八歳公主、宮廷の陰謀を蹴散らします
「公主様! お待ちください!」
「やだ!」
「宮中で走ってはいけません!」
「じゃあ、みなかったことにして!」
「できません!」
「しらない~!」
明珠公主は、八歳である。
景宗皇帝の末娘であり、宮中で知らぬ者はいない、おてんば公主だった。
刺繍はきらい。
琴もきらい。
礼儀作法の時間は、だいたい眠い。
そのかわり、走るのは得意だった。
屋根に登るのも得意だった。
御膳房にこっそり入るのも得意だった。
そして、薬草園で草のにおいを覚えるのも好きだった。
「公主様! そちらは薬草園です!」
「しってる!」
「入る時は老師の許しを得てからと、陛下が!」
「ろうしなら、たぶんゆるす!」
「たぶんでは困ります!」
「じゃあ、あとできく!」
「先に聞いてくださいませ!」
明珠は小さな体で庭石を飛び越え、薬草園へ駆け込んだ。
薬草園は、宮中の奥にある小さな庭だった。
薬になる草。
毒になる草。
香りのよい花。
触るとかぶれる葉。
老医官が大切に育てている草が、きちんと並んでいる。
明珠は、その中をちょこちょこと歩いた。
「これは、ねむくなる草」
「公主様、勝手に触ってはいけません!」
「これは、おなかいたいのなおす草」
「聞いておりますか?」
「これは、にがいやつ」
「公主様!」
明珠はしゃがみ込んだ。
そして、眉を寄せた。
「……へん」
「何がですか」
「ここ」
明珠は、小さな指で土を指した。
そこだけ、ぽっかり穴が空いている。
何かが抜かれたあとだった。
女官は首をかしげた。
「草が一本ないだけでは?」
「一本じゃない。三本」
「よく分かりますね」
「だって、ここ、せんやそうのところ」
女官の顔が青くなった。
千夜草。
少しなら眠り薬。
多ければ命を奪う毒草。
老医官が、厳重に管理している草だった。
「公主様……まさか、抜いてませんよね?」
明珠はむっとした。
「ぬいてない!」
「本当に?」
「ほんと! わたし、どく草はぬかないもん!」
「では、誰が……」
そこへ、白い髭の老医官がやって来た。
「公主様。薬草園で何をなさっておいでですかな」
「ろうし! たいへん!」
「また何か食べましたか」
「たべてない!」
「では、何を壊しましたか」
「こわしてない! たぶん!」
「たぶんとは何です」
「そんなことより、せんやそうがない!」
老医官の顔つきが変わった。
彼はすぐに土の前へ膝をつき、指で穴の深さを確かめた。
「……確かに、抜かれておりますな」
「わたしじゃないよ!」
「分かっております」
「ほんと?」
「公主様が抜く時は、もっと土を散らかします」
「ろうし、しつれい!」
女官が小さく吹き出した。
老医官は真剣な顔で立ち上がった。
「これは困りましたな。千夜草は、扱いを誤れば毒になります」
「だれがぬいたの?」
「分かりませぬ」
「じゃあ、さがす!」
「おやめください」
「なんで!」
「公主様が探すと、犯人より先に騒ぎが大きくなります」
「むう」
老医官は女官に命じた。
「このことは、陛下にお伝えせねばなりませぬ。だが、まだ騒ぎ立ててはなりません」
「どうして?」
明珠が聞く。
老医官は低い声で言った。
「毒草を盗んだ者が、まだ宮中にいるかもしれぬからです」
明珠は、においを嗅ぐように鼻を動かした。
土のにおい。
薬草のにおい。
その奥に、ほんの少しだけ、苦くて冷たいにおいが残っている。
鉄をなめたようなにおい。
明珠はそれを覚えた。
「このにおい、わすれない」
老医官が明珠を見た。
「公主様」
「なに?」
「もし同じにおいを嗅いだら、すぐに私へ知らせてくだされ」
「うん!」
「勝手に追ってはいけませんぞ」
「うん!」
「本当に?」
「たぶん!」
「公主様」
「……できるだけ」
老医官は深いため息をついた。
その日の昼過ぎ。
宮中はさらに慌ただしくなった。
