
それこそが、鍵山さんをここに閉じ込めた犯人の目的なのだろうから。
鍵山さんを探す過程で、僕は一つだけ勘違いしていた。
死体――人形だったが――を隠した人物と、鍵山さんを隠した人物は別人だということ。
人形を隠したのは当然鍵山さんだ。だがその鍵山さんを隠したのは?
怯える鍵山さんをどうにか宥め、家まで送っていく。両親は涙するほどに喜び、何度もありがとう、ありがとうと言ってくれた。
「鉄輪、この親子の愛も、偽物なのかな」
「……さあね」
鍵山邸を後にし、再度鍵山さんが閉じ込められていた家に戻ってきた。
インターホンがかけられたのとは反対側にある表札。
おそらく、この苗字が犯人のもの。
彼女を隠した犯人は――、
◆
道化は言いました。あなたの笑顔は素敵だと。
だから笑っておくれ。道化はさまざまな芸を披露し、彼女の心に笑顔の花を咲かせようとします。
しかし、彼女は頑なに笑おうとはしませんでした。
それからも何度でも、道化は彼女を笑わせるために手間を惜しみませんでした。努力を惜しみませんでした。
そして、ふと思うのです。
なぜ自分は、ここまでするのだろう。
その疑問にぶち当たった途端、道化は何もできなくなりました。
面白おかしい話をすることはおろか、何年もかけて身につけた芸ですら、道化はできなくなっていたのです。
これでは駄目だ。彼女を笑わせられる唯一の手段なのに、これを失っては、存在意義がなくなってしまう。
道化は焦りました。どうすればいい。
もう一度、できるようになるまで、と芸を練習しました。しかし結果は芳しくありません。
もう一度、できるようになるまで、と面白い話を考えました。しかし結果は芳しくありません。
前にも増してつまらないのでしょう。彼女はより不機嫌に、仏頂面を浮かべ続けます。
このままではいけない。どうにかしなければ。でもどうすればいい?
できていたはずのことができず、選択肢が消えた。心の隅がもやもやする。
笑わせたい、笑わせたい。彼女を、心の底から笑わせたい。
なのに、今の自分はつまらない。
つまらない、面白くない道化に価値はありません。次第に道化は、化粧を落としていきます。
赤い花、腫れ上がった唇。目元の派手な意匠、滑稽な髪。
それらを全て落とし、素顔を晒し出しました。
そして、ようやく道化は理解しました。ずっと抱いてきた気持ちを、心の隅のもやもやを。
彼女を笑わせる魔法の言葉。それはずっと、道化の心の中にあったのです。
◆
「あたしが好きだから。……あなたの顔、あたしは、好きだから」
「――その言葉を告げた道化は、またしても仮面を被りました。この感情を秘めるために、道化を演じるために」
真っ白だったキャンバスに浮かび上がる白黒の濃淡。
そこにあったのは、〈道化〉の仮面を被った少女。しかし、彼女が覆い隠す素顔は、もう一人の〈道化〉とは正反対のもの。
「鍵山さんの〈道化〉に気付きながら、あえて知らないフリをしてきた――どこまでも純粋な、愛の持ち主」
偽物の愛と、本物の愛。
――まだ、終わっていない。
〈ロエピ=化道〉の話は、終わっていない。
次章〈ロエピ=化道〉
ほんの遊び心です。あまり長くはならないと思います。