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八歳公主、宮廷の陰謀を蹴散らします

作者: momotarou
掲載日:2026/05/07

みなさまのおかげで、[日間]歴史〔文芸〕 - 短編 1位になっていましたので、

意味のおかしかった所を直しました。

読んでいただき、ありがとうございます。

「公主様! お待ちください!」


「やだ!」


「宮中で走ってはいけません!」


「じゃあ、みなかったことにして!」


「できません!」


「しらない~!」


明珠(めいじゅ)公主は、八歳である。

景宗(けいそう)皇帝の長女であり、第一公主として宮中で知らぬ者はいない、おてんば公主だった。


刺繍はきらい。

琴もきらい。

礼儀作法の時間は、だいたい眠い。


そのかわり、走るのは得意だった。

屋根に登るのも得意だった。

御膳房(ごぜんぼう)にこっそり入るのも得意だった。


そして、薬草園で草のにおいを覚えるのも好きだった。


「公主様! そちらは薬草園です!」


「しってる!」


「入る時は老師の許しを得てからと、陛下が!」


「ろうしなら、たぶんゆるす!」


「たぶんでは困ります!」


「じゃあ、あとできく!」


「先に聞いてくださいませ!」


明珠は小さな体で庭石を飛び越え、薬草園へ駆け込んだ。

薬草園は、宮中の奥にある小さな庭だった。


薬になる草。

毒になる草。

香りのよい花。

触るとかぶれる葉。


老医官が大切に育てている草が、きちんと並んでいる。

明珠は、その中をちょこちょこと歩いた。


「これは、ねむくなる草」


「公主様、勝手に触ってはいけません!」


「これは、おなかいたいのなおす草」


「聞いておりますか?」


「これは、にがいやつ」


「公主様!」


明珠はしゃがみ込んだ。

そして、眉を寄せた。


「……へん」


「何がですか」


「ここ」


明珠は、小さな指で土を指した。

そこだけ、ぽっかり穴が空いている。


何かが抜かれたあとだった。

女官(にょかん)は首をかしげた。


「草が一本ないだけでは?」


「一本じゃない。三本」


「よく分かりますね」


「だって、ここ、せんやそうのところ」


女官の顔が青くなった。

千夜草。

少しなら眠り薬。

多ければ命を奪う毒草。

老医官が、厳重に管理している草だった。


「公主様……まさか、抜いてませんよね?」


明珠はむっとした。


「ぬいてない!」


「本当に?」


「ほんと! わたし、どく草はぬかないもん!」


「では、誰が……」


そこへ、白い髭の老医官がやって来た。


「公主様。薬草園で何をなさっておいでですかな」


「ろうし! たいへん!」


「また何か食べましたか」


「たべてない!」


「では、何を壊しましたか」


「こわしてない! たぶん!」


「たぶんとは何です」


「そんなことより、せんやそうがない!」


老医官の顔つきが変わった。

彼はすぐに土の前へ膝をつき、指で穴の深さを確かめた。


「……確かに、抜かれておりますな」


「わたしじゃないよ!」


「分かっております」


「ほんと?」


「公主様が抜く時は、もっと土を散らかします」


「ろうし、しつれい!」


女官が小さく吹き出した。

老医官は、穴のそばに落ちていた小さな葉を拾い上げた。


「千夜草の葉ですな。抜いた者が落としていったのでしょう」


明珠は、その葉に顔を近づけた。


「にがいにおい」


「公主様、むやみに嗅いではなりませぬ」


「ちょっとだけ!」


老医官は真剣な顔で立ち上がった。


「これは困りましたな。千夜草は、扱いを誤れば毒になります。乾かして粉にすれば、茶にも溶けます」


「だれがぬいたの?」


「分かりませぬ」


「じゃあ、さがす!」


「おやめください」


「なんで!」


「公主様が探すと、犯人より先に騒ぎが大きくなります」


「むう」


老医官は女官に命じた。