明日は、重臣たちを集めた大きな宴がある。
景宗皇帝が春の政を決める、大切な宴だ。
大人たちは朝から忙しく、女官も宦官も走り回っていた。
もちろん、明珠は言われた。
「公主様、今日はお部屋でおとなしくしていてください」
「やだ」
「即答しないでくださいませ」
「だって、つまんない」
「つまらなくてもです」
「じゃあ、薬草園」
「駄目です」
「御膳房」
「もっと駄目です」
「屋根」
「一番駄目です!」
明珠は頬を膨らませた。
「ぜんぶだめ」
「はい」
「大人はずるい」
「公主様が自由すぎるのです」
「じゃあ、ちょっとだけ屋根」
「聞いておりましたか!?」
少し後。
明珠は屋根の上にいた。
「公主様ー!」
下から女官の悲鳴が聞こえる。
「おりてくださいませ!」
「あとで!」
「今です!」
「いまは、かぜをみてる!」
「風は下でも見られます!」
「みえないよ!」
明珠は屋根の上に腹ばいになり、宮中を見下ろした。
高い屋根の上からは、宮中の道がよく見える。
御膳房へ向かう宦官。
広間へ花を運ぶ女官。
武官たちの列。
そして、普段なら通らない裏道を歩く、小柄な宦官が一人。
宦官は、黒い布で包まれた小さな箱を抱えていた。
箱はとても大事そうに抱えられている。
しかも、その宦官は人目を避けるように、柱の影を選んで歩いていた。
明珠は不思議そうに、宦官の動きを見ていた。
「なんで、あんなところを歩いてるの?」
下の女官が叫ぶ。
「何がですかー!」
「はこ!」
「箱?」
「こそこそしてる!」
「公主様、今度は何を見つけたのですか!」
明珠は屋根の上を移動した。
「おいかける!」
「屋根の上で追いかけないでください!」
「だいじょうぶ!」
「大丈夫だったことがありません!」
明珠は瓦の上をそろそろ進んだ。
小さな体で猫のように進むのは得意だった。
宦官は廊下の角を曲がり、奥の建物へ入っていく。
そこは、靖王の控えの間に近い場所だった。
靖王。
景宗皇帝の弟で、明珠にとっては叔父にあたる。
いつも穏やかに笑い、たまに甘い菓子をくれる人だった。
明珠は首をかしげた。
「叔父上のところ?」
その時、宦官が少しだけ布をずらした。
中の箱が見えた。
赤い漆塗りの箱。
金の金具。
その形を、明珠は見たことがあった。
父の机の上に置かれている、皇帝の印を入れる箱に似ている。
「……父上の、はんこのはこ?」
明珠は屋根の上で固まった。
もちろん、八歳の明珠は政治のことなどよく分からない。
けれど、皇帝の印がとても大切なものだということは知っている。
父が言っていた。
「これは軽々しく触れてよいものではない」
とても大切な命令を出す時に使うものだ、と。
なぜ、それに似た箱が、靖王の近くへ運ばれているのか。
明珠が考えていると、足元の瓦がかたりと鳴った。
宦官がはっと上を見た。
明珠はあわてて屋根にぺたりと伏せた。
「だれだ?」
宦官の声がする。
明珠は息を止めた。
下から女官の声が近づいてくる。
「公主様ー! どこですかー!」
明珠は小声でつぶやいた。
「いまは、よばないで……」
だが女官の声は近づいてくる。
「公主様ー!」
宦官は周囲を見回したあと、足早に去っていった。
明珠はほっと息を吐いた。
そして、屋根から庭木へ移り、地面に降りた。
女官が駆け寄ってくる。
「公主様! もう! もう!」
「もう、が多い」
「それくらい言わせてくださいませ!」
「ねえ」
「はい?」
「父上のはんこって、どこにあるの?」
女官の顔が固まった。
「なぜそのようなことを」
「はこを見たの」
「箱?」
「あかくて、きんぴかで、えらそうなはこ」
「……公主様」
女官の声が低くなった。
「それは、どこで?」
「屋根から」
「まず屋根にいたことを叱りたいのですが、今は後にします」
女官は周囲を見回した。
「そのお話、陛下に……」
言いかけた時だった。
遠くで鐘が鳴った。
