30、ラシェルの観劇
ラシェル側の話です
妻と観るはずだった舞台に妻が出ていた。
何を言っているのか自分でもわからないので一度状況を整理させてほしい。
リタ・グレイシアのデビュー作『王女の婚姻』の舞台化が決まってから、ラシェルは己が冷静ではない自覚があった。
一日ごとに過ぎて行く日付を数え、あと何度眠れば公演日になるのかと興奮を抑えるのが大変だった。
そうして待ち焦がれた当日。一緒に観劇することになっている妻は直前まで仕事の予定があるらしく、劇場で待ち合わせていた。
(開演までの時間をともに過ごせたら良かったが)
多くを望み過ぎだと自分を戒める。実家の仕事の手伝いで忙しいと説明されたのだから仕方がない。
その人気ぶりから暴動が起きてもおかしくない舞台のチケットを手に入れることができただけで幸運だ。おまけに隣にはリタ・グレイシアの理解者であり、妻となってくれたセレナがいる。ともに舞台を見届けられるだけで満足しなければ。妻に呆れられないためにも聞き分けの良い夫を演じたい。
そうして一人劇場へと足を運び、通された特等席。しかしそこに現れたのはセレナではなく侍女のモニカだった。
「来られなくなった?」
端的に用件を告げたモニカはよほど急いでいたのか息が上がっている。おまけに随分と焦っているようだ。事故か事件か、最悪の想像をしてしまった。
「セレナは無事なのか!?」
衝動的にモニカの肩を掴んでいた。責めるつもりはなかったが、意図せず口調がきつくなる。
すると本人も言葉が足りなかったことに気付いたのか、焦って訂正してくれた。
「ご安心ください! セレナ様はご無事でいらっしゃいます。言葉が足りず、申し訳ございませんでした。仕事の都合で、どうしてもこちらへ向かうことができなくなってしまったのです」
申し訳なさそうに謝罪するモニカを前に、ひとまずセレナが無事である事に安堵する。
「セレナ様から伝言を預かりました。ご一緒することができず申し訳ありません。どうか私の分まで楽しんでくださいと」
モニカは動揺するラシェルを刺激しないよう、丁寧に頭を下げる。そうして慌ただしく主人の元へ戻ると告げ、去って行った。
ラシェルが知ることはないが、舞台裏では一人でも事情を知る者の手を欲していたのだ。
この日のために手に入れた特等席は、邪魔の入らない個室仕様となっている。セレナと最大限に舞台を楽しむための空間だったが、一人取り残されては孤独を感じるばかりだ。
しかし開演の時間は迫っている。モニカを見送り、入口から動けずにいたラシェルは奥へと進む。舞台を取り囲むように二階、三階と設けられた鑑賞部屋からホールを見渡した。
深紅の幕が下りた舞台は沈黙しているが、一階に広がる客席はすでに人で埋め尽くされている。その中には知っている顔もあり、みな伴侶や友人たちと楽しそうに会話を弾ませていた。
(そういえば、今日は王妃様も来る予定だとセレナが教えてくれたな)
この公演の知らせを聞いた時、真っ先にセレナの顔が浮かんだ。以前の自分なら、誰かと一緒にという発想を抱く事はなかっただろう。しかし今回は当たり前のようにセレナが隣にいることを想像していた。
(セレナの分まで目に焼き付けよう)
ラシェルは強く決意する。
やがて開演の時間が迫り、幕が開く前の静寂は痛いほどの緊張を伝えてくる。心臓の鼓動が煩いくらいだ。きっと隣にセレナがいたのなら、一人で抱えきれずに手を握っていただろう。
演じるのは主演のエレインを筆頭に実力者ばかり。歴史の有る劇団員たちだ。何も心配することはない。
事前の情報によるとリタが脚本も担当しているというので、これから目撃するのは歴史に名を残す舞台になるだろう。
徐々に明かりが落ちる会場に息を呑む。
暗転し、暗闇に目が慣れた頃。観客は舞台の中央に妖精を見た。
白いドレスを身に纏い、そこに立っていたのは亡き王女セレスティーナだった。
化粧で似せているとはいえ、本物ではないことは明らかだ。この場には彼女を知る貴族もいて、自分もその一人のはずだった。