「このことは、陛下にお伝えせねばなりませぬ。だが、まだ騒ぎ立ててはなりません」


「どうして?」


明珠が聞く。


老医官は低い声で言った。


「毒草を盗んだ者が、まだ宮中にいるかもしれぬからです」


明珠は、においを嗅ぐように鼻を動かした。


土のにおい。

薬草のにおい。


その奥に、ほんの少しだけ、苦くて冷たいにおいが残っている。

鉄をなめたようなにおい。

明珠はそれを覚えた。


「このにおい、わすれない」


老医官が明珠を見た。


「公主様」


「なに?」


「もし同じにおいを嗅いだら、すぐに私へ知らせてくだされ」


「うん!」


「勝手に追ってはいけませんぞ」


「うん!」


「本当に?」


「たぶん!」


「公主様」


「……できるだけ」


老医官は深いため息をついた。


その日の昼過ぎ。

宮中はさらに慌ただしくなった。

明日は、重臣たちを集めた大きな宴がある。


景宗皇帝が春の政を決める、大切な宴だ。

景宗皇帝には幼い皇子もいたが、まだ皇太子は定まっていなかった。

王弟である靖王(せいおう)にも、野心を抱く余地があった。


だからこそ、明日の宴はただの宴ではない。

皇帝の力を臣下たちに示し、国の方針をはっきりさせるための場でもあった。


大人たちは明日の準備で忙しく、女官も宦官(かんがん)も走り回っていた。

もちろん、明珠は言われた。


「公主様、今日はお部屋でおとなしくしていてください」


「やだ」


「即答しないでくださいませ」


「だって、つまんない」


「つまらなくてもです」


「じゃあ、薬草園」


「駄目です」


「御膳房」


「もっと駄目です」


「屋根」


「一番駄目です!」


明珠は頬を膨らませた。


「ぜんぶだめ」


「はい」


「大人はずるい」


「公主様が自由すぎるのです」


「じゃあ、ちょっとだけ屋根」


「聞いておりましたか!?」


少し後。


明珠は屋根の上にいた。


「公主様ー!」


下から女官の悲鳴が聞こえる。


「おりてくださいませ!」


「あとで!」


「今です!」


「いまは、かぜをみてる!」


「風は下でも見られます!」


「みえないよ!」


明珠は屋根の上に腹ばいになり、宮中を見下ろした。

高い屋根の上からは、宮中の道がよく見える。


宮中の屋根道は、明珠にとって庭のようなものだった。

どの屋根がどの建物へ続くか。


どの中庭からどの廊下が見えるか。

明珠は、大人たちよりよく知っていた。


御膳房へ向かう宦官。

広間へ花を運ぶ女官。

武官(ぶかん)たちの列。


そして、普段なら通らない裏道を歩く、小柄な宦官が一人。

宦官は、黒い布で包まれた小さな箱を抱えていた。


箱はとても大事そうに抱えられている。

しかも、その宦官は人目を避けるように、柱の影を選んで歩いていた。

明珠は不思議そうに、宦官の動きを見ていた。


「なんで、あんなところを歩いてるの?」


同じ中庭の下から、女官が叫ぶ。


「何がですかー!」


「はこ!」


「箱?」


「こそこそしてる!」


「公主様、今度は何を見つけたのですか!」


明珠は屋根の上を移動した。


「おいかける!」


「屋根の上で追いかけないでください!」


「だいじょうぶ!」


「大丈夫だったことがありません!」


明珠は瓦の上をそろそろ進んだ。


小さな体で猫のように進むのは得意だった。


宦官は廊下の角を曲がり、奥の建物へ入っていく。


そこは、靖王の控えの間に近い場所だった。


靖王(せいおう)。


景宗皇帝の弟で、明珠にとっては叔父にあたる。


いつも穏やかに笑い、たまに甘い菓子をくれる人だった。

明珠は首をかしげた。


「おじうえのところ?」


その時、宦官が少しだけ布をずらした。

中の箱が見えた。

赤い漆塗りの箱。

金の金具。


父の机の上に置かれている、皇帝の印を入れる箱に似ていた。


「……父上の、はんこのはこに似てる」


明珠は屋根の上で固まった。