明日の宴に向けた、前日の支度が始まる合図だった。
女官は顔を青くした。
「今から陛下は大臣方とお会いになります。直接お伝えするのは難しいかもしれません」
「じゃあ、ろうし」
「老医官ですか?」
「うん。ろうしなら、こわい顔してくれる」
「確かに、こわい顔は得意でございます」
二人は薬草房へ向かった。
だが、老医官はいなかった。
机の上には、薬草の束と書きかけの紙だけが残っている。
女官が別の医官に尋ねると、老医官は皇帝の診察へ向かったという。
明珠は唇を噛んだ。
毒草がなくなった。
怪しい宦官が箱を運んでいた。
父の印に似た箱だった。
そして明日は、大きな宴。
明珠の胸が、どきどきした。
いつものいたずらを思いついた時のどきどきではない。
もっと冷たくて、嫌なものだった。
女官が明珠の肩に手を置く。
「公主様。今日はお部屋に戻りましょう。老医官が戻りましたら、必ず話を通します」
「でも」
「今、公主様が騒げば、かえって相手に気づかれるかもしれません」
明珠はむうっとした。
「わたし、子どもだから?」
女官は少し困った顔をした。
「子どもだから、ではございません。公主様はよく見ておられます。だからこそ、今は静かにしていただきたいのです」
明珠は黙った。
静かにするのは苦手だった。
待つのも苦手だった。
でも、女官の手が少し震えているのに気づいた。
大人も怖いのだ。
「……わかった」
女官はほっとした。
「では、お部屋へ」
「でも、あしたの宴には行く」
「えっ」
「父上のちかくにいる」
「公主様、それは」
「だめって言っても行く」
女官は額を押さえた。
「言う前から決めないでくださいませ」
「きめた」
明珠はまっすぐ前を見た。
千夜草のにおい。
怪しい宦官。
赤い箱。
靖王の控えの間。
全部が、頭の中でぐるぐる回っていた。
何かが起きる。
明珠には難しいことは分からない。
でも、父が危ないことだけは分かった。
だから明珠は、小さな拳を握った。
「父上は、わたしがまもる」
女官は、何も言えなくなった。
その夜、明珠は珍しく早く布団に入った。
もちろん、眠るためではない。
明日の朝、すぐ動くためである。
枕元には、薬草園で拾った小さな葉を包んだ布。
そして、老医官の棚からこっそり借りた、ほんの少しの発色粉。
本当は勝手に持ち出してはいけない。
でも、あとで怒られればいい。
父が死ぬより、ずっといい。
明珠は布団の中でつぶやいた。
「父上、まもる」
宮中の夜は静かだった。
けれど、その静けさの奥で、毒のにおいはまだ消えていなかった。
*
翌朝。
明珠は、いつもより早く起きた。
女官が驚いて、目を丸くする。
「公主様が……ご自分で起きておられる……」
「おきた!」
「雪でも降るのでしょうか」
「ふらないもん!」
明珠は寝台の上で、むん、と胸を張った。
今日は大きな宴の日である。
父である景宗皇帝が、重臣たちを集めて春の政を決める大事な日。
そして、明珠にとっては、父を守る日だった。
女官は明珠の髪を整えながら言った。
「よろしいですか、公主様。今日は走ってはいけません」
「うん!」
「御膳房に入ってはいけません」
「うん!」
「屋根に登ってはいけません」
「うん!」
「本当ですね?」
「たぶん!」
「公主様!」
明珠はぷいっと横を向いた。
「たぶんは、たぶんだもん」
「そこで胸を張らないでくださいませ」
女官は深くため息をついた。
明珠は、袖の中に小さな包みを隠していた。
発色粉である。
本当は、老医官の棚から勝手に持ってきてはいけない。
けれど、今日は仕方ない。
あとで怒られればいい。
父が死ぬより、ずっといい。
「公主様、何か隠しておられませんか」
「かくしてない」
「では、その袖はなぜふくらんでいるのです」
「ゆめ」
「夢は袖に入りません」
「ちいさいゆめ」
「公主様」
「……ないしょ」
女官は頭を抱えた。