しかしセレスティーナはそこに存在していた。
仕草や立ち居振る舞い、存在感に放つ空気。何もかもがセレスティーナを連想させる。かつて誰もが魅了された妖精姫が微笑んでいた。
リタの本でも描写されていたが、春が訪れる様な笑顔は瞬きを惜しむほど美しく、うぬぼれかもしれないが、ラシェルはその瞬間彼女と目が合ったような気がした。
おそらくこの場にいる人間はセレスティーナの登場だけで心を掴まれただろう。しかし物語は始まったばかりだ。
陽気で温かな王国を表現するような音楽、華やかな舞台セットは視覚からも楽しませてくれる。
これまで何度となく読んできた物語が、今目の前に広がっている。溢れ出す感動は開演数秒から涙を誘い、早くも感極まって泣きそうだ。そのたびにラシェルは一秒たりとも見逃してなるものかと自身を叱りつけた。
「ルクレーヌへようこそ!」
ピンクの髪に、穏やかで無邪気な笑み。軽やかな淡いドレスを纏い、春を告げるような存在。エレイン・バークスではないようだが、素晴らしい役者だとラシェルは感心していた。おそらく別室で見守る王妃殿下も同じことを思うだろう。
もちろん声はセレスティーナと違っているが、落胆ではなくむしろ引き込まれるような安堵感がある。
そう、この声は自分のよく知る――
「セレナ?」
舞台上から妻の声がした。
正直、今すぐ飛び出してモニカを問い詰めたい。なぜもっと詳しく事情を聞いておかなかったのか。
(いや待て。セレナの実家はレスタータ家。レスタータ家はリタ・グレイシアの書籍を発行する印刷会社を所有している。つまり広く言えばセレナもこの公演の関係者と言えるだろう。おそらく主演のエレインに不測の事態が起こり、代役も機能していなかった。困り果てた公演関係者が、たまたま観劇に訪れていたレスタータ家の令嬢を担ぎ上げたということか?)
本人にとっては憶測の域を出ないが、ラシェルの想像は見事に当たっていた。
(急な代役を完璧にこなすとは素晴らしい!)
セレナが演じるセレスティーナは完璧だ。幼い頃に抱いた妖精姫への感動が見事に再現されている。
(まさかセレナに演技の才能があったとは)
妻の素晴らしさを自慢したくなった。
しかし舞台が進むにつれ、だんだんと心が曇っている事に気付く。
たとえば妖精姫と呼ばれながらも、お転婆な一面を持つセレスティーナがお忍びで街を歩くシーン。
冒頭で披露した見事なドレスを脱ぎ捨て、町娘のように庶民に溶け込む服装だ。
(だがその愛らしさは隠せていない!)
ラシェルは強く感想を念じる。会場で叫ばないようにするのに苦労したほどだ。
それはさておき、同じくお忍びでルクレーヌを訪れていた王子と出会い、かけがえのない時間を過ごす。後に伝説となる二人が出会う名場面だ。
本を読んでいる時は絶賛していたが、目の前で繰り広げられる逢瀬には心を乱される。
(……距離が近くないか?)
舞踏会で圧巻のダンスを披露しても、王子に微笑まれ求婚されても、婚姻が決まりともに祖国を発つことになっても、どのシーンでも素晴らしいという感嘆の次に不満が湧く。
どれも小説で何度も読み返した感動的なシーンだ。舞台上ではまさに王子がセレスティーナを自らの妻と宣言している。
(ああ、そうか。彼女は俺の妻なのだから)
手の届かない人になってしまったようで、寂しいのだろうか。
そんな感想を抱きながらも、舞台の二人は異国に旅立ち幸せな結婚生活が始まろうとしていた。
物語が終わると拍手が会場を埋め尽くし、役者たちが一人ずつ舞台に現れ、深く頭をさげている。
最後は主演のセレスティーナ役のようだが、最後まで正体が明かされることはなかった。それはまるで幻の妖精姫のようだと誰かが言った。
惜しみない拍手を送りながらもラシェルは叫びたくてたまらない。素晴らしい舞台を観ることができた感動、見事な演技で舞台を守った妻の偉業。しかし残念ながらこの場に想いを分かち合える相手はいないのだ。
久しぶりの更新にもかかわらず、さっそく読んで下さった方がいて嬉しかったです。
ありがとうございます!




