11、ラシェルの悩み
ラシェル側の話です
もう遅いからとセレナを部屋まで送ったラシェルは書斎に戻り、物言わぬ本棚相手に問いかける。もちろん相手はリタ・グレイシアの棚だ。
「俺は、何を……?」
あの時、無意識に伸びかけていた手を握る。我に返って押さえたが、妻の笑顔を目にした瞬間、触れたいという衝動に突き動かされていた。
初めて握った妻の手は小さく、自分のものとはまるで違う。強く握れば壊してしまうのではと不安になった。
「なんて細さだ。きちんと食べているのだろうか」
執事の話では部屋で食事を採ることも多く、顔色が悪い日もあるという。
「心配だ……」
呟いてから、どの口がと反省する。執事からの訴えがなければ妻について知ることはなかった。
執事から相談を持ち掛けられたのは数日前のことだ。
「旦那様。何か奥様に贈り物をされてはいかがでしょう」
幼い頃から仕えている執事は使用人を代表してきたと言う。
「何故?」
必要性を感じなかったラシェルは短く問う。特に機嫌が悪いということもないのだが、ラシェルの場合これだけで怯えられてしまうので困ったものだ。
しかし幼い頃から付き合いのある執事が冷血公爵に臆することはない。
「旦那様、奥様は伯爵令嬢から公爵夫人になられたのですよ。見知らぬ人間ばかりの屋敷に嫁いだ心細さはすぐに癒えるものではありません。実は、奥様はあまり眠れていないようなのです」
「どういうことだ?」
「夜遅くまで部屋に明かりが。食事も部屋で召し上がられることが多く、新しい環境に馴染めていないのかもしれません。先日お見かけした際は随分とやつれておられました」
ラシェルは自分に問う。最後にセレナの顔を目にしたのはいつだったか。記憶を探るも直ぐには思い出せそうにない。
契約上の妻ではあるが、身体にかかわることとなれば放っておけないだろう。
「彼女には実家から連れて来た侍女がいるだろう。きちんと仕事をしているのか?」
「モニカでしたら気立てもよく仕事熱心で、すでに昔から我が家で働いていたかのように馴染んでおります。奥様もモニカを常に傍に置き、信頼しているご様子でした。しかしモニカに聞いても心配することはないと言うばかりなのです。きっと我々に心配をかけないよう、気丈に振る舞われているのでしょう」
「そうだったのか……」
どうして気付けなかったのだろう。生活を保障すると宣言しておきながら体調を崩させてどうする。
自分も幼い頃は公爵家に引き取られたことで環境の変化に戸惑いを感じていたはずだ。それを指摘されるまで気付けなかったとは不甲斐ない。自分の都合を優先させるあまり目を向けようとしなかった。
「奥様は庭園の散策がお好きなようで、部屋を出られた際には私もお話させていただくのですが、とても礼儀正しく、私どもにも友好的に接してくださいます。ですから使用人一同、何かして差し上げたいと思ってしまうのですよ」
どうやら自分の知らないところで妻は随分と慕われているらしい。
「それで贈り物か」
「はい。せめて旦那様からの贈り物でお慰めすることはできないかと」
執事は改めてラシェルに向き合うと笑顔を見せた。それは主と使用人ではなく、家族のように温かいものだ。
「私は旦那様が幼い頃より仕えて参りましたが、旦那様は先代に似て心の優しいお方です。世間では心無い名で呼ばれているようですが、私どもにとっては尊敬すべきお方。だからこそ奥様にも誤解してほしくはありません。冷血公爵の呼び名を知っていては話しかけにくい事もあるでしょう。どうか旦那様から歩み寄って差し上げてほしいのです」
ラシェルは真面目だった。そして責任感も強かった。真剣な顔で頷くと、すぐに行動に移そうとする。
「話はわかった。俺もそうしたいと思うが、何を贈ればいいのだろうか」
「私もそういった方面には詳しくないのですが……女性に送り物といえば花、あるいは部屋で過ごされることの多い方ですから部屋を明るくするもの、退屈を紛らわせるものなどいかがでしょう」
とはいえ女性に贈り物などしたことがない。形式上の夫婦になったとはいえ、まともに会話したこともないので趣味さえ知らずにいる。初対面で求婚してからの速やかな結婚は、式も挙げていないので装飾品の好みもわからない。
相談を受けてから随分と頭を悩ませていたが、解決してくれたのはリタ・グレイシアのサイン会だった。彼女の手を握った瞬間、何故か妻の顔が浮かんだのだ。