だが、その顔は昨日よりも真剣だった。
女官も分かっていた。
今日は、何かが起きる。
明珠は、まだ小さい。
けれど、その小さな目は、昨日たしかに怪しいものを見ていた。
千夜草が消えたこと。
怪しい宦官が赤い箱を運んでいたこと。
その箱が、皇帝の印を入れる箱に似ていたこと。
女官は小さく息を吐いた。
「公主様」
「なに?」
「今日は、私から離れないでくださいませ」
「うん」
「本当に」
「……できるだけ」
「公主様」
「がんばる!」
それ以上は言っても無駄だと、女官は知っていた。
宴の広間は、朝から慌ただしかった。
重臣たちが集まり、武官たちが並び、文官たちが巻物を抱えて控えている。
春の政を決める大切な宴。
それは、ただ食事をするだけの場ではない。
皇帝が国の方針を示し、臣下たちがそれに従うことを確認する場でもあった。
玉座に座る景宗皇帝は、いつも通り落ち着いて見えた。
けれど、少しだけ咳をしている。
明珠はそれを見て、眉を寄せた。
「父上、まだこんこんしてる」
「少しだけだ」
皇帝は微笑んだ。
「明珠、今日は大人しくしていられるか」
「うん!」
皇帝は一瞬だけ黙った。
「……今の返事が一番不安だ」
「なんで!」
近くの女官が小さく咳払いをした。
明珠はあわてて姿勢を正す。
「わたし、今日はおとなしいです」
「そうか」
皇帝は目を細めた。
「ならば、走らぬように」
「……うん」
「間があったな」
「なかった!」
「今もあった」
明珠は口をとがらせた。
その時、靖王が近づいてきた。
靖王は、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。
「明珠、今日は立派な公主に見えるな」
「ほんと?」
「本当だ」
「じゃあ、おかしちょうだい」
「褒めたら菓子を要求するのか」
靖王は笑った。
その笑顔は優しかった。
けれど明珠は、昨日見た宦官のことを思い出していた。
黒い布の箱。
靖王の控えの間。
父上のはんこの箱に似た赤い箱。
明珠は、じっと靖王を見た。
「叔父上」
「何かな?」
「あかいはこ、すき?」
靖王の笑みが、ほんの少しだけ止まった。
ほんの一瞬だった。
でも、明珠は見た。
「赤い箱?」
「うん。きんぴかの、えらそうなはこ」
靖王はすぐに笑みを戻した。
「明珠は面白いことを言う。私は箱より、よい茶の方が好きだな」
「ふうん」
明珠は首をかしげた。
その時、宦官が入ってきた。
盆の上には、皇帝の薬膳茶が置かれている。
昨日と同じ、父の咳を鎮めるための茶。
明珠の鼻が、ぴくりと動いた。
甘い香。
薬草の香り。
そして、その奥に混じる、苦くて冷たいにおい。
鉄をなめたようなにおい。
昨日、薬草園で覚えた匂いと同じだった。
明珠の顔から、色が消えた。
「……だめ」
女官が小さく聞き返す。
「公主様?」
「そのおちゃ、だめ」
宦官が皇帝の前に茶器を置く。
皇帝が手を伸ばした。
明珠は叫んだ。
「父上、のんじゃだめ!」
広間の空気が止まった。
皇帝が明珠を見る。
「明珠?」
「そのおちゃ、どく!」
重臣たちがざわめく。
「毒だと?」
「公主様、何を……」
靖王が静かに言った。
「兄上、子供の思い違いでしょう。明珠は昔から、少々元気がよすぎるところがある」
「たわごとじゃない!」
明珠は叫んだ。
「においがする!」
靖王は優しく笑った。
「薬膳茶だ。匂いがあるのは当然だろう」
「ちがう! くすりのにおいじゃない!」
皇帝は茶器を見下ろした。
その手が、まだ茶器に触れていないのを見て、明珠は少しだけほっとした。
けれど宦官が言った。
「陛下、茶が冷めます」
明珠の中で、何かがはじけた。
「だめ!」
明珠は走った。
「公主様!」
女官が叫ぶ。
「走っては……!」
「いまはいいの!」
明珠は皇帝の前へ飛び出し、茶器を叩き落とした。
ぱしん、と高い音がした。
