第44話 黒柱の夜襲
影より速く
夜は冷たく澄み、王都の上に針のような星が散っていた。
帝国が外環に建てた黒柱は、等間隔に立ち、地脈と風脈を縫い留める“鉄の結界”となって街を締め上げている。
昼は圧、夜は衰弱。息をつく間を与えない、見えない包囲だ。
「一本だけでは意味が薄い。最低三本――北、北東、東。連鎖の核を断つ」
指揮所の暗い地図に、クラリスが細い刃で三点を刻む。
「時間は?」アレンが問う。
「月が雲に隠れる間。十七分」
「足りるか」
「足りさせるのよ」
遊撃長ギルバートが笑った。「いい響きだ。やるしかねぇ」
夜襲隊は三つに分かれた。
アレン隊――斬り込みと撹乱。
クラリス隊――術式逆噴の中枢破壊。
支援隊――聖女エリナによる静音の祝祷と、ミーナの気付薬、弓兵の遮断射。
門が音もなく開く。
最強夫婦は視線を交わし、うなずきだけで意思を合わせた。
「行く」
「ええ」
黒の畑
最初の黒柱は北の凍土の畔に立っていた。
近づくほどに、音が薄くなる。草は息を殺し、水の流れは針のように細る。
柱の根には影部の小隊。寝ていない。夜は彼らの昼だ。
エリナが掌を重ね、小声で詠む。「――《静かなる歩み》」
足音が雪へ沈み、吐息が月明かりに映らない。
アレンは銀の刃を寝かせ、柱の根を一度だけ見た。
「芯が二重になってる。外から叩いても弾かれる」
「中を膨らませる」クラリスが低く答える。「《逆薪》の“熱楔”を、芯の継目に入れるわ」
影部の哨戒が振り向いた瞬間、銀閃がひとつ。
喉の影が静かに割れ、音は生まれない。
「左二、右三」アレンの囁きに、弓の弦がほとんど鳴らない音で応じる。
影が倒れ、柱の根だけが夜に残った。
「入れる」
クラリスの指先に、極小の紅が宿る。
火でも、炎でもない。熱そのものを刃にして、石の目へ押し込む。
黒柱が低くうなる。
アレンが上段から袈裟に叩く。
刃は弾かれなかった。亀裂が、夜の中でしゅう、と白い息を吐く。
「一本」
崩れ落ちる黒の光が地に散ると、凍土の上を薄い風が走った。
風の音――それだけで、夜が少し柔らかくなる。
走る影、走る火
北東柱は丘陵の陰。見張りは三倍、術兵付き。
接近前に気配を断たねばならない。
ギルバートが肩の大槌を外し、にやりと笑う。「三、二、一――」
彼は叩かなかった。投げた。
槌は柱に当たらず、脇の共鳴盤へ。
甲高い偽の鳴動が黒柱の調律を狂わせ、術兵の詠唱が半拍ズレた。
その半拍の間に、クラリスの「熱楔」が入る。
アレンが裂く。
弓兵の矢が、反射で目を閉じた術兵の喉を射抜く。
「二本目!」
夜気の圧がわずかに緩む。
遠く王都の屋根瓦が、息を吐くみたいにきしんだ。
「次――東だ」
最短路は小川の浅瀬。だが黒柱の周りは泥。足を取られる。
アレンは迷わず膝を濡らす。
「冷たい?」クラリスが問う。
「生きてる」
短いやり取りの中に、何度も死地を越えた互いの温度だけが揺れた。
無冠の予防線
東の黒柱には、影部でも近衛でもない、別の匂いがあった。
輪郭の薄い男たちが、柱の周りに円を描いて座っている。
詠っていない。黙っている。
――沈黙詠唱。自我と術式を結び、言葉を要らなくする帝国の禁技。
クラリスは一瞬、足を止めた。
「セイルの対策……“言葉を切る”」
アレンが頷く。「だったら、俺たちは“目”で斬る」
合図と同時に、矢が円の外周に“影”を作った。
座した男が一様にそちらへ顔を向ける。
その視界の中心へ、アレンが踏み込む。
銀の刃が描く円弧が、静かな輪座をひとつ、ふたつと断ち切っていく。
