防衛大学校初代校長槇智雄
戦前は旧陸軍重砲兵学校で敗戦後は、米国海軍に接収され、横須賀市旧軍港転換委員会の元で高級リゾート建設計画が進行中であった。
三方に海を見渡す雄大な環境に魅せられたと、新校舎候補地の選考に携わった人間は言う。北に東京湾、南に浦賀水道を眼下に見下ろし、西に富士山を望み、東に房総半島がある。人家も無く、自然が太古のまま自然が保全されていたとも言われる。
勿論、この新校舎小原台移転については、現場からも異論はあった。特に海上制服組の反発は大きくあり、海上訓練の観点で否定的な意見が相当数寄せられるも、断固として初志を貫徹した。
直接小原台に足を運び、学生の教育環境に最適の地として、小原台を選んだのが吉田茂首相と並ぶ重要人物である、初代校長の槇智雄である。サンフランシスコ講話条約後の複雑な国内外情勢の元で、新時代の士官候補生育成に心血を注いだ。
19万坪(65万平方メートル)の小原台新キャンパスに移転したのは、昭和30年(1955年)の事であった。ちなみに昭和29年7月には、保安大学校から防衛大学校と改称されていて、保安大学校の卒業生は事実上存在しない事になる。
雨が降れば泥濘と化し、乾けば黄塵万丈となり、植樹植栽等の環境整備の悪戦苦闘は、当分続いたと言われる。防衛大学校の緒施設は昭和20年代の終わりに、整備されたコンクリートの箱で、国軍の士官養成機関として気品と荘重さを欠くが、左右の政治思想が激しく対立した時代背景を、思えばやむを得なかった。平成の時代になってからは、校内の建築群は一新され、小原台のただ住まいは、ようやく列国の士官学校並みに整いつつあった。
さて、防衛大学校初代校長の槇智雄であるが、彼は慶應義塾大学の日吉キャンパスの基盤を確立するという、少し変わった経歴の持ち主である。とは言え、槇は文民であり自衛官ではない。その為、防衛大学校は世界に類を見ない前例の無い、文民の校長がトップと言う陸海空三軍統合の士官養成の学校として、産声をあげたのである。