104.僕が復讐を誓ったあの日
ニルスの母親は、オレの乳母だったマルグレッドだ。母は子を育てる気などなく、皇帝に媚びを売るのに必死だった。そのため用意された乳母は、皇帝に忠誠を誓う騎士の一人娘だ。夫も騎士であるマルグレッドは、少し早く生まれた我が子を連れて城に上がった。
幸いにして、嫡男でもない僕に興味がない皇帝が子供部屋に来ることはなく、マルグレッドは無事だった。女と見れば見境なく、前を寛げただけで性行為に及ぶ父親と顔を合わせたら、彼女は役目を放棄して自殺したかもしれない。そのくらい貞操観念のしっかりした女性だった。
少しふくよかで、笑顔が柔らかい。手のひらがいつも温かくて、手を繋ぐのが好きだった。彼女が殺されるまで、僕は幸せだったと思う。
ある日、与えられた別館の部屋を出た僕とニルスは、長兄に見つかった。庭の片隅で花を摘む僕達に容赦のない攻撃を加える彼は、当時の僕から見たら十分大人だった。大きな腕を振り被る姿に、ただ震えるだけ。
身近な大人をマルグレッドしか知らない僕らは、抵抗できずに傷つけられた。一方的に叩かれ、殴られ、蹴られる。何が起きているか分からぬまま、少し体の大きいニルスが僕を庇うように壁に押し付けた。目の前で傷を増やすニルスの姿に、僕は泣き叫んだのだろう。声に気づいたマルグレッドが駆け付け、助かるのだと勘違いした。
だが違う。それは新たな惨劇の始まりだった。父によく似た性格と面差しの長兄は、まだ若いマルグレッドをその場で犯した。側近に足を押さえさせ、地面に押し付けられた彼女が悲鳴をあげて泣き叫ぶのを……ニルスと震えながら見るしかない地獄。やがて欲を吐き出した兄の隙を突いたマルグレッドが、腰の短剣を奪った。
貞淑な彼女は自殺するつもりだったのだろう。だが周囲はそう見なかった。油断させた皇太子を殺す気だと勘違いし、マルグレッドを刺した。止める間もない、一瞬の悪夢だ。真っ赤な血が吹き出す口元、胸にある傷には剣が刺さったままで……気を失ったニルスの下から抜け出た僕は、マルグレッドの手を握る。
震える手はいつもより冷たくて、その手が僕に懐中時計を強く握らせた。唇が震え、でも何も言えずに息絶える。乳母をただひたすらに見つめていた。それしか出来ない。その後の記憶は曖昧だった。ニルスと2人、復讐を誓うには十分な出来事だ。傷ついた心に寄り添うニルスを守るため、僕は常に長兄の前に立った。
二度と僕の周囲の大切な人を傷つけさせない。そう誓って戦ったつもりで……まさか同じことを考えたニルスも、あの嗜虐癖がある長兄の犠牲になったなど、想像もしなかった。
腹立たしさに任せて乱暴に水気を拭っただけで出てきた僕を見るなり、苦笑いしたニルスがタオルを用意する。椅子に腰掛けた僕の黒髪を丁寧に拭きながら、ニルスはぽつぽつと思い出を話す。その内容は、僕が思い返した過去と重なって溶け合った。だから僕達は復讐を決意し、決行したのだ。
あの日、彼女が僕に握らせた懐中時計は――僕の命を守ってくれた。まるで彼女が最後の力で僕を守ってくれたように感じたほどに、奇跡的な出来事で。取り出した傷だらけの懐中時計を、僕はニルスの手に握らせる。
「次はお前が持っていてくれ」