老狐
離れでの生活が始まって三日が経った。
私に与えられた仕事は、境内の掃除と薪割りだった。単純労働だ。だが、私にとってはこの上ない情報収集の機会でもある。
掃除をしながら神社の構造を把握する。薪割りをしながら、出入りする人間を観察する。白露との会話から、この世界の常識を少しずつ吸収する。
全ては計画通り——のはずだった。
「一皇。こちらへ」
四日目の朝、宮司が私を呼び出した。
案内されたのは、母屋の奥にある書斎だった。壁一面に書物が並び、中央には重厚な机がある。宮司はその机の向こうに座り、私を見上げた。
いや、見上げてはいない。座っているのに、見下ろされているような感覚がある。
「座れ」
促されるまま、私は宮司の正面に腰を下ろした。
「三日間、お前の働きを見ていた」
宮司は静かに切り出した。
「真面目に働いている。文句はない」
「ありがとうございます」
「だが——」
宮司の目が細まった。その瞳の奥に、冷たい光が灯る。
「お前は掃除をしながら、神社の構造を調べていたな。薪割りをしながら、参拝客を観察していた。白露との会話も、世間話ではなく、情報収集が目的だろう」
心臓が跳ねた。
だが、表情には出さない。出してはならない。
「......何のことでしょうか」
「惚けるな」
宮司の声は穏やかだった。だが、その穏やかさがかえって恐ろしい。
「転移者は皆、最初は絶望するか、取り乱すものだ。だがお前は違った。土下座をしてみせ、雑用を受け入れ、淡々と働き始めた。普通ならば、それは強さと見える」
宮司は一度言葉を切り、茶を一口すすった。
「だが私には、計算に見えた」
沈黙が落ちる。
私は黙ったまま、宮司を見返す。否定しても無駄だ。この男は確信を持って言っている。
「お前は頭が回る。それは認めよう。だが——腹の内が透けて見えておるぞ」
その言葉で、私は理解した。
読まれていた。意図を。
土下座をした瞬間から——いや、おそらくその前から。私が「従順な弱者」を演じていることを、この老人は見抜いていたのだ。
「お前に一つ教えてやろう」
宮司は机の上に一冊の帳簿を置いた。
「これは神社の参拝記録だ。過去五十年分の客人の名前と、その素性が記されている」
私は帳簿を見つめる。それが何を意味するのか、まだ分からない。
「この神社には、数年に一人、転移者が流れ着く。お前のように空から降ってくる者、山の向こうから彷徨い歩いてくる者、様々だ。そして——」
宮司は帳簿を開いた。
「その全員を、私は見てきた」
ページには、名前と日付、そして短い記述が並んでいる。
『山田一郎。転移者。三日で発狂。追放』
『鈴木次郎。転移者。窃盗を働き追放。後日、野盗に殺されたとの報告』
『祖月輪直治。転移者。神社に馴染もうとしたが、魔法が使えぬことを悲観し自死』
背筋が冷たくなった。
これは——脅しか。
「お前は今、私を利用できると考えているだろう」
宮司は帳簿を閉じ、私を真っ直ぐに見据えた。
「私の『格』への執着を弱点と見なし、いずれ何らかの形で利用しようと企んでいる。違うか?」
......読まれている。
二日目に分析した内容を、そっくりそのまま言い当てられた。
「お前の考えは分かっている。だからこそ、はっきり言っておく」
宮司は立ち上がった。その動作には、老人とは思えない威圧感がある。
「お前を生かすも殺すも、私の胸三寸だ。この神社で生きていきたいならば、余計な知恵を働かせるな。お前は雑用として黙って働いていればいい。それ以上を望むな」
完全な宣告だった。
私は抵抗の言葉を持たない。抗弁しようにも、材料がない。この男は私の数十倍の情報を持ち、数十年の経験を持ち、この世界における圧倒的な立場を持っている。
「......承知しました」
私は頭を下げた。今度は土下座ではなく、座ったままの礼だ。だが、その意味するところは同じだ。
敗北の承認。
「よろしい。下がれ」
私は書斎を後にした。
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廊下を歩きながら、私は思考を整理する。
負けた。
認めよう。私は宮司を侮っていた。「格」への執着という分かりやすい弱点に目を奪われ、この老人の経験と洞察力を過小評価した。
