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優歩は毎晩、青年の歌を聴きにあの場所へ足を運んだ。優歩が泣いたお気に入りの歌は優歩が来るまで歌わずにいてくれる青年に、優歩は感謝した。
「俺の初のお客さんが好きだって言ってくれた曲だから」
自分だけが〝特別〟な気がして優歩は嬉しくなった。青年と会話している時や、青年が唄っている途中にちらりと目を合わせてくれる瞬間にだけ、優歩は自分が別人になっているような錯覚に陥った。
それに、青年は優歩に何も尋ねなかった。青年も自分のことを話さなかった。顔馴染になり、今日も来てくれてありがとうと短い会話を交わすだけ。親以外の人と話をすることが久々だった優歩にはそれだけで充分な会話だった。
そうしていたある日、青年が優歩の名を尋ねた。
「俺は零っていうんだ。あ、オバケの方じゃないからな。きみの名前は?」
「あたしは……」優歩は言い淀んだ。だが、零を見つめて答える。「あたしは優歩っていいます」
「ゆーふぉー?」
「ゆ・う・ほ」
「……空飛ばないの?」
「飛ばない」
零があははは、と笑い、優歩を見て言った。
「変わった名前だね」
優歩はうつむいた。物心ついた時からずっとそう言われてきた。変わった名前だと、自分でも思う。
うつむいた優歩の表情を見ずに、零は目を閉じて続けた。
「でも、綺麗な名前だ」
え、と顔を上げる優歩の耳に、零が歌う大好きな曲が届いた。何度耳にしても涙が出るくらい良い曲だ。自分を励ますための応援曲なのだと、零は教えてくれたことがある。
零はまだ歌い始めたばかりで、誰も足を止めなくても歌いたい、自分の作った歌が誰に届くのか、届かないのか、試してみたいのだと優歩に話してくれた。足を止めて聴いてくれる人は少ないと零は笑っていたが、ひとりでも聴く人がいると違うのか、日によって変動はあるものの、立ち止まる人も当初よりは増え、拍手も零と話す人も増えた。
「……どうしてあたしの名前が綺麗だなんて思うの?」
優歩は歌い終わった零にぱちぱちと拍手を送りながら気になって尋ねた。零はペットボトルのお茶を飲みながら答える。
「親が子どものこと考えてつける名前には何かしら意味があるんだよ。で、ユウホの名前は凄く響きが良いじゃん」
優歩はかぶりを振る。夏の夜の湿気を含んで少し膨らんでいる下ろしっぱなしの髪が、優歩の顔の横で揺れる。
「あたしは……あたしの名前、嫌い。もっと可愛い名前が良かった」
そうすれば、誰にでも愛されたかもしれない――。
「へぇ。ユウホは名前の意味、考えないんだ?」
「……」
零が何やら自分の荷物を探り、財布からレシートを取り出してこれで良いものかと悩むように少し思案してから、何かを書いて優歩に渡した。優歩が覗き込んだレシートの裏にはメールアドレスが書いてあった。
「俺の連絡先。ユウホくらいの歳の子ならラインやってるんだろうけど、ラインはよく解んないからやってないんだ。何でも良いから気が向いたら連絡頂戴」
そう言って零は楽器を片付けて立ち上がる。今日は人通りも少なく、続けてもお客さんは来ないと判断したのだろう。
「時間は」優歩に背を向け、歩き出しながら零が言う。「余ってるんだろ。いつでも良いから、とりあえず頂戴」
そう言って夜の街の人通りが多い方へ消える零の姿を見送って、優歩はしばらくその場から動けずにいた。
レシートに書かれた零の連絡先を持つ手が震える。連絡をするよう言われてから優歩の頭の中でぐるぐると回っている言葉はひとつ。
メールを送れば、返してくれるの? シカトしたり、しない?
零の姿が人混みに消えても、優歩はしばらく動けずにいた。