踊る駒
宮司との対話から一週間が過ぎた。
私は言いつけ通り、黙々と雑用をこなしている。境内を掃き、薪を割り、時折白露の手伝いをする。余計な詮索はしない。余計な質問もしない。
服装も変わった。白露が用意してくれた作務衣のような和服だ。動きやすく、この世界の人間と見分けがつかない。
少なくとも——表向きは。
「一皇さん、少し休憩にしましょう」
白露が湯飲みを持ってきた。私は斧を下ろし、縁側に腰を下ろす。
「ありがとう」
「......最近、元気がないように見えるわ」
白露の声には心配の色が滲んでいる。私は視線を落とし、小さくため息をついた。
「......そうかもしれない」
「宮司様に何か言われたの? あの日から、一皇さん、どこか様子が変だから」
「いや......別に」
私は言葉を濁す。視線を合わせず、湯飲みの水面を見つめる。
「......ただ、少し考えていた。自分がこの世界でどう生きていくべきか。魔法も使えず、力もない。宮司殿の言う通り、私は雑用として生きていくしかないのかもしれない」
白露の表情が曇った。彼女は何か言いたそうに口を開き、しかし言葉が出てこないようだった。
「......ごめんなさい。私が余計なことを聞いたせいで」
「いや、君のせいじゃない」
私は弱々しく笑ってみせた。
「現実を受け入れるのに、少し時間がかかっているだけだ」
ふと、白露の目に複雑な影が過ぎった。
「......一皇さん。あなたは、強い人ね」
「強い? 私が?」
「以前にも、転移者の方がこの神社に来たことがあるの。祖月輪さんという方」
祖月輪。
帳簿に記されていた名前だ。『神社に馴染もうとしたが、魔法が使えぬことを悲観し自死』——あの祖月輪直治か。
「その人は......どうなった」
白露は答えなかった。ただ、悲しげに首を振る。
「......あなたには、同じようになってほしくないの」
その言葉を残して、白露は去っていった。
私は彼女の背中を見送りながら、思考を走らせる。
祖月輪直治。白露は彼のことを知っている。そして、その死を——悲しんでいる? 悔いている?
宮司が見せた帳簿。あの記述を読んだ時、老人の目に一瞬だけ浮かんだ痛みの色。
この神社で、祖月輪直治に何があった?
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夜。離れに戻る。
白露が言っていた祖月輪という転移者。彼のことが気になっていた。
この部屋には、私が来る前から誰かが手入れをしていた形跡がある。畳は古いが清潔だ。押し入れには使い古された布団がある。
......誰かが「住んでいた」痕跡。
もし祖月輪がこの部屋にいたなら、何か残されているかもしれない。
私は部屋を探り始めた。畳の裏、押し入れの奥、天井板——どれも空振りだ。日記や手紙の類は見当たらない。おそらく、宮司か白露が処分したのだろう。
だが、私は諦めなかった。
祖月輪も私と同じ転移者だ。同じ境遇に置かれた人間なら——同じ発想をするはずだ。
もし自分が最期を悟り、何かを残したいと思ったら。
表に出る場所はダメだ。見つかれば処分される。だが、いつか同じ部屋に住む誰か——同じ転移者には伝えたい。
なら、どこに刻む?
普段は目に入らない場所。だが、部屋を丁寧に調べれば——必ず見つかる場所。
私は視線を落とした。柱の下部。畳との境目から少し上。普段は立って生活するから、誰も見ない高さだ。
私は這いつくばり、柱の根元を調べた。
——あった。
小さく、浅く、爪か何かで彫ったような傷跡。普段の目線では絶対に気づかない、柱の最も下の部分。
『此処にて終わる。何も成せず、何も残せず。祖月輪』
私は傷跡に指を這わせた。確かな刻み跡。爪が折れるほどの力で、最後の言葉を残そうとした痕跡。
祖月輪直治の遺言。
読み通りだった。同じ転移者だからこそ——同じ発想で隠し場所を選んだ。
だが、その内容を見て、私の中に湧き上がったのは同情ではなかった。
......苛立ちだ。
祖月輪直治。お前は何故、諦めた?
魔法が使えない? 当然だ。転移者は皆そうだ。
だが、お前にも元の世界で培った知識があったはずだ。この世界の住人が知らない何かを、持っていたはずだ。
なぜそれを使わなかった?
......いや。使おうとして、失敗したのか? 誰かに潰されたのか?
宮司か?