同時にクラリスは詠唱を捨て、掌で熱を組む――《素手の紅》。
言葉の代わりに呼吸で、図形の代わりに鼓動で、熱を柱の芯へ押し込む。
黒柱がひときわ高く唸り、空気が逆流した。
「――アレン!」
反射で身を入れ替える。
黒い杭が地から噴き、さっきまで彼の胸があった空間を貫いた。
「近い」アレンは短く吐き、もう一歩。
刃が芯へ届く。
ヒビは踊り、夜が――割れた。
「三本!」
圧がほどけ、風が王都の屋根を撫でた。
遠くの鐘楼が、誰にも命じられず一度だけ鳴る。
街が「息」を取り戻しつつある証だった。
返礼
引き際。
撤収の合図が指で切られた瞬間、丘の上に黒い旗が一本立った。
――合図ではない。罠でもない。
高く掲げられた黒旗の陰から、光のない目がこちらを見ていた。
「見ていたのね」クラリスの声は静かだった。
セイル・オルドリック――無冠の詠唱。宰相は今夜も仮面をつけない。
「見に来た。言葉が要らない夜を、君たちがどう越えるかを」
「越えたわ」
「越えた。だから返礼を」
足元の地面が、まるで皿のように反転した。
沈黙詠唱の群れが一斉に指を下ろし、地脈の“滞り”を逆回転させる。
王都側へ――風と音と疲労が、黒柱の鎖が切れた反動で奔流を成して押し寄せる。
エリナが悲鳴に近い声を上げた。「市内の傷が開く――!」
アレンは即座に叫ぶ。「戻る!」
セイルの目が薄く笑う。「走れ。光はいつも急がされる」
帰還の走り
帰路は行きより長い。
王都に近づくほど、ほどけた圧が“反動”となって荒れていた。
屋根瓦が一枚ずつ滑り落ち、古い壁がひび割れて粉を吐き、灯が風に煽られて倒れる。
避難所の子どもが泣き、年寄りが膝を抱える。
「クラリス、先に!」
アレンが背を押す。
「一緒に」
「任せろ、ここは通す」
狭い路地に黒衣が三。
影部か――いや、違う。
布の縁が粗い。帝国に“借りられた”ただの街賊だ。
「退け」
銀が一度だけ鳴り、路地が空になる。
広場。柵が倒れ、火が広がる。
クラリスは膝をつき、両掌を地へ。「《逆薪》――街式」
熱の流れを逆に、風の流れを並行に。
炎は伸びたい方向へ導かれると弱る。
火が自ら細くなり、井戸の縁で息を吐いた。
子どもが泣き声を飲み込み、エリナが抱き上げる。
「持ち直す!」ミーナが叫んだ。「でも傷が――」
「巡回と包帯を倍に。夜明けまでにひとつでも“戻る音”を街に増やすのよ」
クラリスは嗄れた声で、それでも笑顔で指示を飛ばし続ける。
武具庫の灯
武具庫の奥、ギルバートが火床を起こしていた。
折れた槍、刃こぼれの剣。
彼はひとつを掴み、炉の口へ入れた。「王が折った黒柱の鉄、もらってきたぜ」
「使えるの?」ミーナが目を丸くする。
「使うんだよ。呪いの鉄も鍛ち直しゃ“約束の鉄”になる。俺たちの手でな」
火花が上がる。
彼の打つ槌音が、救護所の子どもの寝息と、遠い鐘の一打と、外の巡回の靴音と、きれぎれに重なる。
街が、少しずつ“自分の音”を取り戻していく。
疲弊の朝
夜が明けきらない灰の時間。
塔の上、アレンとクラリスは肩を並べて東を見ていた。
黒柱のうち三本は折れ、街の上の圧は明らかに軽い。
だが帝国の陣は整然と残り、遠い野に黒い点列が増え続けている。
「今日も来る」
「ええ」
短いやり取りの後、アレンは静かに笑った。
「でも、昨夜より息ができる」
クラリスも笑う。「息ができれば、言葉が届く」
そこへ伝令が駆け上がる。
「報告! 北の丘に旗……ベルシュタインの青旗! 援軍です!」