(本を送ろう)
かつての自分も彼女の本によって救われた一人だ。
物心ついてからは、誰からも愛されることのない孤独を忘れようと物語に没頭した。物語の主人公は必要とされている。その姿がとてつもなく眩しく思えて羨ましかった。
公爵家に引き取られてからは周囲の期待に応えようと、知識を得るためにめあらゆる本を読みこんだ。貴族社会で生き抜くためには武器が必要だった。
(そしてリタ・グレイシアに出会ってからは……)
幼い頃、城で目にした美しい妖精姫。こんなにも美しい人がいるのかと、当時のラシェルは泣いていたことも忘れるほど見惚れた。
言葉を交わせば美しいだけでなく、心の優しい人だった。いつしか初めて城を訪れた心細さは消え、立ち上がれるようになっていた。
こんな自分を家族と呼んでくれた。いつかあの人に認められるような人間になりたいと、前を向くきっかけをくれた。
けれど彼女はもういない。失意に打ちのめされながら長い年月を過ごし、今思えば本に没頭していたのは彼女の死から目を背けたかったからという理由もあった。
夢中で勉強するうちに自分を嘲笑う声は聞こえなくなり、そうして十五年の時が経った頃、リタ・グレイシアと出会った。
彼女の紡ぐ物語は幸せを教えてくれた。『王女の婚姻』には何度涙を流しただろう。失われた王女の幸せがそこにはあった。セレスティーナ王女殿下の幸せを願う身としては涙失くして読むことはできない。
もしセレナがかつての自分のように苦しんでいるのなら、素晴らしい物語を知ってほしい。
何故こんな当たり前のことに気付かなかったのか、思い出させてくれたリタに深く感謝したい。
幸い書斎にはこれまで渡したくても渡す相手のいなかった布教用が眠っている。
「これを」
本を差し出すと妻は固まり困惑していた。ずっと自分を放ってきた夫からの贈り物だ。無理もないと同情するが、引き下がるわけにはいかない。
「一日中家にいては退屈だろう。これを」
そうして本に触れた手は日焼けを知らない小さなものだ。まさか握るとあれほど頼りないとは思わなかった。それはラシェルに昨日握ったリタ・グレイシアの手を思い出させる。
顔を見ることは叶わなかったがきっと妻のように華奢な人物なのだろう。あの手から心を揺さぶる物語が紡がれていると思うと、感動のあまりまともに話すことができなかった。
「冷血公爵の名が泣くな」
そう、リタに抱くのは強い尊敬と感謝だ。彼女の物語は孤独を癒やしてくれた。
それは先ほどセレナに感じた心の内から湧きあがる強い衝動とは違う。
「まさか俺と同等に読みこんでいるとは」
ラシェルにとって妻との会話は衝撃だった。
都合がいいからと選んだ相手に抱いた感想は、どこにでもいる普通の令嬢だ。それがああもはっきりと意見を口にできる人間であることにまず驚かされる。いつも部屋に閉じこもっていたので、勝手に物静かだと決めつけていた。
リタの小説について語り合うことは初めてではないが、どんな感想を告げても瞬時に答えが返ってくる。こんなにも誰かと話して楽しかったことも初めてだ。まるで全てを知り尽くしているかのような返答が心地良い。
同じように強くリタを崇拝する人物がいることを知り、その素晴らしさを再確認させられる。それと同時にそのような相手が傍にいてくれることが嬉しかった。
ラシェルはもう一度、本棚に向けて問いかけた。
「リタ・グレイシアよ、教えてくれ。君の本に登場した男たちもみな、このような感情を胸に抱えていたのだろうか」
初めて目にした妻の微笑みを思い出すと心が乱される。部屋を去ろうとする姿に名残惜しさを感じ、もっと傍にいてほしいと衝動的に引き止めようとしていた。身体の内側から満たされるような温かな想い。それでいて足りないと求めるような渇望が渦巻いている。
身を焦がす初めての感情にラシェルは一晩中戸惑い、交わることのなかった二人の関係はこの日を境に動き出す。
読んで下さいましてありがとうございます!
次の話からは、いよいよ短編後の内容になります。
やっとお届けできます!
短編から待っていてくれた方がおられましたら、届きますように。
そして連載版から知って下さった方たちにも楽しんでいただけますように。
この先の二人の模様も、お楽しみいただけましたら幸いです。




