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八歳公主、宮廷の陰謀を蹴散らします

作者: momotarou
掲載日:2026/05/07

「公主様! お待ちください!」


「やだ!」


「宮中で走ってはいけません!」


「じゃあ、みなかったことにして!」


「できません!」


「しらない~!」


挿絵(By みてみん)


明珠めいじゅ公主は、八歳である。


景宗けいそう皇帝の末娘であり、宮中で知らぬ者はいない、おてんば公主だった。


刺繍はきらい。

琴もきらい。

礼儀作法の時間は、だいたい眠い。


そのかわり、走るのは得意だった。

屋根に登るのも得意だった。

御膳房ごぜんぼうにこっそり入るのも得意だった。


そして、薬草園で草のにおいを覚えるのも好きだった。


「公主様! そちらは薬草園です!」


「しってる!」


「入る時は老師の許しを得てからと、陛下が!」


「ろうしなら、たぶんゆるす!」


「たぶんでは困ります!」


「じゃあ、あとできく!」


「先に聞いてくださいませ!」


明珠は小さな体で庭石を飛び越え、薬草園へ駆け込んだ。


薬草園は、宮中の奥にある小さな庭だった。


薬になる草。

毒になる草。

香りのよい花。

触るとかぶれる葉。


老医官が大切に育てている草が、きちんと並んでいる。


明珠は、その中をちょこちょこと歩いた。


「これは、ねむくなる草」


「公主様、勝手に触ってはいけません!」


「これは、おなかいたいのなおす草」


「聞いておりますか?」


「これは、にがいやつ」


「公主様!」


明珠はしゃがみ込んだ。


そして、眉を寄せた。


「……へん」


「何がですか」


「ここ」


明珠は、小さな指で土を指した。


そこだけ、ぽっかり穴が空いている。


何かが抜かれたあとだった。


女官にょかんは首をかしげた。


「草が一本ないだけでは?」


「一本じゃない。三本」


「よく分かりますね」


「だって、ここ、せんやそうのところ」


女官の顔が青くなった。


千夜草。


少しなら眠り薬。

多ければ命を奪う毒草。


老医官が、厳重に管理している草だった。


「公主様……まさか、抜いてませんよね?」


明珠はむっとした。


「ぬいてない!」


「本当に?」


「ほんと! わたし、どく草はぬかないもん!」


「では、誰が……」


そこへ、白い髭の老医官がやって来た。


「公主様。薬草園で何をなさっておいでですかな」


「ろうし! たいへん!」


「また何か食べましたか」


「たべてない!」


「では、何を壊しましたか」


「こわしてない! たぶん!」


「たぶんとは何です」


「そんなことより、せんやそうがない!」


老医官の顔つきが変わった。


彼はすぐに土の前へ膝をつき、指で穴の深さを確かめた。


「……確かに、抜かれておりますな」


「わたしじゃないよ!」


「分かっております」


「ほんと?」


「公主様が抜く時は、もっと土を散らかします」


「ろうし、しつれい!」


女官が小さく吹き出した。


老医官は真剣な顔で立ち上がった。


「これは困りましたな。千夜草は、扱いを誤れば毒になります」


「だれがぬいたの?」


「分かりませぬ」


「じゃあ、さがす!」


「おやめください」


「なんで!」


「公主様が探すと、犯人より先に騒ぎが大きくなります」


「むう」


老医官は女官に命じた。


「このことは、陛下にお伝えせねばなりませぬ。だが、まだ騒ぎ立ててはなりません」


「どうして?」


明珠が聞く。


老医官は低い声で言った。


「毒草を盗んだ者が、まだ宮中にいるかもしれぬからです」


明珠は、においを嗅ぐように鼻を動かした。


土のにおい。

薬草のにおい。


その奥に、ほんの少しだけ、苦くて冷たいにおいが残っている。


鉄をなめたようなにおい。


明珠はそれを覚えた。


「このにおい、わすれない」


老医官が明珠を見た。


「公主様」


「なに?」


「もし同じにおいを嗅いだら、すぐに私へ知らせてくだされ」


「うん!」


「勝手に追ってはいけませんぞ」


「うん!」


「本当に?」