続けて別の伝令が叫ぶ。
「交易路の封鎖が一部崩れました! セラフィードの商隊が“義捐”の名目で糧食を運び込んでいます!」
歓声が塔の下から湧き上がる。
「届いたのね……」クラリスの目尻に涙が光った。「言葉が」
アレンは頷き、剣の柄を叩いた。
「夜に折ったのは柱だけじゃない。孤立の筋もだ」
黒冠の視線
帝国本陣。
宰相セイルが静かに報を置く。
「三本折られました、陛下。圧は三割減。街は“声”を取り戻しつつあります」
帝王シグマールは短く頷いた。
「ならば増やせ。柱を倍に。術兵を四割、無声へ移行。……そして、こちらも“声”を使おう」
「御自ら?」
「否。お前だ、セイル。彼らの“希望”がどれほど耐久か、言葉で確かめよ」
セイルの瞳がかすかに揺れる。
「承知しました」
夜の合間の誓い
日中の攻勢は苛烈だった。
黒柱の反撃で街の端が二度沈み、救護所に人が溢れ、鐘は鳴り続けた。
それでも折れない理由を、アレンとクラリスは知っている。
夜に取り戻した“息”と“音”が、人の中で燃え続けているからだ。
夕暮れ、塔の陰。
アレンは片膝をつき、クラリスの前で手甲の紐を締め直した。
「今夜も行く」
「今夜も折る」
「戻る」
「必ず」
二人は掌を重ね、言葉を交わすより確かな合図を結んだ。
――最強である前に、夫婦であること。
それが、この戦の芯だ。
影の壇
夜。王都の外、低い丘に黒い壇が組まれた。
上に立つのは冠なき宰相。
彼は街へ向かって一礼し、声を放つ。
「追放者の国の民へ。昨夜、君たちは息を取り戻した。
ならば問おう――明日も息ができる保証はあるか?」
街のあちこちで足が止まり、顔が上がる。
セイルの声は不思議なほどよく通り、しかし耳に優しい。
「希望は美しい。だが、希望は“選ぶ力”だ。
誰かに与えられるものではない。君たちは選んだか? 王と王妃に頼るのではなく、自分の明日を」
ざわめき。
動揺。
アレンは塔の上で拳を握った。
「上手いな……」
クラリスは首を振る。「違う。“正しい”のよ。だからこそ、返す言葉もまた、正しくなきゃいけない」
彼女は壇へ歩み出た。
声を張らない。囁くように、しかし一人ひとりへ届く調子で。
「私は王妃。希望を“与える”役割に見えるでしょう。
でも違う。私ができるのは、希望が燃える場所を“空ける”こと。
炎は、あなたが選んで持つものよ」
静寂。
次いで、街角で一つ拍手。
井戸端で一つ。
軒先で一つ。
拍手は点から線になり、線から面になる。
“もらう”のではない、“持つ”。
その実感が、夜風に灯った。
セイルは細く息を吐いた。
「……美しい」
「あなたの言葉も」クラリスは微笑む。「だから――負けない」
宰相は夜に溶けた。
言葉の一合は、今夜は引き分け。
だが“持つ”火は、確かに増えた。
新しい朝
夜明け。
黒柱はまだ数多く立っている。帝国の陣も深い。
だが、街に流れる空気は昨日と違った。
武具庫の音、救護所の笑い声、露店の茶の湯気。
人の音が、帝国の圧を押し返す。
伝令が駆けてくる。
「東の村落が、避難民の受け入れと粥の炊き出しを申し出ています!」
「北西の谷で、かつての追放騎士団――“灰の旗”が自主的に警邏を開始!」
クラリスが目を潤ませる。「広がっていく……」
アレンは剣の背で肩を叩いた。
「行こう。今夜も柱を折る。明日も息を増やす。
――積み上げるんだ、勝利が“当たり前”になるまで」
王都の上で旗が鳴った。
最強夫婦の紋章旗。
その下で、人々は自分の手で灯を持ち始める。




