2、前世と今生
かつてルクレーヌ王国には、セレスティーナという名の王女がいた。
白い肌に薄く色付いた唇。花の化身のような淡いピンクの髪に、眩い黄金を閉じ込めた瞳。可憐な容姿は微笑めば春が訪れると称えられ、その美しさは妖精姫と謳われるほど人々の心を魅了した。
心の優しい王女は民を愛し、民からも愛される。妖精姫の名は他国にまで届き、王女の婚約者に名乗りを上げたのは海を越えた大国の王子だった。
セレスティーナは十七の年に愛する婚約者元へ旅立つことが決まる。
祝福された婚姻だった。婚約者を迎えに現れた王子が手を差し伸べると、二人は幸せそうに微笑み合う。その様子は絵画にも収められ、物語の主人公のように王女は幸せになると誰もが信じていた。
ところが船は酷い嵐に襲われ、王女が異国の地に降り立つことはない。妖精姫は嵐の海に消え、セレスティーナの名は悲劇の王女として人々の記憶に刻まれた。
セレナ・レスタータが伯爵令嬢として生を受けたのは、そんな悲劇の王女がこの世を去った日のことだ。そのせいか王女の存在が過去として語られるようになっても、セレナの心には絶えずその名が刻まれている。
セレスティーナの母である王妃ネヴィアもまた、彼女の存在を過去として扱うことができない一人だ。
ネヴィアは娘を失った悲しみから笑顔を失くし、愛する妻のため国王は『王妃の心に寄り添い笑顔を取り戻すことができる者』を探し続けた。
大人たちはあらゆる手段を講じたが、未だ笑顔を取り戻すことはできていない。そこで子供たちにも希望が託されるようになった。
十五の誕生日を迎えたセレナはレスタータ伯爵家の娘として城に招待され、歌とピアノを披露することになっている。
(王女殿下も歌とピアノが得意だったから、みんな私に期待しているのよね)
痛いほどの視線を浴びながらも、不思議と緊張することはなかった。
まずは両陛下に挨拶をしてお祝いの言葉をいただく。そして予定通り演目を披露してお辞儀をする。何故か昔から人前に立つことには慣れていたので、落ち着いていられた。
ところが二人の前に立った瞬間セレナの心は激しく揺さぶられた。
(え――?)
十五年、セレナ・レスタータとして生きた日々の中に新たな景色が見える。
ルクレーヌの王女として生まれたこと。
家族に愛されて育ったこと。
民を慈しみ、王女としての責務を果たそうとしたこと。
そして――
婚約者の暮らす地に向かう途中、船が嵐に襲われたこと。
婚約者に裏切られた最期と、最悪な初恋の記憶が一瞬にしてよみがえる。
(私はセレスティーナ。この人たちは私の!)
目の前にいるのはかつての両親。最期の瞬間に望んだことが、セレスティーナとしてではなかったけれど叶ったのだ。
前世を思い出したセレナは溢れる思い出に涙を流す。
「どうした?」
かつて父として愛情を注いでくれた人の声で我に返る。
申し訳ありませんでしたと涙を拭い、改めて頭を下げた。本来光栄なはずの場で涙を流せば困惑して当然だ。
どんな時でも完璧な振る舞いを。それは国の代表として当然の行いであると、生まれ変わっても身体に染みついている。
けれど本当は、今すぐ叫んでしまいたい。
(お父様、お母様! セレスティーナはここにいます!)
真実を伝えたのなら、母は笑顔を取り戻してくれるだろうか。セレナの心は揺れていた。
前世を取り戻した混乱。二度と逢えないと思っていた人たちを前にした喜び。溢れる感情を落ち着かせようと、伏せた瞼の下で呼吸を整える。
ところがセレナが頭を上げるよりも早く、その仕草を目にしたネヴィアが動揺して席を立つ。
「あなた……!」
顔を上げるとネヴィアの戸惑った瞳と重なる。
面影は変わらず、美貌は衰いを感じさせないが、十五年前と比べて随分と疲れて見えた。
「貴女、セレナ・レスタータだったわね。セレスティーナに会ったことは……いえ、何を言っているのかしら。あの子の姿と重なって見えるなんて」
セレナが言葉を発する前にネヴィアは可能性を否定する。当たり前だ。生まれ変わりなんて簡単に信じてもらえるはずがない。
母の瞳に映る今世の自分を意識すると、続けようとしていた衝動は簡単に途切れてしまった。
(顔も声も違う。本当に私がセレスティーナだと信じてもらえるの?)
今生の母から譲り受けた容姿に不満はないけれど、かつて妖精姫と呼ばれた頃を思えば、随分と平凡な髪色だ。同じく母譲りの瞳からは、可憐とは形容しがたい活発さを感じる。
(ただ悪戯に悲しませるだけかもしれない)
結局セレナは歌もピアノも披露せず、具合が悪いと伝えてその場から逃げるように帰宅した。幸い突然泣き出したおかげで不審がられることもなかった。
「私、どうすればよかった?」
ベットに寝転ったところであとから押し寄せるのは後悔だ。
名乗り出た方がよかったのか、黙っている方が正しかったのか。きっと答えは誰にもわからない。けれどこのままではいられないという気持ちが燻っている。
「私がお母様のためにできることはない?」
前世も今世も関係なく、あの人を笑顔にしたいという気持ちは本物だ。セレナは自分にできることを必死に考えた。
「これまでにもお母様を笑わせようと集まった人はたくさんいたわ。きっと歌やピアノを披露した人も。でも誰もお母様の心に寄り添うことはできなかった。なら、娘だった私には何ができる?」
悩んでいると、前世の家族を思い出してまた涙が溢れる。次があるのなら、泣いて上手く話せないかもしれない。
「あ! 言葉で伝えられないのなら手紙を書くのはどうかしら。私はあなたの娘ですって?」
それで笑ってくれるのならいくらでも書くけれど、信じてもらえるだろうか。
纏まらない思考で部屋を眺めていると、本に埋め尽くされた棚が目に入る。レスタータ家は印刷業の支援も行っており、セレナは子供の頃から本に囲まれて育った。
「セレスティーナだった頃も本が好きだったわね。お母様も」
王女として自由の少ない身に、本はたくさんの夢を見せてくれた。母とは夜通し感想を語り合ったこともある。
恥ずかしくて人には言えない趣味だったけれど、自分で物語を書いたこともあった。旅立つ前に全て処分したはずだが、今となっては惜しい事をしたとも思う。
「そうだ、物語!」
夢見ていた幸せな結婚とは違ったけれど、セレスティーナの人生は幸せなものだった。
悲劇と言われた王女も物語の中でなら幸せになれる。
セレナは飛び起きて机に向かう。伝えたい想いを形にするため徹夜でペンを走らせた。




