自分で出来る事は自分でやる
経済的に有利で大学卒業の資格もとれて、将来は幹部自衛官になれる。一見すると良い事ばかりなのかも知れないが、見えない所で非常にその対価が小さくない事がよく分かる様になる。拘束されている期間が長く、一般のキャンパスライフとは程遠いと言う事は氷山の一角にしか過ぎない。体力的にも、学力的にもそれなりのレベルが求められる。国防に携わる人間として否応なく取り込まれて行く。
それが嫌だと言う人間は防衛大学校では存在出来ない。存在理由が薄れてしまうからである。明確な目標を持って自衛隊の幹部に成る事を、あるいはその先の目標を持っている人間だけが、学ぶ事を許される。それがナショナル・ディフェンス・アカデミーたる防衛大学校と言う学校の持つ特徴であろう。陸上要員であろうが、海上要員であろうが、航空要員であろうが、その根幹にある重要な支柱は同じである。
覚悟なき人間には次なるステージは容易されていない。防衛大学校とはそう言う場所である。海倉はすっかり防衛大学校学生の顔になっていた。3年生としてサイレント・プレッシャーとしてにらみを利かせつつも、きちんと自分の事は自分でやる。それが自然と出来ていた。防衛大学校の入学前とは比べ物にならないほど、自分で出来る事が増えていた。それは、誰のおかげでもなく、出来て当たり前の事でしかなった。高校生までの自分がその事に気付いていない。防衛大学校に来て自分の身の回りを自分で世話するようになって初めて、こういう事は自分で出来なくてはいけないと考える様になった。
それだけでも立派な成長である。防衛大学校は、上下関係にこそ厳しいものの、私用を後輩に任せる行為は禁じられている。自主自立が防衛大学校の理念であり、考え方でもある。ひいては、自衛隊と言う組織全体が自己完結能力の高い組織であり、自分の事は出来る限り自分でしなくてはならない。本来人間とはそうあるべきなのだが、知らず知らずのうちに甘えが出て来て妥協してしまうものなのかも知れない。