「たぶん!」


「公主様」


「……できるだけ」


老医官は深いため息をついた。


その日の昼過ぎ。


宮中はさらに慌ただしくなった。


明日は、重臣たちを集めた大きな宴がある。


景宗皇帝が春の政を決める、大切な宴だ。


大人たちは朝から忙しく、女官も宦官かんがんも走り回っていた。


もちろん、明珠は言われた。


「公主様、今日はお部屋でおとなしくしていてください」


「やだ」


「即答しないでくださいませ」


「だって、つまんない」


「つまらなくてもです」


「じゃあ、薬草園」


「駄目です」


「御膳房」


「もっと駄目です」


「屋根」


「一番駄目です!」


明珠は頬を膨らませた。


「ぜんぶだめ」


「はい」


「大人はずるい」


「公主様が自由すぎるのです」


「じゃあ、ちょっとだけ屋根」


「聞いておりましたか!?」


少し後。


明珠は屋根の上にいた。


「公主様ー!」


下から女官の悲鳴が聞こえる。


「おりてくださいませ!」


「あとで!」


「今です!」


「いまは、かぜをみてる!」


「風は下でも見られます!」


「みえないよ!」


明珠は屋根の上に腹ばいになり、宮中を見下ろした。


高い屋根の上からは、宮中の道がよく見える。


御膳房へ向かう宦官。

広間へ花を運ぶ女官。

武官ぶかんたちの列。


そして、普段なら通らない裏道を歩く、小柄な宦官が一人。


宦官は、黒い布で包まれた小さな箱を抱えていた。


箱はとても大事そうに抱えられている。


しかも、その宦官は人目を避けるように、柱の影を選んで歩いていた。


明珠は不思議そうに、宦官の動きを見ていた。


「なんで、あんなところを歩いてるの?」


下の女官が叫ぶ。


「何がですかー!」


「はこ!」


「箱?」


「こそこそしてる!」


「公主様、今度は何を見つけたのですか!」


明珠は屋根の上を移動した。


「おいかける!」


「屋根の上で追いかけないでください!」


「だいじょうぶ!」


「大丈夫だったことがありません!」


明珠は瓦の上をそろそろ進んだ。


小さな体で猫のように進むのは得意だった。


宦官は廊下の角を曲がり、奥の建物へ入っていく。


そこは、靖王せいおうの控えの間に近い場所だった。


靖王。


景宗皇帝の弟で、明珠にとっては叔父にあたる。


いつも穏やかに笑い、たまに甘い菓子をくれる人だった。


明珠は首をかしげた。


叔父上おじうえのところ?」


その時、宦官が少しだけ布をずらした。


中の箱が見えた。


赤い漆塗りの箱。

金の金具。


その形を、明珠は見たことがあった。


父の机の上に置かれている、皇帝の印を入れる箱に似ている。


「……父上の、はんこのはこ?」


明珠は屋根の上で固まった。


もちろん、八歳の明珠は政治のことなどよく分からない。


けれど、皇帝の印がとても大切なものだということは知っている。


父が言っていた。


「これは軽々しく触れてよいものではない」


とても大切な命令を出す時に使うものだ、と。


なぜ、それに似た箱が、靖王の近くへ運ばれているのか。


明珠が考えていると、足元の瓦がかたりと鳴った。


宦官がはっと上を見た。


明珠はあわてて屋根にぺたりと伏せた。


「だれだ?」


宦官の声がする。


明珠は息を止めた。


下から女官の声が近づいてくる。


「公主様ー! どこですかー!」


明珠は小声でつぶやいた。


「いまは、よばないで……」


だが女官の声は近づいてくる。


「公主様ー!」


宦官は周囲を見回したあと、足早に去っていった。


明珠はほっと息を吐いた。


そして、屋根から庭木へ移り、地面に降りた。


女官が駆け寄ってくる。


「公主様! もう! もう!」


「もう、が多い」


「それくらい言わせてくださいませ!」


「ねえ」


「はい?」


「父上のはんこって、どこにあるの?」


女官の顔が固まった。


「なぜそのようなことを」


「はこを見たの」


「箱?」


「あかくて、きんぴかで、えらそうなはこ」


「……公主様」


女官の声が低くなった。


「それは、どこで?」


「屋根から」


「まず屋根にいたことを叱りたいのですが、今は後にします」


