航空自衛力の確立
防衛庁(現在は防衛省)の実力組織は、陸海空各自衛隊である事は中学生でも知っている。
航空部隊の設立に関しても、米軍からの働きかけが大きく影響を与えている。勿論、陸上自衛隊の前身である保安隊や、海上自衛隊の前身である警備隊においても、空からの偵察の必要性等から、航空部隊の必要性がある事は、早くから認識されていた上に、準備も進めていた。
しかし、学校設立時に航空機を所有しておらず、米国陸軍の単発プロペラ機で、操縦訓練が開始されたのは、1953年1月からであった。一方、警備隊も1953年9月、館山に航空隊を設置している。こうした動きと並行して、旧陸軍軍人のグループと、旧海軍軍人のグループも、それぞれ米軍に対して空軍を作るべきだ。と言う構想を提出している。
その後、この2つのグループが改めて共同作成したのが「空軍建設要綱」及び「航空自衛力建設促進に関する意見書」と言う文書であった。
吉田茂首相に1953年11月に提出されたこの意見書には「発足しつつある保安隊と警備隊について、航空戦力を陸海戦力に付属する戦力として編成し、運用する構想から抜け出ていないのは、寒心に堪えない。」
と主張している。米国空軍が米国陸軍から独立したのは、第二次世界大戦後の1947年であった事を考えると、旧陸海軍の軍人グループが、独立した航空自衛力を主張したのは、この米軍の組織変革を意識していたのかもしれない。
日本の防空能力を強化すべきだと言う考え方は、米軍の極東情勢認識と通じていた。その背景には、1952年10月7日米国空軍のB-29爆撃機が、根室北東海上で撃墜され、乗員が行方不明になった事件があった。同年12月17日、米国空軍参謀長は、7月頃から外国軍用機による北海道上空への領空侵犯が目立ち始めたから、統合参謀本部議長あてに「日本の安全保障に対する最も緊急にしてかつ唯一の脅威は、共産主義国の航空脅威である。従って、早い時期に日本空軍の中核を確立すべきである。」
と言う内容の覚書を出している。