領空侵犯と航空自衛隊設立
そして1952年12月29日、ロバート・マーフィー駐日米国大使は、吉田茂首相との会談の中で「B-29撃墜事件以降、ソ連機の領空侵犯は47回に及ぶ」等具体的な情報を示している。
これを受ける形で日本政府は1953年1月13日閣議で次の方針を決定する。
「不法侵犯に対しては、直ちに駐留軍の協力を得て侵犯機を排除する措置を講ずる」
言葉は勇ましいのてあるが、戦闘機を一機も保有していなかったのであるから、具体的に何が出来たかは疑問である。ともあれ、この方針に合わせる形で、米国極東軍司令官からも、領空侵犯対処の措置をとるよう命令が出された事が公表された。
1953年2月16日には、根室上空を領空侵犯したソ連機2機を米軍機が迎撃し、相互に発砲する事案も生じている。こうした事態を受けて、米軍は更に日本側への働きかけを強めた。米国極東空軍司令官ウェインランド大将は、1953年8月保安庁次長に「独立空軍創設に援助を惜しまない」と、表現は控え目であるが、要するに「陸海とは別に独立した空軍を作りなさい」と言うメッセージと受け止めるのは自然な事であっただろう。
ここから、事態は風雲急を告げていく事になる。1953年9月12日ウェインランド大将が、保安庁長官に独立空軍の必要性を説く。1953年8月13日、米国極東空軍の中に、日本に対する助言窓口として、航空顧問団が発足。同年11月、米国国防省が保安庁に、「日本空軍建設支援計画」と言う文書を提示。12月1日、米国極東軍のハル司令官が、吉田茂首相に「米軍組織に類似した空軍組織を日本に創設する事が必要」と説いた書簡を出す。
こうした動きを背景に、吉田茂首相は航空自衛隊設立の方針を公にする。「保安隊、警備隊をそれぞれ自衛隊に切り替えると共に、航空自衛隊を設立し、自衛隊に直接侵犯に対処する任務を持たせる。」(1954年1月27日施政方針演説)