はじまり
シャーペンの芯が折れる乾いた音が、静寂な部屋に響いた。
机の上には数学の参考書と、書き殴った計算用紙が散乱している。私は折れた芯を無造作に払いのけ、新しい芯を繰り出した。
大学へ行く。それは夢や希望といった曖昧な感情に基づくものではない。将来、金に困らない生活を確保するための、極めて合理的な投資だ。高校を中退し、高認試験をパスした18歳の私にとって、学歴というパスポートは効率よく社会の階段を登るための必須アイテムに過ぎない。
時計の針が22時を回ったのを確認する。
これ以上の学習は脳のパフォーマンスを低下させるだけだ。私は参考書を閉じ、明日のスケジュールを脳内で反芻しながらベッドに潜り込む。感情の起伏など必要ない。常に冷静に、淡々とタスクをこなすだけだ。
意識が闇に溶けていく。それはいつも通りの、味気ない夜のはずだった。
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違和感は、鼻腔をくすぐる井草の香りから始まった。
重たい瞼を持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、見慣れた白い天井ではなく、太い梁が走る木造の天井だった。体を起こすと、そこは私の部屋ではなく、古風な和室の中だった。
「……なんだ、ここは」
夢か? いや、五感が拾う情報はあまりに鮮明だ。布団の感触、空気の冷たさ。私は自分の体を確かめる。着ているのは、昨晩寝る前に着ていたスウェットのままだ。
状況が理解できない。私は感情を排し、現状の分析を試みる。誘拐? いや、身代金を要求されるような資産家の息子ではない。イタズラにしては手が込みすぎている。
その時、障子が静かに開いた。
「あら、目が覚めたのね」
現れたのは、雪のように白い髪をした少女だった。
年齢は私と同じくらいか。だが、その風貌は明らかに日本人離れしている。にもかかわらず、彼女が身にまとっているのは巫女装束のような和服だった。
奇妙なのはそれだけではない。彼女は私を見るなり、その美しい瞳を細めた。そこにあるのは敵意でも好意でもなく...深い哀れみだった。
「あなたは……誰だ」
「言葉が通じてよかったわ。私の名は白露。この神社の巫女を務めているわ」
白露と名乗った少女の日本語は、奇妙なほど丁寧で、それはまるで教科書のような「キチンとした日本語」だった。
「あなたが神社の前で倒れているのを見つけたの。空から光が降りてきたと思ったら、奇妙な格好をしたあなたがそこにいた」
彼女は私の服装を一瞥し、ふう、とため息をついた。
「あなた、災難だったわね」
「災難? どういう意味だ」
「単刀直入に言うわ。あなたは『転移者』よ」
転移者。聞き慣れない単語ではないが、フィクションの世界の話だ。私が眉をひそめると、彼女はさらに残酷な事実を告げた。
「この国はね、かつて異世界から来た『転生者』様が建国された国なの。だから日本語が通じるし、文化も似ているわ。でも、あなたは違う」
彼女は一歩近づき、赤子をあやすような優しさで言った。それが私には酷く癇に障った。
「『転生者』様は、神に選ばれ、肉体を作り変えられてこの世界に来る。だから強大な魔法の力を持ち、人々から尊敬されるわ。でも、『転移者』は違う。元の世界の肉体のまま、何も持たずに放り出される。つまり――」
白露は言葉を切り、慈悲深い瞳で私を見下ろした。
「あなたは、この世界で最も弱く、無力な存在ということよ」
最も弱く、無力な存在。
その言葉が突き刺さる。魔法の才能も、身体能力の強化もない。現代日本の知識と、この貧弱な肉体だけが私の全てだというのか。
普通ならここで絶望するのかもしれない。あるいは、「なぜ自分が」と運命を呪うのかもしれない。だが、私の内側から湧き上がってきたのは、恐怖でも絶望でもなく、冷ややかな怒りだった。
私を哀れむような。その同情に満ちた目がとても不愉快だ。
「……そうか。状況は理解した」
私は短く答えた。声は震えていないはずだ。
魔法がないなら、知識を使えばいい。力が弱いなら、道具を作ればいい。 この世界が私を最弱と定義し、排除しようとするなら、私はその上を行く計算と打算で、この世界をねじ伏せるまでだ。
「とりあえず、現状を把握したい。ここの地理、社会情勢、それと……金になる仕事について教えてくれ」
私が淡々と尋ねると、白露は驚いたように目を丸くした。
「あなた、随分と……落ち着いているのね。普通はもっと取り乱すものだと思うのだけれど」
「取り乱して事態が好転するならそうするが、時間の無駄だ」
私の視線を受け、白露の表情から同情の色がすっと引いていく。彼女は初めて私を「弱者」としてではなく、理解の及ばない「異物」として認識したようだった。




