カッター漕ぐより勉強させろ
自分は精神的にも、肉体的にも参りかけている。疲労の蓄積、スタミナの不足や意欲の欠乏。海倉を苦しめていたのは、それだけではない。全長9メートルあるカッターは尾てい骨を支点に、長さ4.9メートルのオールに全体重を乗せて漕ぐ。当然の如く、支点部分は繰り返される摩擦の為に、擦過傷となる。海倉の場合は、尻の皮を擦りむき、悪化させて化膿する事を恐れて弱音を吐いている。防衛大学校学生でもこの様な体験をする。
4月27日、いよいよカッター競漕競技大会本番、海倉達のクルーは予選を何とか通過したものの、決勝では最後の粘り及ばず3位に終わった。レース終了後の海倉は、こう複雑な心境を吐露している。
「レース終了後は何とも言えない気持ちがある。まるで何もかもが終わったと言う虚無感。もう自分が黒部までカッターを漕ぐ事はないであろうと言う寂しい気持ちもある。競技終了後の内火艇によるポンドへの曳航。馬堀海岸から見上げた小原台、丘の上に連なる白亜の殿堂…。」
と、まるで詩人に成った様である。黒部とは、旗山崎沖1400メートルに立った石柱の事であり、短艇競漕の目標であり、海倉にとっては海との接点の事であり、シンボルでもあった。
5月の連休が明けると、機械工学の授業も海上要員としての訓練も本格化する事になる。海倉は、元来数学や化学や物理と言った、理数系科目はカッター訓練なんかより、問題を解く方がオールを漕ぐより好きな位であった。
それでも、大学の専門科目は、遥かに難解で付いていくのがやっとであった。それでも、海倉は必死で興味を持ち続け、自習でも重点的に勉強した。人間と言う生き物は不思議な生き物で、一度理解しようとして無理だった物でも、二度三度繰り返して定着させる事で不思議と身に付く事の出来る学習能力を持っており、防衛大学校クラスの専門科目であったとしても、毎日の学習をしていれば身に付くものである。




