プロローグ
英国、ロンドン郊外。
テラスハウス、英国式の長屋の一室で、一人の少年。橘川 一之助がソファに体重を預け、唯一の明かりである間接照明のオレンジ色の光に照らされながら天井を見つめる。
「......」
カチ、カチ、と時計の秒針が動く音だけを聞きながら、一之助は目を閉じる。その直後、彼が右手に持つスマートフォンが振動し始め電話の着信を知らせるメロディーを鳴らす。
ゆっくりと右手を上げた一之助は、電話をかけてきた人物の名前を確認する。『園田さん』という名前で登録されている人物からの着信だった。
『もしもし、一之助くん? こんばんわ』
一之助がスピーカーモードで電話に出ると、スマートフォンからは凛とした雰囲気のある女性の声が響いた。
「おはようございます、園田さん」
スマートフォンをソファの上に置き、一之助は挨拶をする。
電話の向こう側、園田と呼ばれた人物はロンドンに居る一之助に対してこんばんわと言ったが、園田は東京に居ることを知っている一之助はおはようございますと返した。
三月の英国と日本との時差は九時間。ロンドンでは夜の十時であるのに対して、日本は朝の七時であるため互いに気遣った結果の奇妙な会話に、二人はどちらからともなく笑い始めた。
『ふふ、元気にやってるかしら?』
「もちろん。というか、つい数日前もそれ言われてますけど」
一通り笑った後に、園田は一之助に対し優しい声で問いかける。
電話越しでも目を細めながら優しく笑っている彼女の姿が想像されるが、一之助はそれに対して呆れ笑いをしながら返す。
『そう? この歳になると、忘れごとが多くて』
「いや園田さんまだまだお若いじゃないですか。お綺麗ですし」
『上手ね。伊達に六年間も英国で育ってないって感じよ』
「それはあんまり関係ないと思いますけど......」
落ち着いた声色からは想像も出来ない茶目っ気を持つ園田。一之助にとって彼女は、頼りになる母親とも、年の離れた優しい姉とも言える存在。
そんな彼女の雰囲気が代わり、仕事モードに入ったということを、一之助は園田の息遣いでそれとなく察した。
『さて。それじゃあ本題に入るわ』
「はい」
『今の一之助くんの立場を端的に説明すると、やはりこのままイギリスでのキャリアを続けることは難しいわ。フットボール国際規約第十九条の規約が変更されたことで、六年前のことを規約違反の移籍としてぶり返されてる』
園田の言葉を聞いた一之助は、顔をうつむかせる。
フットボール国際規約第十九条とは、十八歳以下の未成年サッカー選手。つまり現在十六歳である一之助を含めた少年たちを保護する条約である。その内容は、未成年選手の国外移籍を禁止するというもの。
しかしこれにはいくつかの例外があった。例えば、欧州内で十六歳以上の場合や、選手の居住する国が国境から一定の距離内であり、移籍先クラブも一定の距離内である場合など。
そして一之助の場合は、また別の例外で世界有数の名門であるイギリスのクラブ。ロイヤル・レッドのアカデミーに所属していた。
『それまでは選手の両親がフットボールと関係なしに新しいクラブの国へ移住した場合、この規約に違反することはないとされていた。けれど、規約変更により両親の移住から最低二年は移籍を禁止することになったの』
「つまり、母さんの転勤でイギリスに移住した直後にこのクラブのアカデミーに所属したオレは、例外に認められない、と......」
『......とても馬鹿げている話だけどね。クラブも、もちろん私も一之助くんの件に関しては全くの別問題と抗議したわ。けれど一之助くんが日本に居る時にロイヤル・レッドFCアカデミーの日本キャンプに参加していたことで、スペインで起きたあの一件と同じだと疑われている』
スペインで起きた一件。それは近年のフットボール界最悪の事件と言われた、スペイン北東部の名門クラブによる国外の未成年選手大量誘致である。
それまで一之助にも適応されていたフットボール国際規約第十九条の例外の一つ。選手の両親がフットボールと関係無しに新しいクラブの国に移住した場合は例外として移籍を認める、というものを悪用し、世界各国の有望な未成年選手の両親に接触してスペインでの仕事を与える代わりに子供をクラブの育成組織に入団させるというもの。
