航空自衛隊設立時の様子
発足当時、当面の航空自衛隊の定員は6738人で、旧陸軍から3129人と旧海軍から558人。残りは公募となった。また、発足当時の航空機は、全て練習機で計148機であった。
航空自衛隊では、設立当初のT-6プロペラ練習機による訓練に加え、1955年1月には、米国製のT-33ジェット練習機による訓練を開始。1956年3月にはF-86Fジェット戦闘機へと訓練は進む。F-86Fは、朝鮮戦争でソ連製のミグ15戦闘機と戦い、世界に名を馳せた名機である。この戦闘機の日本国内での生産についての交渉が日米間で行われて、1955年6月に交渉は成立。
第一次計画70機の費用のうち、3分の2を米国が負担し、米国で生産された部品を日本で組み立てると言うやり方を(ノックダウン生産方式)で1号機が1955年8月に完成する。1957年度からは、部品の段階から日本で組み立てる(所謂ライセンス生産方式)も始まっていた。この年には、初の戦闘航空団がF-86F戦闘機で編成されて、1958年4月から、北海道地区の領空侵犯に対するスクランブル(緊急発進)の態勢が始まったのである。1958年度のスクランブル回数は早速33回を数えたと言う。
少し長くなったが航空自衛隊の発足時の様子をザッと記載した。勿論、これにも理由がある。天野星也が目指す航空自衛隊と言う組織と、その幹部に成る為の要素がつまっている為である。防衛大学校に入る頃の天文学的な競争倍率を考えれば、大した事ではないのかもしれないが、それでもこれからの一生を左右する決定である事には違い無かったが、不安一杯の天野が航空要員に選ばれたと知った時は、心からほっとした。
運悪く別の希望外の配置に回されてしまう人間も少なくない中で、とりあえず一安心と言う所だろう。となると、自然と進む道も決まって来るもので、航空工学を選択科目として取り入れる事になる。
防衛大学校は、今でこそ人文学系の学科のある一般大学と大して変わらないようにも思われるかも知れないが、バリバリの理系大学である。