女官は周囲を見回した。


「そのお話、陛下に……」


言いかけた時だった。


遠くで鐘が鳴った。


明日の宴に向けた、前日の支度が始まる合図だった。


女官は顔を青くした。


「今から陛下は大臣方とお会いになります。直接お伝えするのは難しいかもしれません」


「じゃあ、ろうし」


「老医官ですか?」


「うん。ろうしなら、こわい顔してくれる」


「確かに、こわい顔は得意でございます」


二人は薬草房へ向かった。


だが、老医官はいなかった。


机の上には、薬草の束と書きかけの紙だけが残っている。


女官が別の医官に尋ねると、老医官は皇帝の診察へ向かったという。


明珠は唇を噛んだ。


毒草がなくなった。

怪しい宦官が箱を運んでいた。

父の印に似た箱だった。

そして明日は、大きな宴。


明珠の胸が、どきどきした。


いつものいたずらを思いついた時のどきどきではない。


もっと冷たくて、嫌なものだった。


女官が明珠の肩に手を置く。


「公主様。今日はお部屋に戻りましょう。老医官が戻りましたら、必ず話を通します」


「でも」


「今、公主様が騒げば、かえって相手に気づかれるかもしれません」


明珠はむうっとした。


「わたし、子どもだから?」


女官は少し困った顔をした。


「子どもだから、ではございません。公主様はよく見ておられます。だからこそ、今は静かにしていただきたいのです」


明珠は黙った。


静かにするのは苦手だった。

待つのも苦手だった。


でも、女官の手が少し震えているのに気づいた。


大人も怖いのだ。


「……わかった」


女官はほっとした。


「では、お部屋へ」


「でも、あしたの宴には行く」


「えっ」


「父上のちかくにいる」


「公主様、それは」


「だめって言っても行く」


女官は額を押さえた。


「言う前から決めないでくださいませ」


「きめた」


明珠はまっすぐ前を見た。


千夜草のにおい。

怪しい宦官。

赤い箱。

靖王の控えの間。


全部が、頭の中でぐるぐる回っていた。


何かが起きる。


明珠には難しいことは分からない。


でも、父が危ないことだけは分かった。


だから明珠は、小さな拳を握った。


「父上は、わたしがまもる」


女官は、何も言えなくなった。


その夜、明珠は珍しく早く布団に入った。


もちろん、眠るためではない。


明日の朝、すぐ動くためである。


枕元には、薬草園で拾った小さな葉を包んだ布。


そして、老医官の棚からこっそり借りた、ほんの少しの発色粉。


本当は勝手に持ち出してはいけない。


でも、あとで怒られればいい。


父が死ぬより、ずっといい。


明珠は布団の中でつぶやいた。


「父上、まもる」


宮中の夜は静かだった。


けれど、その静けさの奥で、毒のにおいはまだ消えていなかった。


 *


翌朝。


明珠は、いつもより早く起きた。


女官が驚いて、目を丸くする。


「公主様が……ご自分で起きておられる……」


「おきた!」


「雪でも降るのでしょうか」


「ふらないもん!」


明珠は寝台の上で、むん、と胸を張った。


今日は大きな宴の日である。


父である景宗皇帝が、重臣たちを集めて春の政を決める大事な日。


そして、明珠にとっては、父を守る日だった。


女官は明珠の髪を整えながら言った。


「よろしいですか、公主様。今日は走ってはいけません」


「うん!」


「御膳房に入ってはいけません」


「うん!」


「屋根に登ってはいけません」


「うん!」


「本当ですね?」


「たぶん!」


「公主様!」


明珠はぷいっと横を向いた。


「たぶんは、たぶんだもん」


「そこで胸を張らないでくださいませ」


女官は深くため息をついた。


明珠は、袖の中に小さな包みを隠していた。


発色粉である。


本当は、老医官の棚から勝手に持ってきてはいけない。


けれど、今日は仕方ない。


あとで怒られればいい。


父が死ぬより、ずっといい。


「公主様、何か隠しておられませんか」


「かくしてない」


「では、その袖はなぜふくらんでいるのです」


「ゆめ」


「夢は袖に入りません」


「ちいさいゆめ」


「公主様」