特に南米などの貧困区出身の選手を持つ家族にとって断ることは難しい提案であったが、実態としてクラブは飛行機のチケットだけ渡してスペイン国内で仕事を与えることはせず、規約の例外を悪用したということに加え、選手もその家族も右も左もわからぬ異国の地で、選手に大きなプレッシャーがかかった状況を意図的に作り出したとされ大きく問題視された。
これを重く受け止めた国際フットボール連盟は、該当するスペインのクラブに様々な処分を与えたうえで、第十九条の例外に選手の両親が移住してから最低一年は移籍を禁止すると言葉を付け加えた。
そして過去の事例として問題視されたのが、一之助である。
彼の所属するロイヤル・レッドFCは、サッカーをしたことがあるなら誰しも一度はクラブの名前を聞いたことがあるほどに有名。それだけの名門であれば、ヨーロッパ内はもちろん日本などのアジア地域のサッカー関係者は、自国の選手によりレベルの高い指導を受けさせるためにシーズン外にクラブのアカデミーコーチ陣を招待してトレーニングキャンプを開催することがある。
そのロイヤル・レッドFCのトレーニングキャンプに当時十歳の一之助は参加しており、最優秀選手賞を受賞していた。そして運命のいたずらか、その僅か数カ月後に母親の英国転勤が決まったことでアカデミーの入団テストを受け合格。今に至っていた。
『国際フットボール連盟には、一之助くんのお母さんの会社からもフットボールとは関係のない転勤であるということを証言してもらったし、そもそも一年間もフットボールを禁止される選手のことを想定していないと反論したけれど。結局......』
「駄目、でしたか」
『......うん。一之助くんには即座に十八歳まで日本国外のクラブでの公式戦出場及びトレーニングの禁止、ロイヤル・レッドFCにも一之助くんのプレーと現在結んでいる奨学金契約を継続させるなら補強禁止処分等を下すという返事だけだったわ。......ごめんなさい』
「......園田さんが謝ることじゃないですよ! これは仕方のないことですし!」
努めて明るく振る舞った一之助だが、爪が真っ白になるほどに拳を握りしめ、悔しさに瞳を滲ませる。
ロイヤル・レッドFCは一之助にとって憧れであり敬愛するクラブ。参加するために決して安くない金額が必要になるため母親に言えず諦めていたトレーニングキャンプも、彼は諦めきれずに努力し幼少期に所属していた地元クラブから推薦をもらって参加していた。
それまでテレビの画面越しに見ていたクラブのシャツを纏い、そのエンブレムのために戦うということは彼にとってこれ以上無いほどのモチベーションであり心の支え。それを突然奪われたにも関わらず、一之助は自分の感情をぶちまけることはせずに堪えた。
「園田さん、本当にありがとうございました。これからも、オレの代理人として色々お世話になるかと思いますが。よろしくお願いしますね」
『......もちろん。一之助くんの夢が叶うことが、私の夢だもの』
「ははは、ありがとうございます。それで、今日電話してきたのはそれだけではないんですよね?」
一旦処分のことは忘れようと、一之助は園田に問いかける。
元々、この時間に電話をしたいというアポイントメントを園田から一之助に取っていたのだ。処分内容をただ伝えるだけ、ではないということを見抜いていた一之助に、園田はふっと小さく笑ってから続ける。
『ええ。一之助くんの今後についてよ』
「今後、ですか」
『もちろん今すぐに決めろ、とは言わないわ。クラブ側も未来である一之助くんを守るためならば処分を受けることも辞さない覚悟を持っているし、あなたが望めばこのまま英国で。ロイヤル・レッドFCのアカデミーでトレーニングを続けることも可能よ。けれど、それ以外の選択肢があることも伝えておきたくて』
園田の言葉に、一之助は目を閉じて考える。
それ以外の選択肢とはつまり、日本でプレーを続けるということ。様々な感情の中で、ひとまずは聞いてみようと一之助は『お願いします』と返事をする。
『一之助くんには、どこから嗅ぎつけてきたのか日本リーグのユースチームから、高校サッカーの強豪校まで様々なところからぜひうちでと話が来ているわ。一部のクラブからは即座にプロ契約を結びたいという話も出ているし、高校からも特待生として高校生活に掛かる全費用の免除も』
「なるほど......」