もちろん、八歳の明珠は政治のことなどよく分からない。


けれど、皇帝の印がとても大切なものだということは知っている。

父が言っていた。


「これは軽々しく触れてよいものではない」


とても大切な命令を出す時に使うものだ、と。

そして、それを押した紙は、皇帝の命令として扱われるのだ、と。


なぜ、それに似た箱が、靖王の近くへ運ばれているのか。

明珠が考えていると、足元の瓦がかたりと鳴った。


宦官がはっと上を見た。

明珠はあわてて屋根にぺたりと伏せた。


「だれだ?」


宦官の声がする。

明珠は息を止めた。

下から女官の声が近づいてくる。


「公主様ー! どこですかー!」


明珠は小声でつぶやいた。


「いまは、よばないで……」


だが女官の声は近づいてくる。


「公主様ー!」


宦官は周囲を見回したあと、足早に去っていった。

明珠はほっと息を吐いた。


そして、低い庇から庭木へ移り、地面に降りた。

女官が駆け寄ってくる。


「公主様! もう! もう!」


「もう、が多い」


「それくらい言わせてくださいませ!」


「ねえ」


「はい?」


「父上のはんこって、どこにあるの?」


女官の顔が固まった。


「なぜそのようなことを」


「はこを見たの」


「箱?」


「あかくて、きんぴかで、えらそうなはこ」


「……公主様」


女官の声が低くなった。


「それは、どこで?」


「屋根から」


「まず屋根にいたことを叱りたいのですが、今は後にします」


女官は周囲を見回した。


「そのお話、陛下に……」


言いかけた時だった。

遠くで鐘が鳴った。

明

日の宴に向けた、本格的な支度が始まる合図だった。

女官は顔を青くした。


「今から陛下は大臣方とお会いになります。直接お伝えするのは難しいかもしれません」


「じゃあ、ろうし」


「老医官ですか?」


「うん。ろうしなら、こわい顔してくれる」


「確かに、こわい顔は得意でございます」


二人は薬草房へ向かった。

だが、老医官はいなかった。


机の上には、薬草の束と書きかけの紙だけが残っている。

女官が別の医官に尋ねると、老医官は皇帝の診察へ向かったという。

しかし、陛下はすでに大臣方との会見に入っており、まだ直接話すことはできていないらしい。


明珠は唇を噛んだ。

毒草がなくなった。


怪しい宦官が箱を運んでいた。

父の印を入れる箱に似ていた。


そして明日は、大きな宴。

明珠の胸が、どきどきした。


いつものいたずらを思いついた時のどきどきではない。

もっと冷たくて、嫌なものだった。

女官が明珠の肩に手を置く。


「公主様。今日はお部屋に戻りましょう。老医官が戻りましたら、必ず話を通します」


「でも」


「今、公主様が騒げば、かえって相手に気づかれるかもしれません」


明珠はむうっとした。


「わたし、子どもだから?」


女官は少し困った顔をした。


「子どもだから、ではございません。公主様はよく見ておられます。だからこそ、今は静かにしていただきたいのです」


明珠は黙った。


静かにするのは苦手だった。


待つのも苦手だった。


でも、女官の手が少し震えているのに気づいた。


大人も怖いのだ。


「……わかった」


女官はほっとした。


「では、お部屋へ」


「でも、あしたの宴には行く」


「えっ」


「父上のちかくにいる」


「公主様、それは」


「だめって言っても行く」


女官は額を押さえた。


「言う前から決めないでくださいませ」


「きめた」


その時、女官が別の医官に呼ばれ、少しだけ背を向けた。

明珠は薬草房の棚を見上げた。


そこには、老医官が薬の毒を調べる時に使う、小さな発色粉の包みが置かれている。

明珠は背伸びをして、それを一つだけ取った。

それから、薬草園で拾った小さな葉も、布に包んで袖へ入れた。


本当は勝手に持ち出してはいけない。

でも、あとで怒られればいい。

父が死ぬより、ずっといい。


明珠はまっすぐ前を見た。

