【短編小説】誘い
太陽は沈み、オフィスは所々電気が消え始め、時計の短針は7に差し掛かろうとしてる。人々が家路につく中、獲物を捕らえようと廊下の一角に身を潜めるひとつの影があった。
『おー!E君、今帰り?』
影の正体は営業部の男。いい獲物を見つけると、わざとらしく偶然を装い声をかけた。
『おつかれさまです!ちょうど今帰るところです』
『そっかそっか。まだ19時だし、今日どう?』
男は、グラスをくいっと上げるような仕草をしてみせた。こうなると後輩は、特別な理由がない限り、飲み会に付き合うことになる。『今月厳しいので』と断れば『そんなのは俺が払ってやる』とあっさり解決されてしまう。どうしても回避したければ『先約が』『用事が』と、考える前に自然に出てくる必要があるが、Eにとっては非常に高度な技術だった。頭の中が全て顔に出てしまう不器用な男なのだ。
結局Eは先輩の強引な誘いに負け、飲み会に参加することとなった。
しかし飲み会とは口実で、もっと重要な、別の目的があることにKは気づいていた。
翌日19時ごろ。仕事を終えたKはパソコンを閉じ、かけてあったコートを手に取るとオフィスを後にした。廊下の角にさしかかった時である。
『あ、K君おつかれ!今帰り?』
「おつかれさまです。帰りです。少し急いでいるので」
"まずい"とKは思ったが、出会ってしまったならしょうがない。この場から一刻も早く立ち去る他ない。軽く会釈をして歩き出そうとしたKの腕を、男が掴んだ。
『ちょっとちょっと。K君に相談があって声をかけたんだ。技術のことで分からないことがあってさー。少しだけ教えてくれない?』
「業務時間外ですよ。メールしてくれれば明日中に確認するので。それでいいですか?」
Kは、冷たく突き放すように言った。
『はいはい。それじゃあ、明日中の回答よろしくね〜』
男は呑気にひらひら手を振ると、思いの外あっさりと去っていった。翌朝には約束通り、男からのメールが届いており、Kは考えた。
"あの男は営業2課の人間。人手が不足している防衛チームの人員確保に駆り出されているという噂は、やはり本当だったのか。のこのこと騙されて、あの激務の部署に飛ばされてはたまったものじゃない"
男は防衛チームの回し者だったのだ。"活きがいいのを捕まえてこい"という命令のもと『やりがいがある』『給料が上がる』などと、後輩たちに甘い誘いを囁き回っているのだ。この手の役割は大体が、相手に警戒心を与えない、ノリが良く顔の広い人間が選ばれる。
つまり男の本題は、技術についての質問ではなく、Kを防衛チームに誘い込むことにある。
Kは、そんなこと微塵も気づいていないといった様子で、質問に簡潔に回答した。しかし、ここで簡単に諦めるような男ではない。すぐに届いた返信には、こう書かれていた。
"ありがとう、助かったよ!ところで、今の部署退屈じゃない?もっとやりがいのある部署を紹介することもできるから、いつでも相談してね"
きた、とKの胸は高鳴った。まんまと餌に飛びついた魚を見るような気分だった。この場合の対応策はすでに頭にある。
Kは返信しなかった。怪しい勧誘は早く切り上げるに限るからだ。少しでも親切心を見せれば、相手は隙を狙ってつけ込んでくる。
だが男も負けてはいない。営業で鍛えられた粘り強さで、幾度もKとの接触を図った。
"おつかれさま!こないだの質問への回答、一箇所不明点があって"
"おつかれさま!今日の夜、空いてない?K君に紹介したい女の子がいるんだけど"
"おつかれさま!もうひとつ技術に関する質問があって、下のURL確認して回答ください!あ、ちなみに前言ってた部署、給料も結構上がるみたい。出世コースらしいよ!気になったら連絡してね"
メールは連日におよんだ。しかし、恋愛に興味なく、のんびり与えられた仕事だけしたいKにとって、出会いも出世も給料アップも、魅力的には映らなかった。
KはURLに目をとおすと、クリックしようとした手を止め、男への返信をうった。
"申し訳ありませんが、私の業務外ですので、ちゃんと上を通してください。これ以上個人的な質問が続くようであれば報告させていただきます。あと、このURLは詐欺の可能性がありますので、以後開かない方がよろしいかと"
Kの返信に男からの反応はなかった。やっと解放されたと、Kも気に留めず数ヶ月が過ぎた。
ある日の昼下がり。Kは会議室に呼ばれた。
『K君、いきなりで申し訳ないが、君には春から防衛チームに異動してもらう』
予想外の言葉にKは驚愕した。
「な、なぜですか?!!上手く回避していたはずなのに‥‥」
『ん?何の話だい?防衛に行くのがそんなにいやかね』
「あ、いや、まぁ。突然のことで驚きました」
『実はね、我々は半年にわたりある実験を行っていたのだ』
「‥‥実験?」
『あぁ。年々増加するサイバー攻撃、詐欺、悪徳商法、反社会的勢力から我が社を守るためには、セキュリティ意識の高い人材がそ必要だ。しかしながら結果は残念なものだった。最後にはみな、甘い誘いに負けてしまうのだ。君ひとりを除いてはね』
Kは全てを理解した。営業部の男の執拗な誘いは、社員のセキュリティ意識を実験するためのものだったのだ。
そしてKは、実験の唯一の通過者となってしまった。
『危機管理能力に長けた君こそ、防衛チームにふさわしい人間といえよう。喜びたまえ!君の出世は間違いなしだよ。未来は明るい!』
会議室には部長の高らかな声が響き渡り、Kは誘いにのっておくべきだったと、ひどく後悔した。