『もちろん全ての決定権は一之助くん自身にあるわ。あまりにも考えなしのオファーは弾いているけれど、私の方で県別にかかってきたオファーをまとめたのを後で送っておくから、じっくり考えてちょうだい。希望するクラブや高校があれば教えてね、こちらからオファーして内容も交渉するから』
「いえ。聞いたうえで園田さんからしばらくお仕事を奪ってしまう形になって本当に申し訳ないんですけど。オレは日本ではプレーを続けません。かといって、このままロイヤル・レッドにとどまることもしません」
一之助の出した答えに、電話越しで園田は言葉を詰まらせる。
もしかして自暴自棄になっているのでは、と園田が焦りだしたところで、一之助は落ち着いて自分の思いを告げる。
「オレはロイヤル・レッドを心の底から愛しているんです。サッカーは好きですけど、それ以上にロイヤル・レッドFCという存在がオレの中で大きなものなんです。だから、こんな形でロイヤル・レッド以外のシャツを着ることは絶対に嫌なんです。ロイヤル・レッドにとってオレが不必要になるその時まで、オレの忠誠心は変わりません」
『一之助くん......』
「十八歳になった時、ロイヤル・レッドの扉が開いているかはわかりません。でも、開いてなかったら叩くまで。幸い奨学金契約とスポンサーさんとの契約でそれなりにオレ自身の収入もありますから。といってもイギリスだと物価高いですし、国際フットボール連盟に目を付けられたくないので日本に帰って貯金を切り崩しながらトレーニングを続けようかなと」
未来を見据えた一之助のプランに、園田は安堵のため息をつく。
と同時に、電話に拾われないほど小さな声で『強くなったわね』と呟いたあと、ある提案をする。
『それはとても素晴らしい考えね。けど、一之助くんの代理人としてではなく一人の大人として。園田 京香として言わせてもらうと、あなたの選択はお母さんの同意がないとないと認められないわ』
「まあ、自分でもめちゃくちゃ言ってることはわかってるので。母さんともちゃんと相談はします」
『それならよかった。でも、それだけじゃなくて。ちゃんと日本でも高校に通うこと。希望があるなら私の方で色々と問い合わせしてみるけど、学校にこだわりが無いのなら一つ提案をしてもいいかしら』
「え? はい。もちろんです」
『私と一之助くんのお母さん、ハナさんとも知り合いの人が学園長をやっているところがあるの。帝都桜華学園、略称を帝桜学園というんだけど。東京都だし、もし高校がどこでも良いならそこでどうかしら?』
「ていおう......なんか強そうっすね! そこでいいですよ!」
いくらサッカー選手として成熟し、ロイヤル・レッドFCの未来と見られていても。一之助とて弱冠十六歳の少年。
帝都桜華学園の略称を聞き、なんか強そうという浅い考えで即決。
あまりの決断の速さに園田は驚くが、それを出さないようにしてから話をまとめる。
『わかったわ。それじゃあ、もし一之助くんの気が変わってもいいように届いてるオファーも後で送っておくわね。転入日は決まり次第知らせるけれど、試験とかは心配しなくて大丈夫。そっちの学校での成績は聞いているし、きっと問題ないから』
「はい。母さんには、明日の朝......えっと、日本だと夕方くらいに話してみようと思います。今日はもう疲れて寝ちゃってるので」
『私の方からもハナさんに連絡はしておくわ。それじゃあ、お疲れ様。しっかり寝てね』
「園田さんもお仕事頑張ってください。お疲れ様です!」
『うん。またね』
そこで電話を切る一之助。ふう、と一息着いて立ち上がり、体を伸ばす。
カーテンを開き、窓の外から差し込む月明かりに目を細める。曇り空の多いロンドンでは珍しく、よく晴れた夜空は真っ黒で月だけが煌々と輝いている。
「日本、か。元気してっかな」
一之助は、自分が母親とともにイギリスに旅立つ直前。泣きながら見送ってくれた幼馴染のことを思い出す。
当時の彼が住んでいた場所は神奈川県で、日本に帰ってから通う予定の高校は東京。その幼馴染には一之助から連絡しなければ出会うことはないだろうが。なぜか一之助には、幼馴染とはすぐに会えると予感していた。
「明日はお別れの挨拶してくか。つか眠い、もう寝よう」
ボソボソと独り言をつぶやきながら、一之助はカーテンを閉めて自室へと戻っていく。
この時の彼は、何も知らなかった。自分がこれから通う帝都桜華学園のことも、そこで起きることも。