茶器が割れ、薬膳茶が白い床にこぼれる。
広間が、凍りついた。
「明珠」
皇帝の声が低くなる。
明珠は肩を震わせた。
怖い。
でも、ここで止まったらだめだ。
「どくなの」
明珠は袖から小さな包みを取り出した。
「これで、わかる」
老医官の発色粉。
明珠はそれを、床にこぼれた茶へ振りかけた。
一瞬、何も起きなかった。
重臣たちが息を呑む。
靖王の顔から血の気が引いていく。
次の瞬間。
茶の跡が、じわりと紫に染まった。
広間に悲鳴が上がった。
「紫だ!」
「毒草だ!」
「医官を呼べ!」
そこへ、老医官が駆け込んできた。
「陛下!」
老医官は床に膝をつき、紫に染まった茶の跡を確かめる。
その顔が険しくなった。
「千夜草です。量から見て、陛下が飲めば命に関わりました」
皇帝の顔が、静かに変わった。
明珠は小さく息を吐いた。
間に合った。
父は生きている。
だが、まだ終わっていない。
明珠は、茶を運んだ宦官を見た。
昨日見た、小柄な宦官。
そして、今も袖口にうっすらと白い粉がついている。
「その人」
明珠は指をさした。
「そでに、同じにおい」
宦官は真っ青になった。
「違います! 私は何もしておりません!」
「じゃあ、そで、だして」
「なぜ私が、子供の言うことなど!」
明珠はじっと見た。
「こわいの?」
宦官は後ずさった。
皇帝が短く命じる。
「袖を出せ」
護衛が宦官の腕をつかむ。
老医官が発色粉を振りかけた。
袖口が紫に染まる。
「ひっ……!」
宦官は、その場に崩れ落ちた。
皇帝の声が響く。
「誰の命だ」
宦官は震えていた。
口を開かない。
だが、その目が、一瞬だけ靖王へ向いた。
明珠は見逃さなかった。
「叔父上を見た」
靖王の顔から、笑みが消えた。
「明珠。子供が余計なことを言うものではない」
その声は、いつもの優しい声ではなかった。
明珠の背筋が冷たくなる。
怖い。
でも、父の方が大事だ。
「こわいけど……言う」
明珠は、皇帝の衣の袖をぎゅっと握った。
「昨日、見たの。あの人、赤いはこを持ってた」
広間がざわめく。
皇帝が明珠を見る。
「赤い箱?」
「うん。あかくて、きんぴかで、えらそうなはこ。父上のはんこのはこに似てた」
重臣たちの顔色が変わった。
皇帝の印が押された詔書は、皇帝の命令として扱われる。
もし偽の詔書が出されれば、宮廷は大きく乱れる。
「どこへ運ばれていた」
皇帝が尋ねる。
明珠は靖王を見た。
「叔父上のところ」
靖王が声を荒げた。
「馬鹿な! 八歳の子供の言葉で、王弟を疑うのですか」
広間が静まり返った。
重臣たちも、息を殺して皇帝を見ている。
皇帝は、ゆっくりと靖王を見た。
「靖王」
「兄上」
「今、その八歳の子供の鼻が、私の命を救った」
靖王の眉が動く。
皇帝は続けた。
「八歳の子供の目を、私はお前より信じる」
明珠は、父を見上げた。
胸の奥が熱くなった。
皇帝は命じた。
「靖王の控えの間を調べよ」
護衛たちが動く。
靖王は一歩下がった。
「兄上! これは侮辱です!」
「侮辱かどうかは、調べれば分かる」
「王弟である私を、子供の戯言で疑うとは!」
皇帝の声が低くなった。
「その子供を戯言と笑った者が、先ほど毒茶を飲ませようとした」
靖王は口を閉じた。
しばらくして、護衛が戻ってきた。
その手には、赤い漆塗りの箱があった。
金の金具。
明珠が屋根から見た箱だった。
「陛下。靖王殿下の控えの間より、こちらを見つけました」
箱の中には、皇帝の印が押された偽の詔書が入っていた。
老臣がそれを開き、声を震わせる。
「これは……陛下が靖王殿下へ帝位を譲るという内容です」
「私はそのような命令を出していない」
皇帝は靖王を見た。
「毒で私を殺し、この偽の詔で玉座を奪うつもりだったか」
靖王は黙っていた。
だが、やがてゆっくり笑った。
もう、穏やかな叔父の笑みではなかった。