思考が広がる。仮説が枝分かれする。
だが、今は情報が足りない。祖月輪直治の死の真相を探るには、もっと材料が必要だ。
私は柱の傷跡から目を離し、天井を見上げる。
祖月輪直治。お前のことは覚えておこう。お前の失敗から、私は学ぶ。
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翌日。
私は薪割りをしながら、神社を訪れる参拝客を観察していた。
噂は広まっているようだ。「転移者が来た」と。
視線を感じる。好奇と同情が入り混じった目。この世界において、転移者は珍しい存在ではないが、目を引く存在ではあるらしい。
だが、その中に一人だけ、違う目で私を見た者がいた。
中年の商人風の男。身なりは良いが派手ではない。商売人特有の愛想の良い表情を浮かべながら、しかしその目だけは——冷静に、私を値踏みしていた。
あの目は覚えがある。私自身が宮司を見た時と同じ目だ。
「この人間は使えるか?」
そういう目。
男は参拝を終え、去っていった。だが、帰り際に一瞬だけ——本当に一瞬だけ——私と目が合った。
偶然か? いや、あれは意図的だ。
何者だ、あの男は?
そして——なぜ、転移者である私に「利用価値」を見出そうとした?
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夕刻。
母屋から、声が聞こえる。
「......その様子では、もう余計な企みはないようだな」
宮司の声だ。
「はい。一皇さんは......少し落ち込んでいるようでした。魔法が使えないこと、力がないことを、ようやく受け入れ始めたのではないかと」
白露の声。予想通りだ。
「ふん。転移者など皆そうだ。最初は足掻くが、やがて現実を知る。祖月輪の時と同じだ」
祖月輪。また、その名前だ。
宮司の声には、かすかな——本当にかすかな——苦さが混じっていた。
「......宮司様。祖月輪さんのことは——」
「あれは仕方がなかった。我々にできることはなかった」
その言葉は、白露に向けたものか。あるいは——自分自身に向けた言い訳か。
私は唇の端を僅かに持ち上げた。
分かった。
祖月輪直治の死は、宮司にとって「傷」だ。彼は合理的に正当化しようとしているが、完全には割り切れていない。
私は離れに戻りながら、今日見聞きしたことを脳内で整理する。
状況は悪くない。
白露は私を「哀れな存在」と見ている。彼女の同情心が、私の「弱っている演技」を宮司に伝えてくれた。彼女は自覚なく、私の情報操作に加担している。
そして宮司は——私を「屈服した転移者」と見なし始めているようだ。「祖月輪の時と同じだ」という言葉。あれは経験則だ。過去に見てきたパターンを、今の私にも当てはめようとしている。
その経験則が、彼の目を曇らせている。
だが、気になる点が二つある。
一つは、祖月輪直治の死。宮司は「仕方がなかった」と言いながら、声に苦さを滲ませていた。あれは完全には割り切れていない傷だ。いずれ、使い道が見つかるかもしれない。
もう一つは、あの商人だ。
私を値踏みしていた男。素性も目的も分からない。だが、転移者である私に「利用価値」を見出そうとした。つまり、彼にも何らかの思惑がある。宮司の監視網の外から現れた、未知の変数。
警戒すべきか、利用すべきか——まだ判断できない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
宮司は私を「魔法の使えない弱者」としか見ていない。だが——私には、この世界の誰も持っていない武器がある。
転移者は「何も持たない」と思われている。その固定観念こそが、私の最大の武器だ。
離れの戸を開け、中に入る。柱の傷跡が目に入る。祖月輪の遺言。
私は畳に座り、目を閉じた。
頭の中に、一つの構造が浮かび上がりつつある。
まだ輪郭は朧げだ。欠けているピースがある。だが——骨格は見えてきた。
宮司を排除するだけなら簡単だ。彼の「格」への執着を利用し、スキャンダルを起こせばいい。だが、それでは私に残るものがない。私は引き続き「雑用係」のままだ。
必要なのは、排除ではなく「支配」だ。
宮司を失脚させるのではなく、彼を——彼の立場、彼の人脈、彼の資源を——私のものにする。
そのためには、彼が「自発的に」私を必要とする状況を作り出さなければならない。
どうやって?
まだ分からない。だが、材料は揃いつつある。
祖月輪直治の死。宮司の罪悪感。あの商人。白露への信頼。そして——この神社と外の世界を繋ぐ何らかの利害関係。
点と点を繋ぐ線が見えれば、面が浮かび上がる。面を重ねれば、立体が現れる。
私はこれを——彫刻に例えている。
一つ一つの情報を削り出し、形を整え、やがて完成形に至る。
今はまだ、粗削りの段階だ。
だが、完成すれば——宮司は気づくだろう。
自分が座っていた盤上が、実は私の掌の上だったことに。
私は目を開け、柱の傷跡に視線を向けた。
祖月輪直治。お前は「何も成せなかった」と刻んだ。
私は違う。必ず成す。
そして——お前の無念も、いずれ使わせてもらう。




