103.知らずに共有した傷
上着を渡したニルスと部屋に戻るなり、ニルスが肩のタオルを取り上げた。むっとして睨むが、そのくらいで怯むような男ではない。
「この傷、ずっと隠していましたね」
「古傷だ」
最近の傷ではないのだから、治療も必要ない。言い切った僕へ溜め息をついてから、ニルスはタオルで丁寧に髪を拭き始めた。顔が見えないように気遣ったのか、後ろから僕の髪や顔をタオルで隠す。
「風呂に入るからいい」
そこまで丁寧に拭いても、また濡れる。淡々と口にして、遠回しに出ていくよう仕向けた。僕が入浴する際は絶対に同席を許さない。手伝いの侍女も不要だ。これは子どもの頃からの決まり事だった。
「ならば入浴のお手伝いを」
知っているくせに願い出たニルス。この傷がどこまで広がっているのか、興味があるとでも?
頭のタオルを引っ張って落とし、濡れたシャツを乱暴に捨てた。破れた音が響くが気にならない。
「っ!」
「気が済んだか? ならば下がれ」
立ち尽くすニルスを残し、扉の向こうから風呂の湯が用意できたと告げる侍女に返事をして歩き出す。誰もいない浴室で、震える息を吐き出した。
「くそっ」
見せるつもりじゃ無かった。直前のトリシャとの濡れながらの散歩も楽しくて、浮かれていたんだと思う。自分の傷が濡れて透けていることを失念し、上着を脱いだ。目を見開いたニルスの様子で焦り、振り返ったがトリシャはソフィと歩き出していた。僕の傷に気づかなかったのか?
ほっとしながらも、無言になったニルスの態度に失敗したと臍を噛む。こんなに気が緩んでいたなんて。無視して部屋から追い出そうと思ったのに……。
本当は彼にも関係があるから、話しても構わなかった。だが同情や後悔の感情を向けられるのは嫌だ。だから黙っていた。出来たら誰にも触れてほしくない傷なのだ。
肩から肘にかけて走った切り傷、背中に無数に散らばる鞭の痕、脇腹に残る刺し傷。どれも過去のもので、今の皇帝ヴィクトルを形成する僕自身だった。生き残った僕が傷を恥じる事はないが、誰かに感情を向けられる傷であってはならない。誰かと共有する気はなかった。
土足で踏み荒らすニルスの言動に腹が立ち過ぎて、大人げない対応を取った。後で謝るか、それともなかったことにするか。考えながら湯船に浸かる。冷え切った手足がじわりと熱を帯びる間、痺れるような感覚が広がった。
ガチャ、扉の開く音に顔を向けると……ニルスがいた。咄嗟に背を隠すように位置を変える。
「申し訳ございませんでした」
「下がれと命じたはずだ」
混乱の中で絞り出した言葉に、ニルスはするりと己の服を脱いだ。それから無言で背を向ける。シャツで隠れていた背中には、無数の傷痕――まさか!?
「お前、も?」
「ええ。母が庇ってはくれましたが、ヴィクトル様にも及んでいたとは……」
知らなかった。そう告げる側近の背に刻まれた傷に、僕の視線は釘付けだった。彼の顔が見えず、僕の表情もニルスから確認できなくて良かったと思う。きっと今の僕は皇帝じゃない。あの頃の、傷つきやすい子どもの顔だっただろう。
「話は後だ」
掠れた声で絞り出した後、顔を隠すために風呂の湯を頭から被る。濡れて張り付いた前髪を拭うふりで、僕は視線を背けた。