千夜草のにおい。

怪しい宦官。

赤い箱。

靖王の控えの間。


全部が、頭の中でぐるぐる回っていた。

何かが起きる。


明珠には難しいことは分からない。

でも、父が危ないことだけは分かった。

だから明珠は、小さな拳を握った。


「父上は、わたしがまもる」


女官は、何も言えなくなった。

その夜、明珠は珍しく早く布団に入った。


いつものように寝坊して、父上のそばに行けなくなったら困るからだ。

枕元には、薬草園で拾った小さな葉を包んだ布。


そして、老医官の棚からこっそり借りた、ほんの少しの発色粉。

明珠は布団の中でつぶやいた。


「父上、まもる」


宮中の夜は静かだった。

けれど、その静けさの奥で、毒のにおいはまだ消えていなかった。


 *


翌朝。

明珠は、いつもより早く起きた。

女官が驚いて、目を丸くする。


「公主様が……ご自分で起きておられる……」


「おきた!」


「雪でも降るのでしょうか」


「ふらないもん!」


明珠は寝台の上で、むん、と胸を張った。

今日は大きな宴の日である。


父である景宗皇帝が、重臣たちを集めて春の政を決める大事な日。

そして、明珠にとっては、父を守る日だった。

女官は明珠の髪を整えながら言った。


「よろしいですか、公主様。今日は走ってはいけません」


「うん!」


「御膳房に入ってはいけません」


「うん!」


「屋根に登ってはいけません」


「うん!」


「本当ですね?」


「たぶん!」


「公主様!」


明珠はぷいっと横を向いた。


「たぶんは、たぶんだもん」


「そこで胸を張らないでくださいませ」


女官は深くため息をついた。


明珠は、袖の中に小さな包みを隠していた。

発色粉である。

もう片方の袖には、昨日拾った千夜草の葉を包んだ布も入っている。


「公主様、何か隠しておられませんか」


「かくしてない」


「では、その袖はなぜふくらんでいるのです」


「ゆめ」


「夢は袖に入りません」


「ちいさいゆめ」


「公主様」


「……ないしょ」


女官は頭を抱えた。

だが、その顔は昨日よりも真剣だった。


女官も分かっていた。

今日は、何かが起きる。


明珠は、まだ小さい。

けれど、その小さな目は、昨日たしかに怪しいものを見ていた。


千夜草が消えたこと。

怪しい宦官が赤い箱を運んでいたこと。


その箱が、皇帝の印を入れる箱に似ていたこと。

女官は小さく息を吐いた。


「公主様」


「なに?」


「今日は、私から離れないでくださいませ」


「うん」


「本当に」


「……できるだけ」


「公主様」


「がんばる!」


それ以上は言っても無駄だと、女官は知っていた。


宴の広間は、朝から慌ただしかった。

重臣たちが集まり、武官たちが並び、文官たちが巻物を抱えて控えている。

春の政を決める大切な宴。


それは、ただ食事をするだけの場ではない。

皇帝が国の方針を示し、臣下たちがそれに従うことを確認する場でもあった。

玉座に座る景宗皇帝は、いつも通り落ち着いて見えた。


けれど、少しだけ咳をしている。

明珠はそれを見て、眉を寄せた。


明珠は皇帝のすぐ脇、女官の隣に座らされていた。

今日は父の近くにいると言い張り、どうしても譲らなかったのである。


「父上、まだこんこんしてる」


「少しだけだ」


皇帝は微笑んだ。


「明珠、今日は大人しくしていられるか」


「うん!」


皇帝は一瞬だけ黙った。


「……今の返事が一番不安だ」


「なんで!」


近くの女官が小さく咳払いをした。


明珠はあわてて姿勢を正す。


「わたし、今日はおとなしいです」


「そうか」


皇帝は嬉しそうに笑った。


「ならば、走らぬように」


「……うん」


「間があったな」


「なかった!」


「今もあった」


明珠は口をとがらせた。


その時、靖王が近づいてきた。


靖王は、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。