「……ないしょ」


女官は頭を抱えた。


だが、その顔は昨日よりも真剣だった。


女官も分かっていた。


今日は、何かが起きる。


明珠は、まだ小さい。


けれど、その小さな目は、昨日たしかに怪しいものを見ていた。


千夜草が消えたこと。

怪しい宦官が赤い箱を運んでいたこと。

その箱が、皇帝の印を入れる箱に似ていたこと。


女官は小さく息を吐いた。


「公主様」


「なに?」


「今日は、私から離れないでくださいませ」


「うん」


「本当に」


「……できるだけ」


「公主様」


「がんばる!」


それ以上は言っても無駄だと、女官は知っていた。


宴の広間は、朝から慌ただしかった。


重臣たちが集まり、武官たちが並び、文官たちが巻物を抱えて控えている。


春の政を決める大切な宴。


それは、ただ食事をするだけの場ではない。


皇帝が国の方針を示し、臣下たちがそれに従うことを確認する場でもあった。


玉座に座る景宗皇帝は、いつも通り落ち着いて見えた。


けれど、少しだけ咳をしている。


明珠はそれを見て、眉を寄せた。


「父上、まだこんこんしてる」


「少しだけだ」


皇帝は微笑んだ。


「明珠、今日は大人しくしていられるか」


「うん!」


皇帝は一瞬だけ黙った。


「……今の返事が一番不安だ」


「なんで!」


近くの女官が小さく咳払いをした。


明珠はあわてて姿勢を正す。


「わたし、今日はおとなしいです」


「そうか」


皇帝は目を細めた。


「ならば、走らぬように」


「……うん」


「間があったな」


「なかった!」


「今もあった」


明珠は口をとがらせた。


その時、靖王が近づいてきた。


靖王は、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべていた。


「明珠、今日は立派な公主に見えるな」


「ほんと?」


「本当だ」


「じゃあ、おかしちょうだい」


「褒めたら菓子を要求するのか」


靖王は笑った。


その笑顔は優しかった。


けれど明珠は、昨日見た宦官のことを思い出していた。


黒い布の箱。

靖王の控えの間。

父上のはんこの箱に似た赤い箱。


明珠は、じっと靖王を見た。


「叔父上」


「何かな?」


「あかいはこ、すき?」


靖王の笑みが、ほんの少しだけ止まった。


ほんの一瞬だった。


でも、明珠は見た。


「赤い箱?」


「うん。きんぴかの、えらそうなはこ」


靖王はすぐに笑みを戻した。


「明珠は面白いことを言う。私は箱より、よい茶の方が好きだな」


「ふうん」


明珠は首をかしげた。


その時、宦官が入ってきた。


盆の上には、皇帝の薬膳茶が置かれている。


昨日と同じ、父の咳を鎮めるための茶。


明珠の鼻が、ぴくりと動いた。


甘い香。

薬草の香り。

そして、その奥に混じる、苦くて冷たいにおい。


鉄をなめたようなにおい。


昨日、薬草園で覚えた匂いと同じだった。


明珠の顔から、色が消えた。


「……だめ」


女官が小さく聞き返す。


「公主様?」


「そのおちゃ、だめ」


宦官が皇帝の前に茶器を置く。


皇帝が手を伸ばした。


明珠は叫んだ。


「父上、のんじゃだめ!」


広間の空気が止まった。


皇帝が明珠を見る。


「明珠?」


「そのおちゃ、どく!」


重臣たちがざわめく。


「毒だと?」


「公主様、何を……」


靖王が静かに言った。


「兄上、子供の思い違いでしょう。明珠は昔から、少々元気がよすぎるところがある」


「たわごとじゃない!」


明珠は叫んだ。


「においがする!」


靖王は優しく笑った。


「薬膳茶だ。匂いがあるのは当然だろう」


「ちがう! くすりのにおいじゃない!」


皇帝は茶器を見下ろした。


その手が、まだ茶器に触れていないのを見て、明珠は少しだけほっとした。


けれど宦官が言った。


「陛下、茶が冷めます」


明珠の中で、何かがはじけた。


「だめ!」


明珠は走った。


「公主様!」


女官が叫ぶ。


「走っては……!」


「いまはいいの!」


明珠は皇帝の前へ飛び出し、茶器を叩き落とした。


ぱしん、と高い音がした。