「兄上さえいなければ、玉座は私のものだった」
明珠は息を呑んだ。
「叔父上……」
靖王は明珠を見下ろした。
「あと少しだった。お前のような小娘に邪魔されるとはな」
明珠の手が震えた。
皇帝の袖を握る力が強くなる。
皇帝は、その小さな手を上から包んだ。
「玉座のために、兄を殺そうとしたか」
「兄ではない。皇帝です」
靖王の目が暗く光る。
「この国を治める力は、私にこそある」
「毒で奪った玉座に、国は従わぬ」
皇帝の声は低かった。
「民は、お前の野心を満たすためにいるのではない」
靖王は兵に取り押さえられた。
彼は最後まで、明珠を睨んでいた。
明珠は怖かった。
とても怖かった。
けれど、父は生きている。
そのことだけで、明珠は泣きそうになった。
皇帝は膝をつき、明珠と目の高さを合わせた。
「明珠」
「……おこってる?」
皇帝は深く息を吐いた。
「怒っている」
「えっ」
「御膳房に忍び込み、宮中を走り、宴の場で茶器を叩き落とした」
「う……」
「老医官の発色粉も勝手に持ち出したな」
明珠は目をそらした。
「ちょっとだけ」
「量の問題ではない」
「あとで、かえす」
「粉は返らぬ」
「むう」
皇帝は、そこでふっと笑った。
「だが」
明珠が顔を上げる。
「今日は、その全部に命を救われた」
明珠の目が、大きく開いた。
「わたし、父上をたすけた?」
「そうだ」
「くにも?」
「そうだ。私が死ねば、靖王が偽の詔で玉座を奪い、王朝は血で染まっていただろう」
明珠は、少しだけ胸を張った。
「じゃあ、えらい?」
「えらい」
「すごく?」
「すごく」
「じゃあ、ごほうび!」
皇帝は嫌な予感がした。
「何が望みだ」
明珠はぱっと顔を輝かせた。
「屋根にのぼっても、おこられない札!」
「却下だ」
「はやい!」
「早く却下せねば、通りそうだからだ」
「じゃあ、御膳房にはいっていい札!」
「却下だ」
「父上、けち!」
「けちではない。父だ」
「けち父上」
「明珠」
「はい」
明珠はすぐに背筋を伸ばした。
皇帝はため息をついた。
「薬草園への出入りは許す。ただし、老医官の許しを得てからだ」
明珠の顔がぱっと明るくなる。
「ほんと?」
「本当だ」
「御膳房は?」
「駄目だ」
「屋根は?」
「駄目だ」
「ちぇ」
「ちぇ、ではない」
横で老医官が苦笑した。
「公主様。薬草園に来るなら、まず毒草を勝手に抜かぬことから覚えていただきますぞ」
「わかった!」
「本当に?」
「たぶん!」
「たぶんでは困ります」
明珠はにこにこ笑った。
その日、靖王の陰謀は暴かれた。
盗まれた千夜草。
毒入りの薬膳茶。
宦官の袖に残った粉。
靖王の控えの間に隠された、皇帝の印が押された偽の詔書。
すべては、皇帝を毒殺し、偽の詔で玉座を奪うためのものだった。
もし明珠が薬草園で千夜草の穴に気づかなければ。
もし屋根の上から赤い箱を見ていなければ。
もし薬膳茶のにおいをかぎ分けなければ。
王朝は、一晩で別の者の手に渡っていたかもしれない。
八歳の公主は、宮中の大人たちが見落とした陰謀を、ばたばた走り回りながら止めてしまったのだ。
それ以来、明珠の呼び名は少し増えた。
困ったお転婆公主。
御膳房荒らし。
屋根の上の公主。
そして、もう一つ。
小さな鳳凰。
「公主様! 薬草園へ行くなら、老師をお待ちください!」
「やだ!」
「また走っております!」
「今日はゆっくり走ってる!」
「走っている時点で駄目です!」
「しらない~!」
宮廷の回廊に、今日も女官たちの悲鳴が響く。
空は高く、宮廷は平和だった。
そして小さな鳳凰は、まだまだおとなしくなる予定はなかった。
ポイントを入れていただけると、大きな励みとなります。
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こちらの作品もおもしろいと思います。お読みいただければ有難いです。




