9、夫が私のファンでした
衝撃と疲労はそのままに、サイン会から帰宅したセレナを待っていたのは件の夫だ。同じ家に住んでいれば当然のように思えるが、結婚してから今日まで顔を見ない日の方が多かった。
「君にこれを」
そうして手渡されたのは発売されたばかりの自著である。
(これはっ、お前の正体を知っているってこと!?)
脅迫かと身構えるセレナにラシェルはさらりと続ける。
「リタ・グレイシアの新刊だ」
(いや知ってますけど!)
誰よりもと言いかけて、慌てて言葉を呑み込んだ。
「屋敷にこもっていては退屈だろう。君も読むといい」
「ありがとう、ございます……?」
そしてラシェルは混乱するセレナを置き去りに仕事へ向かう。意図がわからず、セレナは一晩中本を睨む羽目になった。
だがいつまでも恐怖に震えるつもりはない。帰宅したのなら真意を探ろうと待ち構えていれば、驚くことに訊ねて来たのはラシェルの方からだ。
「読んだか?」
顔色を変えることなく短く問われる。そういうところが冷血公爵と呼ばれる原因だろうと警戒しながらセレナは呟いた。
「はい。何度も……」
「なに!?」
その瞬間、鋭く睨まれたセレナは慌てて言い直した。
「あ、その、素晴らしかったので何度も」
この本をではないが、何度も読んだのは事実である。
(というか書きましたし)
「それで?」
「それで?」
「どう感じた」
「どう!?」
真顔で問いかける夫に理解が追いつかない。
やはりこれは尋問か。真意の読めない眼差しが続きを促してくる。
「それは……とても、素晴らしかったです」
羞恥と戦いながら当たり障りのない回答をすれば、ラシェルの眼差しが足りないと訴える。
無言の圧を感じたセレナは重い口を開いた。
「け、契約結婚をした二人が、すれ違いながらも絆を深める展開には心が躍りました。ようやく気持ちが通じ合いながらも陰謀に巻き込まれた際には、まさかの悲劇かと手に汗握りましたが、力を合わせて黒幕を糾弾する姿は爽快で。困難を乗り越え真の夫婦となった二人に拍手を送らずにはいられません。やはり幸せな結末は心が温まると言いますか」
言ってやった。恥ずかしいけれど言ってやった。セレナは羞恥で顔が赤くなるのを感じる。
しかしラシェルの様子もおかしい。
「そうか!」
「ひっ!?」
突然強く手を握られたセレナは驚きのあまり叫んでしまった。
「君にもわかるか。リタの素晴らしさが!」
少し前まで無機質にセレナを見下ろしていた瞳が輝いている。
(え? え?)
思わず疑問符を連発してしまう。そうしている間にもラシェルの勢いは止まらず、日頃淡々としている口調には熱がこもる。
「ああ、その通りだ。苦難は多くとも、その先に幸せが待ち受けている。リタ・グレイシアの物語はそこがいい。君が気に入ったシーンはどこだ?」
「へっ!? あ、えっと……契約結婚するシーンが忘れられないですね」
こちらも気合を入れて書いたのでとは言えず、視線を彷徨わせながら答えた。
そうしている間もラシェルは真正面から見つめて来るので逃げられない。
「確かにあのシーンには痺れた。気の強い主人公だが、大切なもののために引かない姿勢に好感が持てる。では八章はどうだ?」
「八章というと、二人で出席したパーティーで事件に巻き込まれた」
「その通りだ。俺は八章で二人が本当の夫婦たる絆を得たシーンが忘れられない」
「たとえ本当の夫婦ではなくとも、この命は貴方に捧げると決めました――心を揺さぶる素晴らしい台詞だと思います。それまでゆっくりと改善されていた関係が、大きく変わったシーンですね」
「ああ。窮地の中で語られた想いには胸を打たれた。絶対に幸せになってくれと二人を応援したものだ。思い返せばデビュー作『王女の婚姻』でも王女と王子の気持ちが通じ合うまでの描写が素晴らしかったな。儚げに感じられる王女が実はお転婆で、時折城を抜け出すという意外性も魅力だ。特に忍んで城下を訪れるシーンでは」
唖然としていると、ようやくラシェルがこちらの困惑に気付いてくれる。そして目が合うとわざとらしい咳払いが一つ。
「すまない。取り乱した」
夫の新たな一面に、取り乱していたのかと遅れて理解する。
「その、君もリタを気に入ってくれて嬉しかった。執事から何か贈り物をしてはどうかと言われたが、女性の喜びそうなものはこれしか思いつかなかった」
「私を、喜ばせようと?」
(脅しじゃなくて?)
それが真実なら、気遣いのある夫に愛人疑惑を向けたことが申し訳なく思えてきた。
「どうした? まさか体調が悪いのか!?」
「いえ、全くもって健康ですよ」
(ちょっと旦那様の豹変ぶりに驚愕していただけで)
正直に話したつもりだが、どうやらまだ疑われているらしい。じっと探るような眼差しが向けられている。
「執事から顔色が悪かったと報告を受けている。辛いことがあるのなら遠慮なく言ってほしい。俺は君に生活を保障すると約束している」
(あー……それは完全に締め切り前の寝不足ですね)
セレナは気まずさに視線を逸らす。だがその態度が不安を煽ってしまったらしい。
「頼る者がいない環境で心細いのもわかる。だが安心してくれ。誰も君を無下に扱うつもりはない」
ラシェルは信じてもらおうと必死に言葉を重ねてくれる。
「モニカは何をしている? 君が心細くないようにと伯爵家から連れて来たのだろう」
モニカまで悪者にされそうになったのでセレナは慌てて否定した。
「違うんです! 本当に、私は健康で、あれは仕事の不健康が祟ったといいますか」
「そういえば君はレスタータ家の事業を手伝っていると聞いたが」
「そうなんです! 色々とあれこれの処理が重なってですね、大変だったのでやつれて見えたのかと!」
今度からはしっかりと化粧で誤魔化してから部屋の外に出よう。モニカの化粧技術は素晴らしい。
そして徹夜もほどほどにしよう。あとこれが一番難しいけれど、原稿は計画的に。
ただし言い訳をさせてもらえるのなら、進行は順調だった。しかし直前に不備が見つかり、大慌てで対応した結果である。
「ですからモニカは何も悪くありません。本当によくやってくれていて、旦那様が公爵家でも雇ってくれたことに感謝しています。使用人のみなさんも親切で、これでも仲よくさせてもらっているんですよ?」
ラシェルは知らないだろうが、既に菓子を持参して女子会に混ざるほど仲よくさせてもらっている。
「それに旦那様がこうして気にかけてくださいます。私、旦那様と結婚できて幸せですよ。辛いことなんて何もありません」
「そうか」
精一杯伝えると、ラシェルはどこかほっとしたように見える。
(もしかして旦那様、私が幸せだと知って安心した?)
だとしたら彼は昔と変わらない、優しい人のままだ。
セレナは幼い頃に出会った小さな姿を思い出す。