茶器が割れ、薬膳茶が白い床にこぼれる。


広間が、凍りついた。


「明珠」


皇帝の声が低くなる。


明珠は肩を震わせた。


怖い。


でも、ここで止まったらだめだ。


「どくなの」


明珠は袖から小さな包みを取り出した。


「これで、わかる」


老医官の発色粉。


明珠はそれを、床にこぼれた茶へ振りかけた。


一瞬、何も起きなかった。


重臣たちが息を呑む。


靖王の顔から血の気が引いていく。


次の瞬間。


茶の跡が、じわりと紫に染まった。


広間に悲鳴が上がった。


「紫だ!」


「毒草だ!」


「医官を呼べ!」


そこへ、老医官が駆け込んできた。


「陛下!」


老医官は床に膝をつき、紫に染まった茶の跡を確かめる。


その顔が険しくなった。


「千夜草です。量から見て、陛下が飲めば命に関わりました」


皇帝の顔が、静かに変わった。


明珠は小さく息を吐いた。


間に合った。


父は生きている。


だが、まだ終わっていない。


明珠は、茶を運んだ宦官を見た。


昨日見た、小柄な宦官。


そして、今も袖口にうっすらと白い粉がついている。


「その人」


明珠は指をさした。


「そでに、同じにおい」


宦官は真っ青になった。


「違います! 私は何もしておりません!」


「じゃあ、そで、だして」


「なぜ私が、子供の言うことなど!」


明珠はじっと見た。


「こわいの?」


宦官は後ずさった。


皇帝が短く命じる。


「袖を出せ」


護衛が宦官の腕をつかむ。


老医官が発色粉を振りかけた。


袖口が紫に染まる。


「ひっ……!」


宦官は、その場に崩れ落ちた。


皇帝の声が響く。


「誰の命だ」


宦官は震えていた。


口を開かない。


だが、その目が、一瞬だけ靖王へ向いた。


明珠は見逃さなかった。


「叔父上を見た」


靖王の顔から、笑みが消えた。


「明珠。子供が余計なことを言うものではない」


その声は、いつもの優しい声ではなかった。


明珠の背筋が冷たくなる。


怖い。


でも、父の方が大事だ。


「こわいけど……言う」


明珠は、皇帝の衣の袖をぎゅっと握った。


「昨日、見たの。あの人、赤いはこを持ってた」


広間がざわめく。


皇帝が明珠を見る。


「赤い箱?」


「うん。あかくて、きんぴかで、えらそうなはこ。父上のはんこのはこに似てた」


重臣たちの顔色が変わった。


皇帝の印が押された詔書は、皇帝の命令として扱われる。


もし偽の詔書が出されれば、宮廷は大きく乱れる。


「どこへ運ばれていた」


皇帝が尋ねる。


明珠は靖王を見た。


「叔父上のところ」


靖王が声を荒げた。


「馬鹿な! 八歳の子供の言葉で、王弟を疑うのですか」


広間が静まり返った。


重臣たちも、息を殺して皇帝を見ている。


皇帝は、ゆっくりと靖王を見た。


「靖王」


「兄上」


「今、その八歳の子供の鼻が、私の命を救った」


靖王の眉が動く。


皇帝は続けた。


「八歳の子供の目を、私はお前より信じる」


明珠は、父を見上げた。


胸の奥が熱くなった。


皇帝は命じた。


「靖王の控えの間を調べよ」


護衛たちが動く。


靖王は一歩下がった。


「兄上! これは侮辱です!」


「侮辱かどうかは、調べれば分かる」


「王弟である私を、子供の戯言で疑うとは!」


皇帝の声が低くなった。


「その子供を戯言と笑った者が、先ほど毒茶を飲ませようとした」


靖王は口を閉じた。


しばらくして、護衛が戻ってきた。


その手には、赤い漆塗りの箱があった。


金の金具。


明珠が屋根から見た箱だった。


「陛下。靖王殿下の控えの間より、こちらを見つけました」


箱の中には、皇帝の印が押された偽の詔書が入っていた。


老臣がそれを開き、声を震わせる。


「これは……陛下が靖王殿下へ帝位を譲るという内容です」


「私はそのような命令を出していない」


皇帝は靖王を見た。


「毒で私を殺し、この偽の詔で玉座を奪うつもりだったか」


靖王は黙っていた。


だが、やがてゆっくり笑った。


もう、穏やかな叔父の笑みではなかった。


「兄上さえいなければ、玉座は私のものだった」


明珠は息を呑んだ。