「明珠様、今日は立派な公主に見えるな」


「ほんと?」


「本当だ」


「じゃあ、おかしちょうだい」


「褒めたら菓子を要求するのか」


靖王は笑った。

その笑顔は優しかった。


けれど明珠は、昨日見た宦官のことを思い出していた。

黒い布の箱。


靖王の控えの間。

父上のはんこの箱に似た赤い箱。

明珠は、じっと靖王を見た。


「叔父上」


「何かな?」


「あかいはこ、すき?」


靖王の笑みが、ほんの少しだけ止まった。

ほんの一瞬だった。

でも、明珠はしっかり見ていた。


「赤い箱?」


「うん。きんぴかの、えらそうなはこ」


靖王はすぐに笑みを戻した。


「明珠は面白いことを言う。私は箱より、よい茶の方が好きだな」


「ふうん」


明珠は首をかしげた。

その時、宦官が入ってきた。


盆の上には、皇帝の薬膳茶が置かれている。

父の咳を鎮めるための、いつもの茶だった。


明珠の鼻が、ぴくりと動いた。

甘い香。

薬草の香り。


そして、その奥に混じる、苦くて冷たいにおい。

鉄をなめたようなにおい。


明珠は袖の中の布を、そっとにおった。

昨日、薬草園で拾った千夜草の葉。


あの葉と同じにおいが、薬膳茶の奥にある。

明珠の顔から、色が消えた。


「……だめ」


女官が小さく聞き返す。


「公主様?」


「そのおちゃ、だめ」


宦官が皇帝の前に茶器を置く。

皇帝が手を伸ばした。

明珠は叫んだ。


「父上、のんじゃだめ!」


広間の空気が止まった。


皇帝が明珠を見る。


「明珠?」


「そのおちゃ、どく!」


重臣たちがざわめく。


「毒だと?」


「公主様、何を……」


靖王が静かに言った。


「兄上、子供の思い違いでしょう。明珠は昔から、少々元気がよすぎるところがある」


「たわごとじゃない!」


明珠は叫んだ。


「においがする!」


靖王は優しく笑った。


「薬膳茶だ。匂いがあるのは当然だろう」


「ちがう! くすりのにおいじゃない!」


皇帝は茶器を見下ろした。

その手が、まだ茶器に触れていないのを見て、明珠は少しだけほっとした。

けれど宦官が言った。


「陛下、茶が冷めます」


明珠の中で、何かがはじけた。


「だめ!」


明珠は席から飛び出した。

皇帝のすぐ脇にいたから、茶器まではほんの数歩だった。


「公主様!」


女官が叫びかける。


「動いてはなりません!」


「いまはいいの!」


明珠のただならぬ声に、女官ははっと息を呑んだ。


そしてすぐ、広間の入口近くに控えていた侍女へ目配せした。

侍女はうなずき、老医官を呼ぶために広間の外へ駆け出した。


明珠は皇帝の前へ飛び出し、茶器を叩き落とした。

ぱしん、と高い音がした。


茶器が割れ、薬膳茶が白い床にこぼれる。

広間が、凍りついた。


「明珠」


皇帝の声が低くなる。

明珠は肩を震わせた。


怖い。

でも、ここで止まったらだめだ。


「どくなの」


明珠は袖から小さな包みを取り出した。


「これで、わかる」


老医官の発色粉。

明珠はそれを、床にこぼれた茶へ振りかけた。


一瞬、何も起きなかった。

重臣たちが息を呑む。


靖王の顔から血の気が引いていく。

次の瞬間。


茶の跡が、じわりと紫に染まった。

広間に悲鳴が上がった。


「紫だ!」


「毒草だ!」


「医官を呼べ!」


そこへ、老医官が駆け込んできた。


「陛下!」


老医官は床に膝をつき、紫に染まった茶の跡を確かめる。


その顔が険しくなった。


「千夜草です。量から見て、陛下が飲めば命に関わりました」


皇帝の顔が、静かに変わった。

明珠は小さく息を吐いた。


間に合った。

父は生きている。


だが、まだ終わっていない。

明珠は、茶を運んだ宦官を見た。


昨日見た、小柄な宦官。

そして、今も袖口にうっすらと白い粉がついている。


「その人」


明珠は指をさした。

「そでに、同じにおい」


