設立!航空自衛隊
この吉田茂首相の施政方針演説を受けて、保安庁は1954年2月1日、航空部隊創設準備の為の「航空準備室」を設けている。ここには、保安局長以下47名が集められているが、設立翌日の2月2日、副室長等は早速、米軍の航空顧問団と共に、米軍が使用中の日本国内の各飛行場を空中から視察。3月26日には、保安庁次長から、米国顧問団に対して、防府、水戸、松島、美保、焼津、立川の6ヶ所について、返還又は使用許可についての斡旋を依頼している。
4月23日には、米軍が管理していた宮城県・松島基地の日米共同使用が決定して、6月1日航空自衛隊創設準備の為、保安隊から選抜された隊員30名による「臨時松島派遣隊」が編成され、米軍は操縦教育開始に備え、教官要員を松島に派遣している。
臨時松島派遣隊の元、整備講習生38名、操縦生35名、松島で在日米軍によって編成された訓練部隊に教育を委託された。教材となった航空機は、米軍のT-6と言うプロペラ練習機で、旧陸海軍のパイロット経験者の技術回復、つまり飛行機操縦のカンを取り戻す事からスタートしたのである。
こうして1954年7月1日、防衛庁・陸上自衛隊・海上自衛隊の発足と共に、旧軍には無かった独立航空組織である航空自衛隊がスタートした。ウェインランド大将の書簡から僅か1年足らずで新たな組織が誕生した訳であり、またしても相当なスピードである。誕生と共に法律上は、領空侵犯に対する措置(自衛隊法第84条)が任務として与えられた。
臨時松島派遣隊は、保安隊から航空自衛隊に移管されT-6練習機による教育が続けられていた。また、保安隊の航空学校が置かれていた浜松基地も航空自衛隊に移管され、航空自衛隊の操縦学校、幹部学校、整備学校、通信学校等の発祥の地となった。