彼は転移者を何十人も見てきた。その中には、私のように「計算高い」者もいただろう。彼らはおそらく、私と同じように宮司を出し抜こうとし——そして、潰された。
帳簿の記録がそれを物語っている。発狂、追放、自死。転移者の末路は、どれも悲惨だ。
つまり、この老人は「私のような人間」への対処法を熟知している。
「一皇さん」
白露の声で、思考が中断された。
「宮司様に呼ばれていたと聞いたけれど......大丈夫?」
彼女の瞳には、心配の色が浮かんでいる。
「ああ。仕事の確認をされただけだ」
「そう......。あの、宮司様は厳しい方だけれど、本当は——」
「白露」
私は彼女の言葉を遮った。
「宮司について、あまり話さない方がいい。余計なことを吹き込んでいると思われたくないだろう」
白露の表情が強張った。図星だ。
おそらく、宮司は白露にも釘を刺している。私に余計な情報を与えるな、と。だから彼女は三日間、核心に触れる話題を避けていたのだ。私が気づかなかっただけで。
「......ごめんなさい」
白露が小さく謝った。
「謝ることはない。君も立場があるんだろう」
私はそう言って、彼女に背を向けた。
離れに戻りながら、私は宮司の言動を反芻する。
完敗だ。情報戦で負け、心理戦で負けた。彼は私の手の内を読み切り、先手を打ってきた。
だが——
私は立ち止まった。
本当に「完敗」か?
思い返す。宮司の言動を、一つ一つ。
彼は私を「脅した」。帳簿を見せ、転移者の末路を示し、「生かすも殺すも私の胸三寸」と言った。
なぜだ?
本当に私が無価値な存在なら、脅す必要はない。追い出せばいい。殺せばいい。それをしないのは——
「できない」か、「したくない」か、どちらかだ。
できない可能性。神社の巫女である白露が私を見つけ、保護した。この事実は既に神社の内外に知れている可能性がある。その状態で私を追放すれば、「神社は慈悲がない」という噂が立つ。宮司が最も嫌う事態だ。
したくない可能性。......これは分からない。だが、宮司が私を残す「理由」があるとすれば、それは何だ?
転移者は「何も持たない」。それは事実だ。だが——現代日本の知識と技術を持っている。
宮司はそれに気づいているか?
いや、気づいていないはずだ。彼は私を「計算高い小僧」としか見ていない。現代知識の価値を、まだ理解していない。
これは使える。
私は離れの戸を開け、中に入った。
負けた。それは事実だ。情報量で、経験で、この世界での立場で、私は宮司に遠く及ばない。
だが、彼は一つだけ見誤っている。
私を「想定内の変数」として扱っている。転移者を何十人も見てきたからこそ、私も同じだと思い込んでいる。
違う。
私は彼らとは違う。 確かに、現代日本の知識を持つ者は他にもいただろう。だが、彼らの知識は『曖昧な記憶』止まりだ。 私の知識は、実用可能な武器だ。 科学、工学、化学、心理学。あらゆる事象を論理的に分解し、再構築できるレベルまで体系化された学知を、私は頭の中に格納している。
宮司はそれを知らない。知っていても、その価値を正確に測れない。
今日の敗北で分かったことがある。
この老人は、「人間」を読むのは上手い。だが、「知識」の価値は読めない。彼の強さは経験則に基づいている。だからこそ、経験則の外にあるものには対応できない。
そして、もう一つ。
帳簿を見せた時、宮司の目が一瞬だけ動いた。
『祖月輪直治。転移者。神社に馴染もうとしたが、魔法が使えぬことを悲観し自死』
この一文を読んだ時、宮司の瞳にかすかな——ほんの一瞬だけ——痛みのような光が浮かんだ。
後悔? 罪悪感? 分からない。だが、あれは演技ではなかった。
覚えておこう。
宮司は今日、私を手玉に取った。だが同時に、自分自身の情報も漏らした。
これが長期戦になることは分かっていた。今日の敗北は想定内だ。想定が甘かっただけで、方針は変わらない。
盤面を読み、リソースを計算する。勝率の確度が飽和した時——
誰も想定し得ない『解』を代入する。
私は静かに目を閉じ、明日の労働について思考を巡らせた。
今日の損失は、未来のリターンを確定させるための先行投資だ。それが私の計算式だ