宦官は真っ青になった。


「違います! 私は何もしておりません!」


「じゃあ、そで、だして」


「なぜ私が、子供の言うことなど!」


明珠はじっと見た。


「こわいの?」


宦官は後ずさった。

皇帝が短く命じる。


「袖を出せ」


護衛が宦官の腕をつかむ。

老医官は水を含ませた布で袖口を湿らせ、発色粉を振りかけた。

袖口が紫に染まる。


「ひっ……!」


宦官は、その場に崩れ落ちた。

皇帝の声が響く。


「誰の命だ」


宦官は震えていた。

口を開かない。


だが、その目が、一瞬だけ靖王へ向いた。

明珠は見逃さなかった。


「叔父上を見た」


靖王の顔から、笑みが消えた。


「明珠。子供が余計なことを言うものではない」


その声は、いつもの優しい声ではなかった。

明珠の背筋が冷たくなる。


怖い。

でも、父の方が大事だ。


「こわいけど……言う」


明珠は、皇帝の衣の袖をぎゅっと握った。


「昨日、見たの。あの人、赤いはこを持ってた」


広間がざわめく。

皇帝が明珠を見る。


「赤い箱?」


「うん。あかくて、きんぴかで、えらそうなはこ。父上のはんこのはこに似てた」


重臣たちの顔色が変わった。

皇帝の印が押された詔書は、皇帝の命令として扱われる。

もし偽の詔書が出されれば、宮廷は大きく乱れる。


「どこへ運ばれていた」


皇帝が尋ねる。

明珠は靖王を見た。


「おじうえのところ」


靖王が声を荒げた。

「馬鹿な! 八歳の子供の言葉で、王弟を疑うのですか」


広間が静まり返った。

重臣たちも、息を殺して皇帝を見ている。

皇帝は、ゆっくりと靖王を見た。


「靖王」


「兄上」


「今、その八歳の子供の鼻が、私の命を救った」


靖王の眉が動く。

皇帝は続けた。


「八歳の子供の目を、私はお前より信じる」


明珠は、父を見上げた。

胸の奥が熱くなった。

皇帝は命じた。


「靖王の控えの間を調べよ」


護衛たちが動く。

靖王は一歩下がった。


「兄上! これは侮辱です!」


「侮辱かどうかは、調べれば分かる」


「王弟である私を、子供の戯言で疑うとは!」


皇帝の声が低くなった。


「その子供を戯言と笑った者が、先ほど毒茶を飲ませようとした」


靖王は口を閉じた。

しばらくして、護衛が戻ってきた。


その手には、赤い漆塗りの箱があった。


「陛下。靖王殿下の控えの間より、こちらを見つけました」


箱の中には、皇帝の印が押された偽の詔書が入っていた。

老臣がそれを開き、声を震わせる。


「これは……陛下が靖王殿下へ帝位を譲るという内容です」


「私はそのような命令を出していない」


皇帝の声が冷たくなった。

老臣は詔書の末尾を見て、さらに顔色を失った。


「陛下……この印影は、本物の玉璽のものです」


広間が凍りついた。

皇帝はゆっくりと靖王を見た。


「玉璽を一時盗み出し、偽の詔書に押したのだな」


靖王は答えなかった。

その沈黙が、答えだった。


「毒で私を殺し、この偽の詔で玉座を奪うつもりだったか」


靖王は黙っていた。

だが、やがてゆっくり笑った。

もう、穏やかな叔父の笑みではなかった。


「兄上さえいなければ、玉座は私のものだった」


明珠は息を呑んだ。


「叔父上……」


靖王は明珠を見下ろした。


「あと少しだった。お前のような小娘に邪魔されるとはな」


明珠の手が震えた。

皇帝の袖を握る力が強くなる。

皇帝は、その小さな手を上から包んだ。


「玉座のために、兄を殺そうとしたか」


「兄ではない。皇帝です」


靖王の目が暗く光る。


「この国を治める力は、私にこそある」


「毒で奪った玉座に、国は従わぬ」


皇帝の声は低かった。


「民は、お前の野心を満たすためにいるのではない」


靖王は兵に取り押さえられた。

彼は最後まで、明珠を睨んでいた。


明珠は怖かった。

とても怖かった。

けれど、父は生きている。


そのことだけで、明珠は泣きそうになった。