「叔父上……」


靖王は明珠を見下ろした。


「あと少しだった。お前のような小娘に邪魔されるとはな」


明珠の手が震えた。


皇帝の袖を握る力が強くなる。


皇帝は、その小さな手を上から包んだ。


「玉座のために、兄を殺そうとしたか」


「兄ではない。皇帝です」


靖王の目が暗く光る。


「この国を治める力は、私にこそある」


「毒で奪った玉座に、国は従わぬ」


皇帝の声は低かった。


「民は、お前の野心を満たすためにいるのではない」


靖王は兵に取り押さえられた。


彼は最後まで、明珠を睨んでいた。


明珠は怖かった。


とても怖かった。


けれど、父は生きている。


そのことだけで、明珠は泣きそうになった。


皇帝は膝をつき、明珠と目の高さを合わせた。


「明珠」


「……おこってる?」


皇帝は深く息を吐いた。


「怒っている」


「えっ」


「御膳房に忍び込み、宮中を走り、宴の場で茶器を叩き落とした」


「う……」


「老医官の発色粉も勝手に持ち出したな」


明珠は目をそらした。


「ちょっとだけ」


「量の問題ではない」


「あとで、かえす」


「粉は返らぬ」


「むう」


皇帝は、そこでふっと笑った。


「だが」


明珠が顔を上げる。


「今日は、その全部に命を救われた」


明珠の目が、大きく開いた。


「わたし、父上をたすけた?」


「そうだ」


「くにも?」


「そうだ。私が死ねば、靖王が偽の詔で玉座を奪い、王朝は血で染まっていただろう」


明珠は、少しだけ胸を張った。


「じゃあ、えらい?」


「えらい」


「すごく?」


「すごく」


「じゃあ、ごほうび!」


皇帝は嫌な予感がした。


「何が望みだ」


明珠はぱっと顔を輝かせた。


「屋根にのぼっても、おこられない札!」


「却下だ」


「はやい!」


「早く却下せねば、通りそうだからだ」


「じゃあ、御膳房にはいっていい札!」


「却下だ」


「父上、けち!」


「けちではない。父だ」


「けち父上」


「明珠」


「はい」


明珠はすぐに背筋を伸ばした。


皇帝はため息をついた。


「薬草園への出入りは許す。ただし、老医官の許しを得てからだ」


明珠の顔がぱっと明るくなる。


「ほんと?」


「本当だ」


「御膳房は?」


「駄目だ」


「屋根は?」


「駄目だ」


「ちぇ」


「ちぇ、ではない」


横で老医官が苦笑した。


「公主様。薬草園に来るなら、まず毒草を勝手に抜かぬことから覚えていただきますぞ」


「わかった!」


「本当に?」


「たぶん!」


「たぶんでは困ります」


明珠はにこにこ笑った。


その日、靖王の陰謀は暴かれた。


盗まれた千夜草。

毒入りの薬膳茶。

宦官の袖に残った粉。

靖王の控えの間に隠された、皇帝の印が押された偽の詔書しょうしょ


すべては、皇帝を毒殺し、偽のみことのりで玉座を奪うためのものだった。


もし明珠が薬草園で千夜草の穴に気づかなければ。

もし屋根の上から赤い箱を見ていなければ。

もし薬膳茶のにおいをかぎ分けなければ。


王朝は、一晩で別の者の手に渡っていたかもしれない。


八歳の公主は、宮中の大人たちが見落とした陰謀を、ばたばた走り回りながら止めてしまったのだ。


それ以来、明珠の呼び名は少し増えた。


困ったお転婆公主。

御膳房荒らし。

屋根の上の公主。


そして、もう一つ。


小さな鳳凰ほうおう


「公主様! 薬草園へ行くなら、老師をお待ちください!」


「やだ!」


「また走っております!」


「今日はゆっくり走ってる!」


「走っている時点で駄目です!」


「しらない~!」


宮廷の回廊に、今日も女官たちの悲鳴が響く。


空は高く、宮廷は平和だった。


そして小さな鳳凰は、まだまだおとなしくなる予定はなかった。

ポイントを入れていただけると、大きな励みとなります。

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こちらの作品もおもしろいと思います。お読みいただければ有難いです。

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