皇帝は膝をつき、明珠と目の高さを合わせた。


「明珠」


「……おこってる?」


皇帝は深く息を吐いた。


「怒っている」


「えっ」


「薬草園に勝手に入り、宮中を走り、屋根に登り、宴の場で茶器を叩き落とした」


「う……」


「老医官の発色粉も勝手に持ち出したな」


明珠は目をそらした。


「ちょっとだけ」


「量の問題ではない」


「あとで、かえす」


「粉は返らぬ」


「むう」


皇帝は、そこでふっと笑った。


「だが」


明珠が顔を上げる。


「今日は、その全部に命を救われた」


明珠の目が、大きく開いた。


「わたし、父上をたすけた?」


「そうだ」


「くにも?」


「そうだ。私が死ねば、靖王が偽の詔で玉座を奪い、王朝は血で染まっていただろう」


明珠は、少しだけ胸を張った。


「じゃあ、えらい?」


「えらい」


「すごく?」


「すごく」


「じゃあ、ごほうび!」


皇帝は嫌な予感がした。


「何が望みだ」


明珠はぱっと顔を輝かせた。


「屋根にのぼっても、おこられない札!」


「却下だ」


「はやい!」


「早く却下せねば、通りそうだからだ」


「じゃあ、御膳房にはいっていい札!」


「却下だ」


「父上、けち!」


「けちではない。父だ」


「けち父上」


「明珠」


「はい」


明珠はすぐに背筋を伸ばした。

皇帝はため息をついた。


「薬草園への出入りは許す。ただし、老医官の許しを得てからだ」


明珠の顔がぱっと明るくなる。


「ほんと?」


「本当だ」


「御膳房は?」


「駄目だ」


「屋根は?」


「駄目だ」


「ちぇ」


「ちぇ、ではない」


横で老医官が苦笑した。


「公主様。薬草園に来るなら、まず薬草を勝手に抜かぬことから覚えていただきますぞ」


「わかった!」


「本当に?」


「たぶん!」


「たぶんでは困ります」


明珠はにこにこ笑った。

その日、靖王の陰謀は暴かれた。


盗まれた千夜草。

毒入りの薬膳茶。

宦官の袖に残った粉。


一時的に盗み出された皇帝の玉璽。

靖王の控えの間に隠された、玉璽の印が押された偽の詔書(しょうしょ)。

すべては、皇帝を毒殺し、偽の詔(みことのり)で玉座を奪うためのものだった。


もし明珠が薬草園で千夜草の穴に気づかなければ。


もし屋根の上から赤い箱を見ていなければ。


もし薬膳茶のにおいをかぎ分けなければ。


もし袖の発色粉を使わなければ。


王朝は、一晩で別の者の手に渡っていたかもしれない。

八歳の公主は、宮中の大人たちが見落とした陰謀を、ばたばた走り回りながら止めてしまったのだ。


それ以来、明珠の呼び名は少し増えた。

困ったお転婆公主。

御膳房荒らし。

屋根の上の公主。


そして、もう一つ。

小さな鳳凰(ほうおう)。


「公主様! 薬草園へ行くなら、老師をお待ちください!」


「やだ!」


「また走っております!」


「今日はゆっくり走ってる!」


「走っている時点で駄目です!」


「しらない~!」


宮廷の回廊に、今日も女官たちの悲鳴が響く。


空は高く、宮廷は平和だった。


そして小さな鳳凰は、まだまだおとなしくなる予定はなかった。

ポイントを入れていただけると、大きな励みとなります。

こちらの作品もおもしろいと思います。お読みいただければ有難いです。

連載 <長編版>妹に婚約者を譲れと言われたので、慰謝料をもらって旅に出ることにしました

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― 新着の感想 ―
たぶんちゃん可愛い〜〜 面白かったです!
これ、どこの国の話なんでしょう。ぱっと見た感じ、地球の歴史上には該当する国がないように見えるのですが。不勉強で申し訳ありませんが御教授ください。
転婆公主の更なる活躍に期待します
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